THE SOUL OF THE IMAGE 撮影監督フレデリック・エルムズ
聞き手:リー・クライン(クライテリオン・コレクション)
2026年6月22日(イタリア、ボローニャ映画祭にて)
リー・クライン こんにちは、お越しいただきありがとうございます。リー・クラインと申します。クライテリオン・コレクション(Criterion Collection)の者です。フレッドとは以前に何度も会ってますね。確か最初は、Blu-ray版『アイス・ストーム』のグレーディング(色調整)作業の時だったと思います。それと同時に私は『惑星ソラリス』の作業も進めていました(覚えていらっしゃるかわかりませんが)。その際、映像をどう見せるべきかについて、あなたに助言やアイデアをいただいたんです。
フレデリック・エルムズ あれは良い思い出です。『惑星ソラリス』のオリジナルであるロシア版は、私が大好きな映画でしたから。本当によく見ていましたし……。そこで議論になったのが、デジタル版でオリジナルの画質を再現するにあたって、劇中のモノクロのシーンに見られる色味――少し緑がかっていたり、あるいは監督の意図で黄色っぽくなっていたのか、それとも現像所での単なるミスだったのか、という点でした。
クライン そうでしたね。
エルムズ 私は純粋主義者として、撮影監督は可能であれば「完全なモノクロ」を望んだはずだと考えていました。というのも、現像所ではフィルムを完璧なモノクロにできない場合があるからです。モノクロとカラーが混在する映画の場合、全体をカラー用フィルムに焼き付ける必要があり、どうしても色味がついてしまうことがあるんです。必ずしもそうとは限りませんが。
クライン あの時は本当に助かりました。タルコフスキー作品はどれも、そうした点を確認する必要がありましたから。『アイス・ストーム』から15年〜20年ほど経った今、こうしてお会いしているわけですね。昨晩は『ワイルド・アット・ハート』を上映しましたが、とても盛り上がりました。あなたがインドへ行かれる前の数ヶ月間、私たちが取り組んでいた作品です。インドでの活動についても、後ほどお話を伺います。あなたについて調べていると、興味深いことが次々と出てきて、まるで「ウサギの穴」に迷い込んだように奥が深いですね。本当に多岐にわたる仕事をされてきたのですから。テレビ作品では『オリーヴ・キタリッジ』や『The Night Of』を手がけられましたね。ミュージックビデオではR.E.M.、マイケル・ジャクソン、ゴーゴーズ、ラナ・デル・レイ……他にもまだありますよね。マイケル・ジャクソンの映画『ムーンウォーカー』、イヴ・サンローランやカルヴァン・クラインのCMも手がけられました。数多くの監督と仕事をされてきましたが、何と言ってもデヴィッド・リンチ監督とは『イレイザーヘッド』を皮切りに、『ブルーベルベット』、『ワイルド・アット・ハート』と続きました。アン・リー監督とも時間をかけて関係を築き、3本の映画を共にしました。そしてもちろん、ジム・ジャームッシュ監督とも『デッド・ドント・ダイ』、『ナイト・オン・ザ・プラネット』、『コーヒー&シガレッツ』、『ブロークン・フラワーズ』、『パターソン』など、数多くの作品があります。最新作の『ファーザー マザー シスター ブラザー』も。本当に多くの映画を、特にジムとは数多くの作品を作ってこられました。そのあたりについて詳しくお話を伺いたいと思います。他にもジョン・カサヴェテス、ミーラ・ナイール、マーサ・クーリッジ、チャーリー・カウフマン、トッド・スワンソン、ティム・ハンターなど多くの監督と仕事をされており、まさに素晴らしいキャリアです。おめでとうございます。さて、あなたの映画におけるヒーローは誰でしたか? 映画を作り始める前に、憧れの存在はいましたか? 映画を見始めた初期の頃のヒーローです。
エルムズ 主にヨーロッパ映画から影響を受けました。私は映写技師の仕事をして学費を稼いでいたんです。NYU(ニューヨーク大学)の映画学部や、ロサンゼルスのAFI(アメリカン・フィルム・インスティテュート)で働いていました。映写技師の仕事で生活費を賄うことができたんです。おかげで、それまで存在すら知らなかった素晴らしい映画の数々を見ることができました。ベルイマンの映画や、私のヒーローである撮影監督スヴェン・ニクヴィストの作品です。彼の長年にわたる撮影技術は、私の仕事に非常に長い間、大きな影響を与えてくれました。そう言えるでしょうね。スヴェンは私にとって本当に重要な人物でした。
でも、その一方でジョン・カサヴェテスの映画もありました。彼はインディペンデント映画の作り手でした。ハリウッド映画の俳優として名声を博しましたが、やがて自らの流儀で独自の映画を制作する道を選びました。そうすることが可能だったから、そして何より、そうする必要があったからです。あの荒削りで、ある種大胆とも言える彼の作品は、私自身の創作活動にも大きな影響を与えました。『アメリカの影』や『フェイシズ』などがその例です。
クライン ニューヨークには「クライテリオン・クローゼット」がありますが、あなたもそこで動画を撮影されたそうですね。そこで最も頻繁に手に取られる作品の一つが、ジョン・カサヴェテスの映画、それも彼の作品をまとめたボックスセットなんです。映画作家たちに与えた彼の映画作りの影響力は、本当に驚くべきものです。さて、ジョンの話が出ましたが、次はデヴィッド・リンチの話をしましょう。デヴィッドとはどうやって知り合ったのですか? 確か、一緒に映画学校に通っていたんですよね。廊下で偶然出会ったのですか? それとも掲示板に「撮影監督募集」の付箋でも貼ってあったのでしょうか? どういう経緯だったのですか?

エルムズ 私がいた頃のAFI(アメリカ映画協会)は、ごく小さな組織でした。各学年とも学生は25人か30人程度しかいませんでした。デヴィッドは別の撮影監督と映画『イレイザーヘッド』の撮影を始めていました。しかし、このプロジェクトが長期にわたるものになることが明らかになってきたのです。デヴィッドの仕事は非常にゆっくりと、かつ綿密に進められるものでしたし、もう一人の撮影監督だったハーバート・カードウェルは、やがて収入になる仕事に就かなければならなかったからです。そこで、私が実質的に後を引き継ぐことになりました。彼らの作業の様子を見ていて、クルーに加えてもらったのです。学生映画のクルーですから、せいぜい6人程度の体制で作業していました。ですから、進み具合はゆっくりでした。でも、デヴィッドと私はその過程で親しくなりましたし、物事を徹底的に、慎重に進めるという点でも意気投合しました。それが私たちの仕事への取り組み方だったと言えるでしょう。

クライン 先日、同僚と話していたのですが、話題の一つになったのは「当時のデヴィッドはどんな人だったのか」ということでした。彼は、後に知られるようになるあのデヴィッドのままだったのでしょうか? 彼に対する最初の印象を教えてください。
エルムズ 私が彼を知る長い年月の間、デヴィッドの態度はほとんど変わりませんでした。彼はもともと画家としてスタートし、映画制作を続ける間もずっと絵を描き続けていました。彼はあくまでもアーティストであり、画家であり続けたのです。しかし、細部へのこだわり、あらゆる些細なことを完璧に仕上げようとする姿勢は、絵画の世界から映画制作の世界へと持ち込まれたものでした。そして、それを単にスケールアップさせたのです。『ブルーベルベット』のように、より大きなクルーと長いスケジュールを要する映画であっても、デヴィッドは納得するまで時間をかけました。細部も色彩も、すべて彼の望み通りに仕上げていったのです。少し時間を遡って、私が見つけた短い映像クリップを見てみましょう。最初のクリップを流していただけますか?
(リンチのインタビュー映像)
Q 最初からモノクロ映画にするつもりだったのですか?
A 間違いなく、モノクロ映画のような物語でしたね。
Q フレッドとは、撮影スタイルや照明について話し合って決めたのですか?
A 私たちが撮影を始めてから9ヶ月後にフレッドが加わりました。それまでの9ヶ月間は別のカメラマンが担当していましたが、その後フレッドが入り、彼はそこから4年間にわたって撮影を担うことになりました。実際には2年半ほど撮影していましたね。ええ、本当によく話し合いました。主に「ムード」についてですね。その後、彼らが照明などの具体的な作業を進めていくわけですが……。
エルムズ あれはまさにデヴィッドの個人的なビジョンそのものでした。彼が物事をどう捉えたいか、という表現だったんです。もう一人の撮影監督であるハーブと私は、そのアイデアを形にするためにそこにいたという感じでした。それに、モノクロフィルムという点もあります。モノクロは照明を当てるのが最も難しいと言われていますから。カラーフィルムなら色そのものが被写体を際立たせてくれますし、多くの場合、彼らはフラットな(平坦な)画を求めていましたからね。今はスピード重視の時代ですが、当時は本当に時間がかかりましたし、照明を作るのも大変でした。まるで常に別世界にいるような感覚でした。しかも夜間の作業でしたから、周囲はものすごく静かで、誰もいませんでした。照明がセットされると、その「ムード」はフィルムの中だけでなく、私たちが作業しているその場にも漂っていました。本当に素晴らしい体験でしたし、彼らは見事な仕事をしていましたよ。本当に良かった。ただ、ディテールにこだわる二人の人間にしては、私たちの髪型については少し奇妙な感じでしたけどね。
クライン その時点で、何か特別なものになると感じていましたか?
エルムズ 私たちはただ、完成させることだけを願っていました。デヴィッドは期間について少し大げさに言ったりもしていましたが、実際、完成までにはトータルで4年ほどかかりました。撮影は「リトル・ビッグ(Little Big's)」で行いました。デヴィッドが夜型のスケジュールだったので、撮影は夜だけでした。私にとっては好都合で、昼間は学生として過ごし、夜通し撮影ができましたから。ハードなスケジュールでしたが、そうやって進めていったんです。最後の1、2年は、とにかく持ちこたえて、デヴィッドの制作意欲を維持させることに尽きました。デヴィッドは、この映画を待っている観客が間違いなくいると感じていましたし、いつか必ず完成すると心から信じていました。私たちもそれを支えるためにそこにいたのです。ただ、資金をどう調達し、どこから捻出するのか、そして完成までにどれほどの時間がかかるのかといった点には、多くの疑問や懸念がありました。とはいえ、ある意味ではどんな映画制作にも言えることかもしれません。最初は誰もが、とてつもない熱意を抱いてプロジェクトに飛び込みます。素晴らしい夢やビジョンを胸に、何とかして完成させようとするわけです。そして、ひとたびその「旅」が始まれば、しっかりと身を任せ、流れに身を委ねるしかありません。映画制作の最中には、その作品が最終的にどんな形になるのか、どこへ向かうのか、あるいは誰かに観てもらえるのかさえ、本当のところは誰にも分からないものだと私は思います。ただただ祈りながら、すべてが思い描いた通りにうまくいくことを願うだけです。映画が完成し、世に出た後は、もうどうなるか誰にも分かりません。作り手としては、作品を世に送り出し、手放さなければならないのです。

クライン ロサンゼルスでデヴィッドとカラーグレーディング(色調整)の作業をしていた時、私は初めて彼と顔を合わせました。その際、デヴィッドに対しては言葉を慎重に選ぶ必要があるとすぐに気づきました。あれこれと質問攻めにするのではなく……。
エルムズ 本当に慎重に、質問の仕方に気をつける必要があります。何かを責めるような口調ではなく、あくまで尋ねるような言い方をするんです。ある時、文字通り1分間ほど何も見えなくなるような場面がありました。私は事情を知らなかったので、「デヴィッド、すごく暗くて何も見えないよ」と言ったんです。すると彼は、「大丈夫だよ! これでいいんだ、まさにこうあるべきなんだから!」と答えました。私はすぐにそのことを学びましたね。
クライン 『ブルーベルベット』で、ジェフリーがアパートに忍び込んで見つかってしまうシーンの照明について、デヴィッドと似たようなやり取りをしたのを覚えています。記憶にありますか?
エルムズ ええ。デヴィッドの映画には、彼にとって「暗さが足りない」と感じられる瞬間が必ずあるんです。私にとっては十分暗かったんですけどね。普通は撮影監督の方が暗くしたがるものですが、監督自身が暗さを求めていました。デヴィッドは、あの深い闇のような影の中で夢を見ているような人ですから。『ブルーベルベット』のプレミア上映でデヴィッドの隣に座っていた時、思わず叫んでしまったことがありました。「デヴィッド、何も見えないよ。何が起きているかは分かるけど、姿が見えないんだ」って。すると彼は「ああ、最高だろ」と。だから、監督のビジョンに従うしかないわけです。私たちがそこにいるのは監督に尽くすためであり、そうするのが一番うまくいくんです。

クライン 『イレイザーヘッド』の制作中、ジョン・カサヴェテスとの撮影を行う時間も作っていましたよね。どうやって両立させたのですか? あと、ジョンとはどうやって知り合ったのですか?
エルムズ ジョンとはアメリカン・フィルム・インスティチュート(AFI)で知り合いました。私がそこにいた時期の一部で、彼は「フィルムメーカー・イン・レジデンス(滞在映画作家)」として活動していたんです。彼はAFIと契約を結び、編集室やオフィスを使って自身の制作プロジェクトを立ち上げようとしていました。サンセット・ストリップにある小さなクラブのオーナーを主人公にした『チャイニーズ・ブッキーを殺した男』という映画を撮ろうとしていて、裏社会を扱ったものでした。ロサンゼルスのナイトライフ、その世界の裏側を描いた作品です。ジョンとは以前、別の映画『こわれゆく女』という作品を通じて間接的に知り合っていました。彼は私のことを覚えていて、ある日AFIで私がうろうろしていた時に声をかけてきたんです。「実は今、映画を企画していてね。カメラオペレーターが必要なんだ。照明も手伝ってほしい。一緒にやらないか?」と。私は即答しました。「もちろんです。他のことは全部放り出してやります」とね。それでデヴィッドに『イレイザーヘッド』の仕事を少し中断して、その別の仕事を受けるつもりだと説明したんです。 「ひと稼ぎして戻ってくればいい」と考えたんです。デヴィッドもその案に乗り気で、賛成してくれました。素晴らしいことでした。『イレイザーヘッド』の準備を進める中で、私はそれとは正反対の作品、ジョン・カサヴェテス監督の『チャイニーズ・ブッキーを殺した男』の撮影に参加しました。以前からその監督の作品を知り、愛好していた私にとって、彼が助けを求めているまさにその時、その場所に居合わせられたのは本当に幸運でした。
クライン 最高のチャンスでしたね。『マイキー&ニッキー』にも少し関わっていたそうですね?
エルムズ あれもそうでしたね。
クライン あれは『ブルーベルベット』よりも前でしたっけ? では、この映画のクリップを見てみましょう。
(『ブルーベルベット』のオープニング)
クライン 何と言えばいいのか……観るたびに、素晴らしい要素が詰まっていると感じます。本当に素晴らしい。冒頭のシーンが、その後の展開をうまく予感させていますよね。最初は牧歌的な雰囲気なのに、そこから続く2時間は恐ろしい展開になっていく。デヴィッドは『デューン/砂の惑星』を撮った後でしたが……『デューン』については誰もが知る通り、いろいろありましたよね。あの後、デヴィッドはどういう心境だったんでしょうか? あの経験のせいで、もう誰にも邪魔されずに自分のやりたいことをやりたい、と考えていたのでしょうか? その間に『エレファント・マン』も撮っていて、あれは興行的にも大成功を収めていましたが、『デューン』は非常に壮大な物語でしたしね。

エルムズ デヴィッドはディノ(・デ・ラウレンティス)やユニバーサル・ピクチャーズから多大な支援を受けていました。しかし、彼には『デューン』の奇妙な登場人物たちを扱った、極めて壮大なアート映画の構想があり、それを自分のやり方で実現したいと考えていたんです。そこで対立が生じました。その結果、次の契約では『ブルーベルベット』を制作することになったのですが、あくまで「自分の条件で」作るという形になったわけです。小規模な製作でありながら、彼自身のやり方で進め、映画の最終的な決定権――編集や音楽の最終判断――を彼が持つ形でした。『ブルーベルベット』はディノは彼に完全に任せきりでした。プロデューサーたちは口出しせず、彼は製作に必要なあらゆるサポートを得ることができたのです。
クライン それは私たち全員にとって、間違いなく良いことでした。このオープニングについて私が最初に尋ねたいのは「どうやってこうしたアイデアを思いつくのか」ということです。あなたは「すべて脚本に書かれている」と言いましたよね。
エルムズ このケースでも、デヴィッドが書き出したイメージ――白い柵やバラといった要素は、物語の最初の数ページにすでに記されていました。消防車やダルメシアンもそうです。「スローモーションで」といったト書きさえありました。実際にそう書かれていたかは定かではありませんが、その瞬間を捉えた描写があり、私たちはそれを映像として具体化し、彼のために実現したのです。物語の導入部を、明るく陽気な雰囲気にするために。
クライン 物語はかなり暗い展開になりますからね。でも、どうやってカメラを草むらの中に入れたりしたのか、ずっと不思議に思っていました。
エルムズ それほど難しいことではありませんよ。

クライン 素人や観客の視点からだと「どうやっているんだろう?」と思ってしまうんですが。あなたは私が「どうやって?」と尋ねるといつも「それほど難しいことじゃない」っておっしゃいますよね。たしか『ワイルド・アット・ハート』でもそんなことがあったような……『ワイルド・アット・ハート』の話は後ほど詳しく触れますが、ニコラス・ケイジが歌うシーンをスローモーションで撮った時のことについて伺いたいんです。以前、興味深いお話をされていたのを覚えていますので。アナモルフィック・レンズを使って撮影されたのは、『ブルーベルベット』が初めてだったのでしょうか?
エルムズ そうなんです、あれが私にとって初めてのアナモルフィック作品でした。あの独特のワイドスクリーンならではの雰囲気がずっと好きだったので、とてもワクワクしましたね。構図の可能性が大きく広がりますし、特に会話のシーンではそれが活きてきます。本当に気に入っていました。大好きでしたね。
(『ワイルド・アット・ハート』から車上でニコラス・ケイジが踊り出す一連のクリップ)
クライン ここは映画の中でまさに思い描いていた通りの展開になった瞬間のひとつです。悪党から逃げ回る二人の恋人。この映画はロマンスであり、ラブストーリーであり、ロードムービーでもあります。
エルムズ このシーンは危うく撮影を逃すところでした。ロケ地はテキサスの平原で、車がどこに停車するか、クレーンショットをどこまで上げるか、日没の時刻まで全て把握していました。ところが、その日の午後は、ガソリンスタンドのシーンを撮影した後、何マイルも離れた別のロケ地まで急いで移動し、決められた時間までに日没を迎えなければならなかったのです。本当に危うく間に合わず、撮影は中止になるところでした。もし曇り空だったら、全く違う結果になっていたでしょう。本当に幸運でした。時間通りに現場に着き、クレーンにカメラをセットしてリハーサルをしました。ニック・ケイジは宙返りを3回もやってくれました。 日没前に3テイク撮って、彼は「終了」と言いました。でも、すべてがうまくいったので、私たちは幸運でした。夕日に染まって音楽が加わると、物語を語るあの瞬間が生まれるんです。あらゆる要素が詰まっています。撮影中は、毎日2週間もそこにいるみたいだと冗談を言い合っていました。デヴィッドは光の拡散が本当に好きだったとか、炎が本当に好きだったとか、オープンカーが本当に好きだったとか、そういうことがお決まりのジョークになっていました。高速道路の中央分離帯も好きでしたね。彼は高速道路の中央分離帯が大好きだったんです。でも、音を抜きにして考えてみると、彼はシーンの途中で大音量のロックンロールを流すのも本当に好きだったことを今思い出しました。昨夜、映画を観ていて、ふと思ったんです。
クライン 燃えているタバコや火をつけているタバコのクローズアップがたくさんありますね。タバコに火をつけるシーンを何日もかけて撮影したんですか?
エルムズ 1日、それも1日のうちの一部だけです。時間の問題なんです。俳優が映っていないショットはスケジュールの最後に回されて、誰も気にしません。みんな俳優の演技を見ることだけを気にしているんです。でも、タバコや燃えている家のショットはそうやって撮った。タイトルなどはもう少し後の作業でしたが、それもストーリーに含まれています。脚本にも書いてありました。画面上でそれらをより大きく映し出し、スローモーションにし、効果音を加えることで、ストーリーテリングを少し高めることができたと思います。それも私たちの仕事の一部です。脚本の内容と監督の頭の中にあるイメージ(この場合はデヴィッドが脚本を書きました)を基に、それをより良く、より壮大に、そしてこれまでとは違う形で生き生きとさせるように努めています。そして、それを毎日実現していると思います。毎日、俳優たちと様々なシーンを撮影しました。カメラがクレーンで上昇し、夕日が沈むドラマチックな瞬間を捉えました。ライトも完璧に調整しました。そして、40日、50日、60日と撮影を続け、それらをすべて編集した時、ようやく自分たちの成果が見えてきます。撮影が終わって編集され、そして完成した映像を見る、という流れです。だから、すべてがどう組み合わさっているのかは、最後の最後まで本当には分からないんです。

クライン デヴィッド・リンチについてならあと1時間でも話せそうですが、次はアン・リー監督との作品について少し話しましょう。あなたは彼と3本の映画を制作しましたね。『アイス・ストーム』、『楽園をください』、そして『ハルク』。どれも全く異なるタイプの作品です。アンとはどうやって出会ったのですか? 彼が英語での初監督作『いつか晴れた日に』を撮り終えたばかりの頃、どういう経緯であなたに話が来たのでしょう?
エルムズ 『いつか晴れた日に』が公開され、賞にもノミネートされていた時期でした。彼が会いたがっているという連絡を受けたんです。急いで映画を観に行き、彼と会ってみたら、すぐに意気投合しました。話をしていると、本当に「同じ言語」で語り合っているような感覚がありました。『アイス・ストーム』の舞台は70年代初頭のアメリカ東海岸ですが、実は私も当時そこに住んでいたんです。東海岸にいて、あの時代の雰囲気を肌で感じていました。その点について彼と語り合えましたし、彼もそれを気に入ってくれたようでした。だから、お互いの考えが一致したんです。本当に気が合いましたね。ただ、アンは本心を読み取るのが難しい人でした。物腰はとても穏やかで控えめ、英語を話すのもためらいがちでした。だからこそ、私は彼の言葉にじっくり耳を傾け、適切な質問をする必要がありました。

クライン 『アイス・ストーム』は私のお気に入りの映画の一つです。最初から最後まで本当に素晴らしい作品ですから。原作を映画化するのは不可能に近いことのように思えますし、映像も美しい。あなたとアンは、あの時代を見事に捉えていました。私は60年代生まれで、70年代に育った世代です。子供の頃に「アイス・ストーム(氷の嵐)」を経験したのを覚えています。窓の外を見ると、とんでもない状況になっていました。そのことについて話しましょう。まずは次の映像を流してみましょう。しばらく観ていない方にとっては、この作品がなぜこれほど素晴らしいのかを思い出す良いきっかけになるはずです。
(『アイス・ストーム』より、イライジャ・ウッドと電線のシーン)
クライン この映像を選んだのはフレッドなんです。本当に衝撃的で、あまりにリアルに感じられますよね。撮影時のことを覚えていますか?「これはすごいものが撮れた」と実感した瞬間だったのでは?
エルムズ ええ、あのシーンには多くの裏話があるんですよ。一つは、当初は秋から冬にかけて撮影する予定だったのが、土壇場でスケジュールが変わってしまったことです。資金が尽きたり、出資がなくなったりして、制作を延期せざるを得なくなったんです。それで、冬の終わりから春にかけて撮影することになりました。ご覧になったシーンには5つのカットがありますが、実際に氷を使っているのはそのうちの数カットだけで、あとはすべてヘアジェルなんです。本物の氷は用意できなかったので、自分たちで作るしかありませんでした。風に揺れるクリスタルのような木のカットは本物の氷で、凍えるような寒さでした。でも、それ以外の部分はすべてヘアジェルです。非常に滑りやすく、氷のように見えるけれど洗い流せるという特殊な配合のものを使いました。春だったのでスタッフはTシャツ姿でしたし、そういう状況下での撮影でした。ジャケットを着ているわけではありませんが、全く別の場所であるかのような幻想を作り出すことが重要だったんです。『アイス・ストーム』という物語は素晴らしいものでした。脚本も秀逸で、私たちはそれを支えに撮影に臨みました。素晴らしい俳優たちと、この力強い物語のおかげですね。ええ、間違いなく、映画の中で非常に感動的な瞬間を作り出せたと思います……ちょっとだけその幻想を壊すようなことを言ってしまうと、あのシーンをすべて撮り終えた後のことなんですが……少年が転落し、煙が晴れたとき、アンが「よし、あとワンカット必要だ」と言ったんです。私は「いや、もう撮れていると思いますよ。すごく感動的だし、本物のように感じられますから」と言ったんですが、彼は「いや、遺体を見せる必要がある」と。それで私は「いや、それはダメだよ」と答えました。遺体をはっきりと見せない方がいいと思ったわけですが、彼は「いや、遺体が滑り落ちていくところを見せなきゃいけないんだ」と言いました。私はそのシーンを撮る心の準備ができていませんでした。その時の私にはあまりに辛いことに感じられたんです。でも彼は「いや、どうしても撮るんだ」と言いました。遺体が道を滑り落ちていく様子を撮影する必要があると。もちろん、それはシーンの一部であり、たとえ私が準備できていなくても撮らなければならないものでした。そして、それがその日の最後のカットになりました。俳優たちが帰った後に撮影されたものです。実際には、中に土嚢(どのう)を入れたオレンジ色のジャケットを、フレーム外で警官役の男が坂の下へ押し出してるだけの映像なんです。しかし、それによってあのシーンが成立しているのです。
クライン 俳優たちの仕事ぶりは本当に素晴らしかったですね。『ハルク』について少しお話ししたいのですが、あれはあなたやアン(監督にとって、間違いなくこれまでとは違う挑戦でしたよね。やるべきか否か、二人で検討したとも伺っています。そのあたりについて少し教えていただけますか? というのも、それまで手がけたことのない「VFX映画」だったわけですから。

エルムズ あれは大規模な作品でした。ハルクというキャラクター自体、大掛かりな特撮を必要とするものですし。あのキャラクターを確立し、プロジェクトを立ち上げるにあたり、スタジオはアン監督を信頼して任せました。アン監督の頭の中では、あれは単なる映画ではなく、非常に壮大な「アート映画」だったのです。彼のアプローチはそういうものでしたし、スタジオも協力的で、彼を支え、そのやり方を尊重しました。とはいえ、あれほどの規模で制作するのは確かに大変な挑戦でした。俳優が演技をしていても、そこには巨大な緑色のキャラクターはいないわけですから。誰もが、棒を持った人物を見つめている状態でした。棒の先は空中の3.6メートルの高さにあり、視線を合わせるための目印になっていました。後でそこにハルクを合成するためです。しかし、撮影中にセットの近くにその「人物」の姿などどこにもありませんでした。そのため、あのキャラクターをシーンに違和感なく溶け込ませるのは、非常に困難な作業でした。
クライン ジム・ジャームッシュとは『ナイト・オン・ザ・プラネット』を皮切りに、確か6本の映画でご一緒しましたよね。彼はあなたとロビー・ミューラーを交互に起用していたのですか? それとも、どういう経緯だったのでしょう?なぜこれほど多くの作品を彼と手がけることになったのですか?
エルムズ 最初はロビーのスケジュールが合わなかったため、私が『ナイト・オン・ザ・プラネット』の仕事をしました。その後、またロビーがジャームッシュ組に参加できるようになり、私は別の映画の仕事をしてから、また戻ってジムと3度目の仕事をしたんです。ジムはデヴィッドとはかなりタイプが違いますし、じっくりと時間をかけて撮影するアン・リーのアプローチに少し似ているかもしれませんね。
クライン 他の監督たちと比べて、ジムとの仕事にはどんな違いがあるのでしょうか?
エルムズ ある意味、彼ら監督は皆とてもよく似ています。アン・リー、ジム・ジャームッシュ、デヴィッド・リンチといった監督たちは皆、物語を非常に独特な方法で語ることに極めて集中していました。彼らには明確な構想があり、優れた脚本があり、登場人物を深く理解し、その役に素晴らしい俳優を配していました。そして映画に対するビジョンを持っていて、そのビジョンを私たち――プロダクション・デザイナーや作曲家、そして私――に伝え、細部をうまく機能させることに長けていました。彼らはその点を言葉にするのが非常に巧みで、おかげで私も監督のビジョンの一部になることができました。私はその実現をサポートする役割を担っているわけです。もちろん、それぞれが私に求めたものは、それぞれの映画に異なる要素を持ち込むことでした。どの作品も少しずつ違いますから。私が映画にもたらすのは、ある種、捉えどころのない「何か」です。言葉で説明するのは難しいのですが、それこそが、あの魔法のような関係性の核心にあるものだと言えるでしょう。たとえば、監督と私の間には「ここはクローズアップだ」といったやり取りがあります。でも、どの程度のクローズアップなのか? これくらいの大きさか、それともこれくらいか?あるいは、このシーンを適切な雰囲気に仕上げるためにカメラをどこに置くべきか? 部屋のムードを作り出すために、どう光を当てるか? デヴィッド・リンチはセットや部屋のムードを非常に、極めて重視していました。それがシーンの鍵だったのです。ジム・ジャームッシュやスパイク・リーも、それぞれ独自の言い回しで同じことを言うでしょう。「これこそが、自分にとって本当に重要な要素なんだ」とね。そして、「これを実現してくれるのは君(フレッド)しかいない」と信頼を寄せるはずです。
クライン 先ほど『パターソン』についてお話しされていましたが、その映像の用意があります。では、そのクリップを流してみましょうか。音声なしで、映像を見ながら、なぜそのクリップを選んだのかについて話しましょう。

エルムズ 『パターソン』は、ニュージャージー州パターソンでバスの運転手をしている若い男性の物語です。彼の生活はすべて、日々のルーティンを中心に回っています。毎朝同じ時間に起き、同じ制服を着て、朝食には同じものを食べる。来る日も来る日も同じバスを運転する。そしてジムは、こう感じていました。彼の人生におけるそうしたパターンこそが、このキャラクターを詩人たらしめているのだと。つまり、「バスの運転手である詩人」という組み合わせ、この二つの要素がジムの頭の中で完璧に結びついていたのです。しかしジムは、その男性の生活におけるルーティンを確立することに非常にこだわっていました。繰り返されるショットについて話しましょう。月曜の朝、カメラはベッドの真上にあり、彼が目を覚ます様子を捉えています。彼はいつも同じように時計を確認します。火曜の朝も非常によく似た様子で、水曜の朝もまた同じです。ジムはそれを「全く同じ」にしたがっていましたが、私はこう言いました。「ほんの少しだけ変えてみよう。ある日は少し曇っていたり、寝ている姿勢が違ったり、何かが少しだけ違うようにするんだ。ジム・ジャームッシュがキャラクターの根幹だと感じていたルーティンという感覚に、変化(バリエーション)を加えようとしたのです。例えば、毎日職場へ歩いていくシーンなどです。必ずしも同じショットである必要はありません。「ほぼ」同じショットでいいのです。何が起きているかさえ分かれば、同じように感じられますから。物語の中の曜日ごとの描写に、そうした映像言語や変化を取り入れようとしました。ジムは長い間、そうやって変化を加えることにかなり反対していました。そうした変化が映画に深みや質感をもたらすという考えを彼に受け入れてもらうには、何度か話し合う必要がありました。彼と4、5本映画を一緒に作った後だったからこそ、そうしたことを口にし、強く提案することができたのだと思います。でも、それこそが信頼関係を築くことの利点なんです。ジャームッシュとは以前にも何本か映画を一緒にやっていて、仕事上の関係ができていました。いわば「映像的な共通言語」のようなものがあったんです。信頼関係があったので、私が「このプランなら絶対にうまくいくと思うから、やってみましょう」と言えば、彼も私に任せてくれました。常に話し合いであり、ある種の交渉でもあります。予期せぬ事態(サプライズ)というのは、たいてい良くないことですから。物事をうまく進めるには、全員の認識をすり合わせておく必要があります。特にこの映画のような繊細な題材を扱う場合はなおさらです。
クライン お話ししたかったことの一つに、あなたが多くの女性映画監督と仕事をしてきたという点があります。ミーラ・ナイール、マーサ・クーリッジ、ベティ・キャノン、アン・バンクロフトといった方々です。今はミーラ・ナイールと長い時間を共にされていますし、つい最近も3ヶ月ほどインドにいらっしゃいましたよね。その経緯を教えていただけますか?

エルムズ ミーラ・ナイールとは何年か前に『その名にちなんで』という映画で仕事をしました。物語の一部はアメリカ、一部はカルカッタが舞台で、私はインドが大好きになったんです。「また戻りたい」と強く思っていました。そしてついに、彼女がインドで別の映画を撮ることになり、当初の撮影監督が降板してしまったんです。そこで私が参加して、準備段階から関わることになりました。そうですね、これがその時の写真です。私にとってはどれも新しい経験でしたが、ミーラとの間にもやはり「映像的な共通言語」が築かれていました。彼女の物語の語り口における細部へのこだわりは素晴らしいものでした。これはヘンリエッタという画家の物語で、彼女は両親の出自が異なるため、1930年代のインドとハンガリーを行き来して過ごした人物なんです。 ある画家の創作活動を映像に収めるという構想は、私にとって非常に魅力的でした。光や色彩を捉える眼を持ち、そのモダニズム的な絵画が今やインドで高く評価されている画家。そんな人物を題材にする機会に、私は即座に飛びつきました。ミーラとの共同作業は素晴らしいものになりました。細部や色彩、そしてその画家の人生を興味深くユニークなものにしているあらゆる要素について、私たちは互いに意気投合できたからです。私たち撮影監督にとって、そこはまさに、思う存分腕を振るえる素晴らしい世界でした。さらに素晴らしいことに、ミーラ自身も素晴らしい人柄なんです。協力的で温かい方で。彼女のウェブサイトでは毎日ヨガができるんですよ。一日の始まりにヨガのインストラクターを招いていますから。インドではヨガが生活の一部なんですね。素敵な試みだと思います。
クライン フレッド、もっとお話ししたいですね。『リバーズ・エッジ』のことや、ジョン・カウフマンのことについても。でも、いつまでも話し続けるわけにはいきません。皆さんも他の映画を見たり、夕食に行ったりと予定があるでしょうから。またご一緒できるのを楽しみにしています。今日はこうしてお話しできて本当に感謝しています。ありがとうございました。それでは最後にフレッドの最高傑作の一つThe Go-Go'sのHead Over Heelsを流して終わりにしましょう。ありがとうございました。
