祇園祭は「病気よけ」じゃなかった—— 6人の怨霊と、封じた側が作った制度——
「祇園祭は疫病除けのお祭り」
そう思っていませんか。
半分だけ正しくて、半分は違います。
平安時代の人々にとって「疫病が流行る」とは、 恨みを持って死んだ人の霊が暴れているからでした。
つまり祇園祭の本当の起源は「病気よけ」ではなく、 「政治的に殺された6人の怨霊を鎮める」ための祭りでした。
6人とは誰だったか
1人目:早良親王
「無実を主張しながら餓死した皇太子」
785年。桓武天皇の弟・早良親王は皇太子でした。
権力者・藤原種継の暗殺事件に連座して捕らえられましたが、 親王は無実を主張し、抗議のために飲食を断ちました。
淡路島への流刑の途中、餓死。
その後、桓武天皇の周辺で皇后・皇太后・後継ぎが次々と亡くなります。 天皇は生涯、怨霊を恐れ続けました。
死後、「崇道天皇」という天皇号が贈られました。 天皇になれないまま死んだ人に、天皇号を贈るほどの恐れ方でした。
2人目・3人目:伊予親王と藤原吉子
「母と息子、一緒に毒を飲んだ」
807年。桓武天皇の皇子・伊予親王が謀反の疑いをかけられます。
母・藤原吉子とともに河内国の寺に幽閉され、 二人は一緒に毒を飲んで死にました。
謀反の証拠は何もなかった。 後世の研究者は「冤罪だった」と見ています。
4人目:橘逸勢
「空海・嵯峨天皇と並ぶ「三筆」の一人」

橘逸勢は書の達人でした。 空海・嵯峨天皇とともに「三筆」と称される、 日本最高の書家の一人です。
842年の承和の変で、藤原良房が主導した政変に巻き込まれ、 謀反人として伊豆へ流される途中で死亡。
謀反の実態は薄く、良房による政敵排除の道具にされたと見られています。
5人目:文室宮田麻呂
「無実が判明した官人」
843年、「新羅と通じて反乱を企てた」という罪で伊豆に流され死亡。 後に無実であることが判明しました。
6人目:藤原広嗣
「腐敗した政治への抗議者」

740年、九州で朝廷への反乱を起こして処刑。 その動機は当時の政治腐敗への抗議でした。
処刑後に疫病が流行り、広嗣の怨霊のせいだと恐れられました。
民衆はずっと自分たちでやっていた
重要なことがあります。
御霊信仰は朝廷が作ったものではありません。
民衆はずっと自発的に、怨霊を鎮める祭りをやっていました。
仏を拝み、相撲を奉納し、歌や踊りで疫神を慰め、 都の外へ送り出す儀式を——国家の許可なしに。
そして朝廷はそれを禁止していました。
863年——殺した側が制度を作った
863年5月。
平安宮の庭・神泉苑で、天皇も出席して御霊会が開かれました。 民衆にも開放されました。
主催したのは藤原良房。
その怨霊を生み出した政争の当事者が、 民衆の御霊会を禁じながら、自分たちだけ国家行事として執り行った。
殺した側が、鎮魂の制度を作った。
869年——貞観地震と祇園祭の誕生
御霊会から6年後、869年。
東北・三陸沖で巨大地震が起きました(貞観地震)。 現代の研究では東日本大震災と同規模とされています。
偶然にもこの記事を書いている5月26日と日を同じくして、平安時代前期の貞観11年5月26日に発生したとのこと。。

朝廷は全国66本の鉾を立て、 祇園社(現・八坂神社)から神輿を送り出しました。

これが祇園祭の直接の起源です。
牛頭天王(ごずてんのう)がスサノオになった日

八坂神社の創建は、高麗からの渡来人・伊利之が 牛頭天王の神祠を建てたことに始まります。
元の祭神は牛頭天王・婆利采女・八王子でした。

インドの守護神が中国道教と混ざり合い、 朝鮮半島を経て日本に入り、御霊信仰と結びついた—— 何百年もかけて積み重なった複合神格でした。
ところが1868年、明治政府の神仏分離令で 全て書き換えられました。
牛頭天王 → 素戔嗚尊(スサノオ)
八王子 → 八柱御子命
渡来系・仏教習合の神格を消去して、 記紀の神に置き換えた——神話の書き換えです。
源氏の祖と清和天皇
祇園祭を語る時、外せない人物がいます。
藤原良房。

御霊会を制度化した人物は、もう一つ重要なことをしていました。
858年、9歳で即位した清和天皇の摂政となり、 日本史上初の摂関政治を確立した人物です。
清和天皇は良房の外孫——傀儡として擁立されました。

しかしその清和天皇の子孫が、後に清和源氏となります。
源頼朝・義経・武田信玄——全員その子孫です。
封じた側(藤原良房)が擁立した天皇の子孫が、 やがて封じた側への対抗軸となっていく。
封じた側の道具から、別の力が生まれる—— これも今日の話に繰り返し出てくる構造です。
江戸の三大祭も封印装置だった
江戸三大祭り——神田祭・山王祭・深川八幡祭。
この三社の位置を計算すると、 将門の首塚を中心に三方から囲む配置になっています。

三社の重心と将門首塚の距離:わずか0.6km。
神社 将門首塚からの方位 神田明神(将門を祭神に) 北北西 日枝神社(山王・延暦寺系) 西南西◎ 富岡八幡宮(草薙剣の神) 南東
そして将門首塚から真東北東83km先に鹿島神宮の要石があります。
封じた怨霊(将門)を三方から囲み、 東には要石(大鯰の頭を押さえる)が控えている。

