チョコとキャンディとサイン帳と
初恋のきっかけは、中学1年生の春でした。
女子が親しくなるにはアイドルの話か恋バナが手っ取り早いのです。少なくとも私はそう思っていました。
小学生の頃はやたらと「好きな子いる?」と聞かれていました。その頃私は怪物くんやスナフキンが好きだったのですが、そんなことを言えるわけもないので「いないよ」と答えては爪弾きにされていました。
小学校ではそれでも不満はなかったのですが、中学では積極的に楽しみにいくことを心に決めていたので、小学校での教訓を活かすことにしたのです。
そんなわけで、私の「好きな人」は実は「好きになることにした人」でした。秘密の共有ありき、だったのです。特に興味もない人を「好きな人」として挙げたのです。選んだ基準は、他の子の好きな人とダブらないこと。
まさかその一時凌ぎの選択が自分自身の心を3年間にわたって翻弄することになろうとは露知らず――。
彼の名をFくんとしましょう。
Fくんがこれを読むことがない前提で申し上げますと、特にカッコイイ要素はありません。他の子の好きな人とダブらないことを前提で選んだので、当然です。顔も十人並みですし、目立ちもしません。陸上部だったのでスポーツはできる方だったのかもしれませんが、私の好みとしてスポーツができるかどうかは大した問題ではありません。どちらかといえば快活なスポーツマンタイプは苦手な部類です。幸いFくんは落ち着きのある人でした。山猿の群れのようなウチのクラスには珍しいタイプでした。かといって暗いとか大人しいというわけでもなく、休み時間には彼の席の周りにはいつも数人の男子が集まっていました。勉強もできる方で、友達に教えているところも見かけたりしました。
普通ならば中学生女子が好きになるタイプではありません。もっと大人になってから気付くような良さが彼にはありました。
恋心というものは意外なところで私の向上心を後押ししました。
1年生の前期学級委員は先生の指名で決まりました。まだみんなお互いを知らないだろうから、と。そして、私は学級委員になりました。そりゃあもう熱心にやりましたよ。Fくんの目に留まりたくて。でも今思い返せば、ただの口うるさい女子でした。「ちょっとぉ、男子ぃ、遊んでないで、ちゃんと掃除しなよ〜!」とか叫んでいる女子です。ただ、そんなキャラなので、クラス内では男女問わず誰とでも気楽に口をきいていました。Fくんと以外は。
意識するとダメですね。雑談とか気安く話しかけられないのです。他の男子とだと「ダメでしょ!」「うるせーな」みたいなやりとりがあったのですが、Fくんは真面目な人でしたから注意するような機会もなく。
私は可愛らしくきゃぴきゃぴするタイプではなかったので、他の女子みたいに「◯◯くんと話しちゃった〜」「◯◯くんとすれ違っちゃった〜」ときゃあきゃあ盛り上がったりはできずに、その気持ちを外ではなく内に込め続けていました。ムッツリ片想いです。内に込められた気持ちは発散されることなく膨れ上がっていきます。そしてマグマのようなその想いはあらぬ方向に噴火口を開いたのです。
Fくんは他薦で後期の学級委員になりました。役職は選挙管理委員です。後期の選挙管理委員は秋に行われる生徒会選挙の運営に携わります。クラスに立候補者がいれば、選挙まで委員会から候補者への事務連絡を行うことになります。
なんとなく読めてきたでしょうか? そうです、私はFくんとわずか数回の会話を交わすためだけに生徒会に立候補したのです。
結果、私は生徒会副会長に当選し、次年度も再出馬して当選。私の中学時代は生徒会の仕事に追われる3年間となりました。当初の目的だったFくんとの会話は数えるほどしかありませんでしたが、生徒会に打ち込んだことはとてもいい経験でした。きっとこんなことでもなければ立候補なんて考えもしなかったことでしょう。
2年生ではFくんとクラスが別れてしまいましたが、私はといえば相変わらずの目立とう精神で、体育祭の応援団までやったりしていました。スポーツの苦手な私ですが、中学の体育祭は生徒会と応援団とで大忙しの大変充実したものでした。
そして、私のあさってを向いた恋心は留まるところを知らず、学校崩壊が原因で長年中止となっていた文化祭復活に向けて動き始めるのでした。演劇部だった私は、どうしても学校内での公演の場が欲しかったのです。朝は昇降口で、休み時間は各教室をまわって署名活動をしました。
その甲斐があったのかどうかはわかりませんが、3年生の秋にステージ部門のみ文化祭が可能になりました。吹奏楽部と合唱部、そして演劇部の発表が許されたのです。
けれどもやはりまだまだ荒れている状態でしたので、演劇部の上演中にステージ上に乱入してくる不良たちもいて、とても成功と言えるものではありませんでした。それでも演劇部の達成感は部員たちを号泣させるのに充分でした。
さて、そんなこんなでFくんを巡る私の想いは、Fくんとは全く関係のないところで空回りをし、想定外の自己研鑽へと繋がっていきました。
肝心のFくんとの関係はと言いますと、なんら変化がございません。だってクラスが違うし。同じ教室にいてもほとんど口を聞けなかったのに、別のクラスでは接点などどこにもありません。……そう、どこにもないはずだったのです。
目立つことはしておくものです。いつの間にか私は、一度も同じクラスになったことがなく、こちらが知らない生徒からまで名前を呼ばれ、話しかけられるようになっていました。
2年生も終わろうとしている冬のことでした。演劇部が高齢者向け福祉施設で公演をすることになりました。
ウチの演劇部は女子しかいなかったので、男役をやることがありました。その劇は学園モノで、男子の制服が必要でした。
さあ困りました。男役の一人である私も男子の制服を誰かから借りなければなりません。
借りるといっても、公演は平日です。公休をとってその高齢者施設へ行くのです。当然、制服を貸してくれた男子はジャージで授業を受けなければなりません。多感な中学生にとってそれはとても恥ずかしいことでしょう。私以外の男役の人たちは何人にも断られたそうです。
私は衣装合わせギリギリまで誰にも打診できずにいました。方向違いの恋心全開でブッ飛ばしていた私ですが、本来は人見知りの小心者なのです。
衣装合わせ当日。私は途方に暮れたまま放課後の人気がない廊下をトボトボと歩いていました。
「霜月、男子の制服、探しているんだって?」
そう声をかけてきたのは、同じクラスになったことのないバスケ部のRくんでした。とても目立つ人だったので、私の方も彼のことは知っていて、会えば話すくらいの仲でした。
「そうなの。よく知ってるね」
「なんか演劇部の奴らがあちこちで頼み回っていたから」と笑います。
曖昧に笑顔を返す私にRくんは心配そうに「貸してくれる奴、見つかった?」と聞きます。
黙って首を横に振ると「俺、貸そうか?」と。
「ありがとう。でも、真面目な役なんだよね……」と私。
Rくんの制服は短ランにボンタン。
Rくんは「標準(服)じゃなきゃダメか」と苦笑し、「じゃあさ」と一緒に探してくれる模様。
「Fは?」
「……!?」
「アイツまだ教室にいたから、俺が頼んでやるよ」
――かくして、図らずもFくんから制服を借りることになった私。
嬉しいやら、照れ臭いやら、申し訳ないやら……。あらゆる感情が入り乱れて、今やその公演の記憶がほとんどありません。
私が制服をFくんから借りたことを知った演劇部の友人たちは私本人を差し置いて大盛り上がり。
だって、奇しくも公演日はバレンタインデー! みんなに唆されて、返す学ランのポケットにチョコを忍ばせることに。
公演が終わって学校に戻った頃にはすでに放課後。部活も終わっている時間でした。
閑散とした校庭の隅にある鉄棒のところに、ジャージ姿のFくんが陸上部の友人ふたりと佇んでおりました。夕日が照らす、そのあまりに絵になる光景に怖じ気づいた私に、友人のIちゃんが付き添ってくれることになりました。その時は優しさに感動したのですが、今思えばそこにIちゃんの好きな男子がいたからなのでしょう。
ともあれ、綺麗に畳んだ制服を抱えて校庭を横切っていくと、彼らが私たちに気付きました。そして、Iちゃんが「頑張れ」と私に耳打ちして離れていくのと同時に、Fくんの友達も彼から距離を置いた場所に移動しました。
ちょっと待ってよ。Iちゃん、側にいてくれるんじゃないの? てか、あいつらも何か勘違いしてないか?
「えっと……。遅くなってごめんね」
「うん。大丈夫」
「あの、これ。制服ありがとう」
「うん」
「……」
「……」
「えっと、それから……ポケットに入っているのは、お礼だから」
「えっ!?」
「あっ! 今は見なくていいからっ!」
「あ、うん。ありがとう」
「ううん。こっちこそありがとう」
なにやら視線を感じ、Fくんと同時に横を見ると、Fくんの友達ふたりとIちゃんがこちらの様子をうかがっていました。気まずくなった私たちは慌てて帰る素振りを見せました。
「これ、ありがとう」
Fくんがポケットからチョコの包みをチラリと覗かせて言いました。
「うん。あ、えっと、だから、それはお礼だからねっ!」
私は再度念押しして、Iちゃんの手をとって走り去りました。
お礼で渡したチョコなのに、ホワイトデーには部活終了後の昇降口にFくんが待っていて、お返しをいただきました。「チョコのお礼」と言って。
そして、私たちは3年生になりました。
いきなりですが、私の友達にCちゃんという子がおりました。部活仲間なのですが、1年生で同じクラスだったため、Fくんとも面識があります。
さて、このCちゃん、かなりの恋愛マスターでして。なんの接点もない柔道部の先輩に一目惚れをし、友人たちが誰一人知らぬ間に彼女の座に収まっているという手腕の持ち主。
「恋愛は当事者ふたりにしかわからないもの。友達に相談なんてしない方がいい。他人が絡むと碌なことにならない」という中学生らしからぬ、至極真っ当な持論を披露しておりました。
私だってその教えに従いたかったけれど、相談せずとも自主的にあれこれしてくれるのが女子中学生というもの。
夏祭りの待ち合わせに早く着いた友達数人が、たまたまジョギングで通りかかったFくんを私が着くまで引き止めておくという、有り難迷惑な行動をとる事態もありました。
待ち合わせ場所に到着した私は予想外の事態に対応できず、緊張と浴衣姿の照れから「こんなとこで何してんの?」とか吐き捨てる始末。だって夏休み中に会えるなんて思いもしなかったから。
Fくんも「通りかかっただけだよ」とすぐに走り去りました。訳もわからず引き止められていたのだから当然です。
「会えてよかったね」と盛り上がる友人たち。私としては、こっそり盗み見るくらいがちょうどいいのに。
こっそり盗み見る……聞き様によってはストーカーじみていますが、これが女子中学生となればかわいいもの。……ということにしておいていただくとして。
盗み見る……じゃなくて、物陰からそっと見つめるのは登校時間。
私は入学当初からCちゃんと一緒に8:00前には登校していました。朝練のある生徒以外では一番乗りです。
そして、次に登校してくるいくつかのグループのうちのひとつがFくんたちでした。バレンタインデーのお話に登場した陸上部の友達ふたりです。
私はいつも8:10には窓辺にいました。HRまでの時間を持て余して外を眺めている振りをしながら、友達と楽しそうに話しながら歩くFくんの笑顔を見つめるのです。
また、陸上部の朝練がある日はもちろんその姿をずっと目で追っていました。短距離走者のFくんのフォームは滑らかでとてもきれいでした。正しいフォームがどのようなものかは知りませんが、あんな風にすぅーと走る姿は、ペタペタとしか走れない私には憧れでもありました。
ところで、バレンタインデーのお話に登場したIちゃんを覚えておいででしょうか? Fくんへ制服を返す時に付き添ってくれたあの子です。
彼女はFくんがよく行動を共にしているUくんのことが好きでした。なので、一緒に陸上部の大会を見に行ったりしたものです。もちろん、こっそりと。
なんだか登場人物が増えてわかりにくくなってしまい、申し訳ないのですが、もう一人だけ登場させて下さい。私の幼馴染である2歳下の女の子です。私が3年生の時、彼女は1年生で、陸上部でした。(ちなみに当時の陸上部の部長はFくんでした)
で、私は時々放課後にその女の子と話したりしていたのですが、ある時、Iちゃんも一緒にいたことがありました。彼女は私の幼馴染が陸上部員と知るやいなや、あるお願いをしたのです。
「来週、公会堂で演劇部の地区大会があるんだけど」
「え? あ、はい」きょとんとする幼馴染。そらそうだ。
「UとFにさ、観に来てって言って」とIちゃん。
……げっ!
観に来てってのもどうかと思うし、幼馴染に私の好きな人バラしてるようなもんなんだけどっ!
「あー、はい。いいですよ」
どうやら何もわかっていない様子の幼馴染。ああ、よかった……って思ったのも束の間。
翌日その幼馴染は「トーコちゃん、トーコちゃん!」と駆け寄ってくると、ミッションクリアの報告をしたのです。ただし、大きなミスを犯して。
「F先輩に『トーコちゃんが劇観に来てほしいって言っていました』って言っといたよ! U先輩には言ってないんだけど、いいよね?」
よくない〜っ! いろいろ間違ってるしっ!
頼んだの、私じゃないし。IちゃんにしてみればUくんを誘ってほしかったわけだし。
しかし、この子に罪はない……。私の言うべきことはひとつ。
「……ありがと」
そして、当然ながら地区大会はFくんに遭遇することもなく無事に成功し、県大会出場が決まったため、私たち3年生の引退は12月まで延期されました。そうなると、県大会までは受験勉強どころではありませんでした。けれども、恋する乙女には受験よりも県大会よりも大切なことがあります。
後日、幼馴染から驚くべきことを聞かされたのです。
「F先輩、地区大会観に行ったって」
なによ、それぇ〜! え? え? え? えっと……ひとりで? それともUくんと? あ、いや、そんなことよりも。Fくんは私が来てほしがっていたと思っているんだよね? ってか、なんで来た、Fくんよ!? 演劇部員の私が言うのもなんだけど、演劇やってない人が観ても面白くないぞ?
Fくんはどうやら知らぬ間に来て、知らぬ間に帰った模様。
妙に律儀なだけなのか、少しは期待してもいいものなのか、Fくんとほとんど話したことのない私には判断できないのでありました……。
いよいよ受験という時期。相変わらずのムッツリ片想い街道まっしぐらの私は、Fくんと同じ高校に行きたいな〜なんて思っておりました。
幸いにして、不純な動機による生徒会副会長の実績と、不良多めの中での相対評価成績のおかげで、学区内公立高校のほとんどが射程範囲内でした。
誤解のないように言っておきますが、特に頭がいいわけではありません。環境と偶然の産物に恵まれただけです。
そうなると問題はテストというと必ず痛くなるおなかだけ。でもおなかのことはどの高校の入試であろうと同じことなので考えないこととします。
でも結局、Fくんがどこを受験するのかわからず、それならばと、スポーツ恐怖症の私はプールのない中堅高校に決めました。
そして、この年もやってまいりました、バレンタインデー。
本人が相談しなくても、あれやこれやと他人の恋路まで熱心に取り組んでくれるのが女子中学生というもの。流しに流され、みんなでそれぞれのチョコを買いに。そして、あれよあれよという間に、私は今年もチョコを渡すことになっていました。
気付けば手元にひとつのチョコレート。さて、どうしたものか。
渡さずに自宅に残してバレンタイン用ラッピングのブツを親に見つかるのも避けたいところ。
みんなの後押しもあり、朝のうちにFくんのロッカーに入れておくことにしました。
ロッカーは教室の後ろの壁にある蓋もないただの棚なので、こんな如何にもといったブツを人目にさらすのはお互いのために避けたい。でも幸い、私はいつも一番乗りだし、Fくんもすぐに来るので、他の人に見られる心配はありません。
あとはカードに何を書くか。シンプルに「好きです」? キャーキャー。
あー、でもバレンタインデーにチョコレートを渡すなら、その意味は言わずもがな。それでもやっぱり書かなきゃダメ?
名前はどうしよう? とりあえず、間違いでないことを示すために宛名は書くべきだろう。差出人は……やっぱり書かなきゃ意味ないよね〜。
なんて、ああだこうだ考えていたので、結局のところ告白の言葉を書いたかどうかは覚えていません。おそらく書かなかったのだろうと思います。自分の名前は書きませんでした。いえ、どうしても書けませんでした。
――あっ! たった今、これを書いていて気付きました! 朝一番に置いてあったら、Fくんより早く登校している人が差出人に決まっているじゃんっ!
あぁ……なんてこと……。今、明かされる新事実……。私ってバカ。只今、霜月透子、激しく動揺しております……。
……気を取り直して。
で、バタバタとしているうちに近づく卒業式。あちらこちらでサイン帳がまわり、書いたり書いてもらったりしていました。
クラス全員に書いてもらうという人も多かったのですが、私は親しい一部の女子にだけお願いして回ることに。クラスの4、5人と、部活が同じだった他のクラスの人たちのみ。
サイン帳にはノート型に製本されたものを回覧のように書いては回すものと、バインダー式で1枚ずつ外せるものがありました。私が買ったのは、バインダー式のサイン帳でした。
恋愛マスターCちゃんなんて、たくさん書きたいからと言って2枚も持って行ってくれました。
――ここで、気付くべきだったのです。
数分後、再び私のところにやってきたCちゃんは言いました。
「1枚、Fに渡してきたから」
はあ!?ですよ。
おいおい、恋愛に他人は介入しちゃいけないんじゃなかったっけ?……とは言えず。
「うっ……ありがと」
さて、その頃私はクラスの友達とスケートに行く約束をしていました。卒業記念のつもりだったのかもしれません。約束の日は卒業前の最後の日曜日。その頃は土曜日も学校があったのです。
スケートを翌日に控えたその夜、ジリリリンと電話が鳴りました。そうです、ダイヤル式の電話です。スマホどころか携帯電話もポケベルもない時代。
母が電話を取りました。「はい、はい。ちょっと待ってね」の言葉が聞こえて、ああ私宛か、と立ち上がります。
「透子、電話」
明日の待ち合わせが変更にでもなったのかなぁと思いながら玄関上がり框にある電話台に近づくと、母が受話器を差し出しながら言いました。
「Fくんから」
……!
不意打ちです。なに、これ。夢ですか?
「……もしもし」
「あ、Fだけど。霜月?」
「うん」
「突然ごめん」
「ううん、大丈夫」うそ。本当は全然大丈夫なんかじゃない。
今までまともに話したこともないFくんの声が耳元から聞こえて、頭の中に直接響いています。真っ直ぐ心に触れてきます。もうそれだけで私は卒倒してしまいそうでした。
それなのにFくんの声は落ち着いているものだから、私は冷静さを保つのに必死でした。
狭い我が家では電話の声は居間にまで聞こえてしまいます。聞き耳を立てていないアピールなのか、テレビのボリュームが上がりました。
「あのー、サイン帳……」
「……! あ、ごめん、それ、Cちゃんが」
「うん。それで、書いたから、渡したいんだけど」
「えっ。書いてくれたんだ……」
「うん。だから、渡したいから……」
「うん」
なんでそんなことをわざわざ電話してきたんだろう、とそんなことをぼんやり考えていました。
同性ですら家電にかけるのは勇気がいります。大抵は母親が出ますし、時には父親が出ることもあります。私は今でも電話が苦手です。
「だから……日曜日、会えないかな?」
「……」
……今、なんと言った?
「会って渡そうと思うんだけど、日曜日どこかで会わない?」
「……」
えっと……これって、いわゆる、アレですか? デートみたいなことになっちゃいませんか?
「ダメ……かな?」
「うん。あ、え、んーと……その日、友達とスケート行くから」
せっかくのチャンスになんだか間抜けな返答ですが、私のモラルに先約優先以外の選択肢はありませんでした。
「そうかぁ……」
Fくんの困ったような声を聞きながら、なぜだか私は早く電話を切りたくてたまりませんでした。おそらく緊張のあまり逃げ出したかったのでしょう。
「スケートからは何時頃帰ってくる?」
「え?」
「帰ってきてから、ちょっとでもいいんだけど」
「……わかんないや」
「お昼頃とか、夕方とか、だいたいでも?」
「う〜ん、全然決めてないから」
今なら正しい答えを出せます。Fくんと時間を決めて、友達には理由を言ってその時間に帰ればいいのです。
けれども、当時はFくんから電話がきたということだけで満たされていたので、なんとか都合をつけようという発想はありませんでした。Fくんがあんなに食い下がってくれたのに。
男子中学生にとってそれはとても勇気のいることだったでしょう。気のある素振りを見せていたくせに、あまりにも素っ気ない態度をとってしまったことは本当に申し訳なく思います。
「……じゃあ、月曜の朝でいいかな。朝、来るの早いよね?」
「うん」
この時の私は、初めからそうすればよかったのに、などと失礼なことを思っていました。ほいほい誘いに乗りそうなものなのに、我ながら何を考えていたのかわかりません。
電話を切った後も、耳に残るFくんの声の余韻に浸り、幸せな気分でした。欲がなさすぎたのでしょう。
そして、月曜日の朝。
誰もいない廊下には朝日が差し込んで、いつも以上にキラキラしていました。
「おはよう」「おはよう」
こんな風に友達みたいにFくんと朝の挨拶ができたことがとても心地よく感じられました。
「これ、サイン帳」
渡されたのは定番の内容が書かれた1ページ。それでも彼の手が書いた文字だと思うとひと文字ひと文字がとても大切なものに感じられました。
「あと、これ」
差し出されたのは可愛らしいラッピングがされたもの。
「?」
「その……ロッカーに入れてくれたでしょ?」
「あー、うん」
昨年は借りた制服のお礼という言い訳ができたけど、今回は誤魔化しようもない。まあ、ラブレターつけたわけじゃないし、告白ってことにはなってないよね。などと自分に言い聞かせてみたり。
「ありがとう。これ、お返し」
Fくんはそう言って、この年もホワイトデーのプレゼントをくれました。
「ありがとう」
そこに何かの意味があるかどうかなど考えることもなく、ただただ嬉しかったのを覚えています。
それからお互いの進学先を教え合いました。Fくんは某大学付属の男子校でした。受験校を知っていたところで同じ高校には行けなかったのです。なんとなくほっとしました。
それから互いに「頑張ってね」と言って別れました。それが最後に交わした言葉でした。
Fくんからのお返しは確かキャンディでした。
そして、サイン帳とは別にレポート用紙の手紙が添えられていました。内容はごくありふれた挨拶だったと思います。「高校へ行っても頑張って下さい」とか「もしどこかで見かけたら、ぜひ声をかけて下さい」とか。
でも、一番印象に残っているのは、その手紙を開いた瞬間に目に入った一行目です。息が止まりました。もしかしたら、その瞬間の私は時間さえも止めていたかもしれません。
そこにはこう書いてありました。
透子さんへ
男女共に互いを苗字の呼び捨てで呼んでいた学校でした。異性の下の名前を呼ぶなど、恥ずかしいことでした。付き合っている子達の特権でした。だから、普通は異性の下の名前なんてそもそも覚えてすらいません。しかも1年の時の同級生なんて。
少しは意識してくれたのかなと思うと、嬉しさとも淋しさともつかない気持ちが溢れました。
まだ誰もいない朝の教室で、私は涙が止まらなくなりました。
Fくん、
青春の1ページをありがとう──。
