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掌編  Lithiumと6時の鐘

Lithiumと6時の鐘     2000字

シャルル・ド・ゴール空港のイミグレは相変わらず混雑していた。
莉子はハルの不在が悪い冗談のような気がしてポケットを押さえてみたけれど、そこにはちゃんとiPhoneの大きさだけ膨らんでいて、もう一度残されたメッセージを確かめる。

──ボクは不合格だった。ごめん。

何度読み返しても同じだった。そこには、どんなにもがいても取り返しのつかない深い亀裂が横たわっていた。懐かしい風景も記憶もなく電波さえ途絶えているようだ。
たった一行のメッセージに莉子はほとんど考える力を奪われた。

パリ行きのバスに乗りこみコバルトブルーのシートに躰をしずめると、莉子は手のひらが痛むほど強く握った。こうすると少しだけ安心できると知っていたからだ。

わたし、なにもかも失ったの?──

ハルが座るはずだった空席側の窓の向こうに、数えきれないほどの鳩が騒がしく飛んでいった。

サンジェルマン・デ・プレ教会の前でバスを降りた。
3月のパリは靴底から冷気がのぼり、ステッカーだらけのキャリーケースが石畳の路地を砕くような音をあげ、莉子の内臓を突き抜けた。夕方6時にアパルトマンの鍵を貰う予定だった。あと1時間しかない。

古本屋に隣接する赤い壁のカフェを通ったときだった。テラス席に座るひとりの東洋人と目があった。
ロングコートを着たその人は『すべて失われる者たち』というタイトルの本を持っていた。テーブルに並々と注がれたカフェ・クレムがのっている。

そして、ふと魔がさしたから顔をあげたけれど、別にあなたに興味があるわけではないのですという素振りをして、その人は読んでいた本に静かに視線を戻した。

本のタイトルに目を奪われた。突き落とされたような淋しさを感じて莉子の足がとまり、ふらふらと吸い込まれるように店に入るとショコラ・ショーを頼んだ。
カフェの喧騒に紛れて天井のスピーカーから古いロックが流れている。莉子はやっとため息を漏らし、モノクロ映画を観るように想いを馳せた。

15時間前、成田空港の出発ゲートに着くと莉子のLINEが鳴った。

──ボクは不合格だった。ごめん。

一瞬、嘘だと思った。電話しても通じなかった。悪戯いたずら好きのハルが壁に隠れてわたしを笑ってるんじゃないの? だって…… やっとここまで来たのに。


パリ行きはハルが誘ったことだった。

「いつか自分のお店を出すんだ」

彼がフレンチの料理人として本場で経験を積みたいと言ったのは2年前の春のことだ。恋人のハルが料理人を目指すという意外な展開に莉子は急速に惹かれた。

親の勧めで入学した大学はつまるところ、お嬢さまだけがゆるされる場所のような気がして居心地が悪かった。余裕という環境。社会への従順さ。それが保てない者は路頭に迷っているように見え、莉子もそのひとりだった。
好きな道を進んで一生懸命生きているだけなのに、なぜそれがゆるされないのだろう──不透明な行く末に絶望さえしていた。

ここじゃないどこかへ行きたい。でも、どこへ?──誰か連れて行って。
心の隙間を埋めてくれたのがハルの存在だった。


「なぜ料理人なの?」莉子が訊くと

「意味なんてないよ」ハルはこたえた。

「人生なんてただのゲームだ。うまくやろうぜ」

ハルの軽薄なほど明るい声が莉子には頼もしかった。

未来に情熱を抱けなかった莉子は、夢という甘い響きを欲した。
卒業後、莉子はパティシエールとして、ハルはフレンチの料理人として活動するために準備を重ねた。本場のメゾンの就職試験は簡単ではなかった。調理科目だけでもハードで、語学も身につけなければいけない。ふたりは面接とビザ獲得のためにいくつかのメゾンで厳しい試験を受けた。

本気だった。日本では深夜のバイトをこなし、ギリギリまで節約した日々を送ってきた。大好きなおしゃれも夏のフェスも諦めた。それでも、ふたりの夢のためなら耐えることができた。いつの間にか莉子は、両手を強く握るとすべての感情が麻痺することを覚えた。

年明け、ついに希望のメゾンから連絡を受けた。ふたりで暮らすアパルトマンを見つけ契約した。やっと手に入れた夢の実現は莉子をこわいほど幸せにした。
なのにハルはメッセージひとつで終止符を打ったのだ。

なにが悪かったんだろう──。

裏切り、という言葉が莉子の脳裏に浮かんだ。深海に堕ちてゆく果てのない妄想から逃げたくて、痺れるほど掌を握った。

さっきの東洋人が席を立った。
そのとき、店のスピーカーからニルヴァーナの「Lithium」リチウムが流れた。心を麻痺させた夜に、ハルと聴いた曲だった。カート・コバーンが「I'm so happy」と歌う。けれど少しも幸せそうじゃない、やるせない歌。

映画のエンドロールが流れ観客席を去るように、ゆらゆらとロングコートが路地に消えていく。
空いたテーブルに一冊の本が残され、遠くで6時を知らせるサンジェルマン・デ・プレ教会の鐘がめまいのように鳴り響いていた。

 了


二〇〇〇文字以内の短編小説『すべて失われる者たち文芸賞』に参加させていただきました。主催されている花澤薫さま、このような機会をくださりありがとうございました。

P.S    主催の花澤薫さんの短編小説集、「すべて失われる者たち」。海外文学のようなシャープな文体と物語のビターな余韻が素敵です。


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