シロクマ文芸部| ビロード
誕生日には無花果を買うと決めている。
店先に並んだ紫色の薄皮を撫で、その下に沈む、みっちりとした実の重みを確かめる。爪でかすかにひっかくと、香りが割れ目からにじんでしまうから注意しなくてはいけない。息をひそめてレジに並ぶ。胸の奥が疼く。誕生日はひとりきりでいる。
特別に美人ではないのに不思議に美しいと感じさせる人がいるけれど、無花果はそういう種類の果物だ。
ワイン色のビロードのコートを着た女のような。沈黙をたたえ、聡明で無愛想でも冷淡でもない、うっすらとあたたかい方へ傾いているように感じられるまなざしの。
見つめているだけでも、わたしの中のおぼろげで頼りなく、不明瞭なまま放置していた領域がとろりと剥げ落ちてしまう、そんな地上のものではない聖なるもののみが放つ美しい人。
彼女は誰にも見せない花を内側にしまい込んでいる。
わたしたちの行為の全てに目的があり、苦労や努力が失敗に終わっても、そこへ情熱を注いだ時間だけは意味を持つ、だから迷うことはないという落ち着きを赤黒い果実に染みわたらせている。
流し台で無花果を手にとり、蛍光灯にかざす。
静脈をはりめぐらせたような薄膜が透け、みずから発光しているのではないかと見まちがえるほど輝かしい果実が呼吸しているのが見える。なめらかな肌触りには幼い頃の懐かしい記憶が宿っている。
母の指だ。
無花果を洗い、皮を剥き、台所に立ったまま果実の真ん中に指を差し入れていた母の濡れた指。
声をかけると、「いま、いいところ」と囁くような声がして、幼いわたしに振り向きもせず空っぽの視線がほの暗い空虚に投げかけられた。
そのときわたしは、恍惚とした表情でただ立ちすくむという、それだけの状態でいる母の背中が、ほんとうの彼女のような気がしたのだった。
重力に従って、ただこの世に無力に浮かぶという在り方。
緑の葉を鬱蒼と茂らせ、秩序なく伸びた木の枝に、果実は吊り下がるばかりで、どこまでも無力であり、言葉を持たずに沈黙し、熟成する。
それは、かつて羊水に浮かぶ胎児であったことをわたしに想い出させた。
母が亡くなったとき、棺の中の顔を見ながらわたしは、人間の肉体も花を咲かせるための果実のようにできているのかもしれないと思った。
無花果には果実の内側に無数の花が咲いている。花粉を運ぶ小さな虫が割れ目に入り込み、受粉をして実が生まれる。
死んだものが小さな沈黙の中で、いのちの種になる。
生誕、その瞬間こそが崩壊へ向かう旅路の始まりでもあるように。
ステンレスの冷たい流し台に立って、母のように無花果に指を沈める。
密集した果肉の粒が指に吸いついてくる。
弾力のある果肉を裂くと時間が解けてゆく。
やわらかい膜を押し分けて指が進むたび、どこかで母の陶酔したような声が聞こえる。いま、いいところ。
記憶が果実の奥で泡のように立ちのぼり、何百もの花がいっせいに咲き、重力から解放された、ぬるく透明な羊水のなかで、わたしはもう一度呼吸を始める。
唇を寄せる。
果肉が舌にほどけ、ビロードの薄皮がわたしを飲みこむ。あたたかい光の蜜が体内をひたひたに満たす。
わたしは無花果を食べ、無花果はわたしを食べる。
掌からこぼれ落ちた甘ったるい果汁が腕をつたい、聖なるものの匂いを放ちながらとろりと床に落ち、崩れゆく。
わたしの輪郭を溶かし、わたしを世界の中へ溶かし込み、再びそこへ送り戻すように。
わたしを包み、わたしの中へ侵入し、わたしを抱きしめ、わたしをかき混ぜ、わたしをひっくり返し、再びわたしを誕生させるように。
#シロクマ文芸部「誕生日」に参加させていただきました✨
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