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掌編 エメラルド   

海を拾った。駐車場のフェンスの下に転がっていたガラス状の球体の海のなかに海藻がゆらゆらしていた。掌に神聖な重みを感じた。文鎮にちょうど良さそうだ。コートのポケットに入れ、持ちかえった。

書類の山の上に海の塊を置いた。海は場所が変わったことを察し、透明だったエメラルドグリーンが黒っぽく翳り、塊の下のほうから白い粒子を浮かせた。粒子は無重力なのか呼吸するように中心から拡張する。スノードームみたいだ。

わたしは顔を近づけ飽きずに眺めた。海というより宇宙だった。漆黒の天体に夥しい数の流れ星が墜ちてゆくのが見えた。

書類は毎日届いた。そのほとんどが、わたしの人生にどう関連するのかわからないものだ。郵便受けに、鞄の奥に、道端に、際限なくやってくるそれら に目を通すことなく部屋の隅に積み重ね、海で押さえた。

書類は増えつづけた。紙屑だと思った。そのたびに海を移動させた。動かすと海は粒子を浮かせ、さまざまな色に輝いた。

海は夜になると月の光りに反響して、白く発光したり暗くなったりした。ぼんやりとした点滅が、部屋が、夜の空ぜんたいが、揺れながら呼吸しているようだった。

このリズムをどこかで知っている、とわたしは想った。
ベッドのそばに置きライト代わりにした。
球体の海は、サラサラとしたさざなみの音をたて、遠くに霧のような汽笛が鳴っていた。鼓膜にその音を届けながら、たゆたう夜、わたしは深い呼吸でぐっすりと眠るのだった。

書類は溜まりつづけた。
崩れ落ちそうな紙の塔のてっぺんに海を移動するとき、ずいぶん軽くなっているのに気づいた。手触りもふにゃふにゃとして輪郭が曖昧になり、ガラスの球体というより手垢のついた大きなスライムみたいだ。

拡大と縮小を繰り返す吐息のような動きもなかった。海は、濁った漆黒のまま沈黙していた。

同時に、わたしの躰は変化しつづけた。
みるみる痩せ、皺が増え、肌も乾燥してあちこち痒くてたまらなくなった。ほうれい線は深く刻み、鏡を見るたびに下がってゆく頬のせいで毎朝メイクをするのが嫌になり、だれにも逢わずにいた。

恋人から連絡が途絶えた。わたしは相手を想う気持ちすら忘れてしまったようだ。カラカラに渇いたわたしの躰は、噛み合わない心を置いてきぼりにした。

生理が止まった。自慢だった艶のある長い髪が痩せ、針金みたいになるのは気が滅入った。すっかり細くなった青白い腕で頭皮マッサージをしながら、だんだんとひどくなる耳鳴りやめまいも、すべて海の濁りと関連しているのだろうと想った。

子どもが生まれないのは海が消えているから── とニュースに流れるようになった。
海面水位が下がり、魚たちが激変している。
はやく海を還そう。── 誰かが声高に叫ぶ報道が絶えない。

だれも悪気はなかった。
あの深い深い呼吸で、眠りたいだけだった。

ひさしぶりに海に顔を近づけると、グロテスクな色のグミみたいになっていた。不透明で、手垢だらけで、神聖さが消えた重い塊。

なにより生命の営みが感じられないことがわたしを突き落とした。
べったりした鉛色の怖いような海のなかで、動く生き物の気配がひとつも見当たらないのだ。海藻の影も、小魚の鱗さえもなかった。

目を凝らすと、海の内側に “わたし” がいた。
こちらを凝視している青白い顔にぎょっとして、手から堕とした。

堕ちた衝撃に揺らいだ球体のなかに白い粒子が無数に出現した。紙屑に似た粒子が粒子とぶつかり合い、破裂して小さな竜巻になった。
やがて散り散りに砕け、広がり、光を点滅させながら鮮やかなエメラルドの中へと溶けていった。

電車を3回乗り換え、海を還しに行った。
わたしは、コートのポケットにおさまる海がガラスの重みを復元し、おぼろげに光を取り戻しているのを掌で確かめた。

膨らんだポケットが点滅している女たちと乗り合わせた。車内で目が合うと、それぞれが黙って頷いた。

──還そう。
──還そうね。
──眠りたいね。
──息がしたいだけ。

海岸沿いの最終駅に到着した。
海面がきらめく西陽を撒き散らしていた。
わたしは点滅するポケットの女たちと一緒に、痩せほった躰を引きずりなが
ら列をつくり、さざなみに向かった。 




短い物語りとエッセイを書いています。


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