あおい、あおい 第6部「利用者」 第1話「狭い部屋」
朝六時半、霧野市営住宅・3号棟・4階・408号室。
4畳半2間とダイニングキッチン。築40年。ベランダの手すりは塗装が剥がれかかっている。
木村真奈美はダイニングの小さなテーブルに朝食を4人分並べた。トースト、目玉焼き、サラダ。余裕のあるときは卵焼きも。
「美咲、起きなさい。蓮も。健、健?」
長女・美咲(13歳)が奥の4畳半から目をこすりながら出てきた。中学1年生、思春期。最近、母と目を合わせるのも嫌そうにする。
長男・蓮(10歳)はサッカーが好きで、いつもボールを蹴る音がしないと落ち着かない。
末っ子・健(4歳)は家族の一番元気な人。
「お母さん、今日は何時に帰る?」
美咲が訊いた。
「今日は日勤。16時に上がって、健を迎えに行く。いつもどおりだよ」
「うん」
美咲は何も言わず、トーストを齧った。
——— ◇ ———
7時半、家を出る。
美咲を中学校の前で見送り、蓮を小学校の前で。健は市営の保育園に預ける。
「お母さん、お仕事、頑張ってね」
4歳の健がちいさな手を振った。
真奈美はその手のひらをもう一度握ってから、保育園の門を出た。
——— ◇ ———
木村真奈美、36歳。
5年前に離婚した。元夫の浪費と、たびたびの暴言。3人目の健を、お腹に宿していたときだった。
弁護士を入れて、養育費の取り決めはした。だが元夫からの振込は、離婚して半年で途絶えた。それきり、連絡もない。
埼玉の実家の母は3年前に他界。父は施設にいる。頼れる先は、霧野市に住む叔母、母の妹だけだった。4年前、その叔母を頼って、子供3人を連れて霧野市の市営住宅に移ってきた。
——— ◇ ———
霧野市民総合病院。パート看護助手の仕事。
時給1,250円、月140時間で、月給17.5万円。これに児童扶養手当が月約6.7万円、児童手当が月5万円。合計、月収約29万円。
養育費は、ゼロ。
市営住宅の家賃は月2万円。だが子供3人の食費、教育費、健の保育料、光熱費。貯金は、ほとんどできない。
そして、
中学生になった美咲がふと「個室、欲しい」と口にした。
中学生女子が4畳半を弟2人と共有している。プライバシーがない。本を読むのも勉強するのも、みんなの目の前で。
「広い家に、引っ越せたら」
そう思いはしても、戸建ての賃貸は月4万円から5万円。市営住宅より2万円も3万円も高い。真奈美にとって、それは、ただの夢物語だった。
——— ◇ ———
その日の昼休み、休憩室で、同僚の看護師が真奈美に話しかけた。
「木村さん、この前、戸建てを探したいって言ってたよね。霧野市の『子育て家庭家賃補助』って、知ってる?」
「え、それ、どういう制度ですか?」
「子供がいる世帯に、月最大3万円の補助が出るらしいよ。うちの親戚が、使ってるの。市役所に相談してみたら?」
真奈美はスプーンを置いた。
月3万円の補助。もし本当なら、戸建ての家賃が、市営住宅と、ほとんど変わらなくなる。
【解説:ひとり親世帯の経済と、自治体の子育て家庭家賃補助】
ひとり親世帯の現実(厚生労働省「全国ひとり親世帯等調査」):
母子世帯の平均年間就労収入:約236万円
養育費を「現在も受けている」母子世帯:約28%
養育費の「取り決めをしている」のは約46%。取り決めても受け取れないケースが多い
主な公的支援:
児童扶養手当(ひとり親世帯):子3人・全部支給で月約6.7万円(令和6年改正後)。非課税
児童手当(こども家庭庁):第1子・第2子は月1万円、第3子以降は月3万円(令和6年10月拡充後)。非課税
自治体の子育て家庭家賃補助:
子育て世帯の市内定住促進のため、自治体が独自に設ける制度
補助額:月1万円〜3万円、期間3〜5年、所得制限あり(多くは課税対象所得・就労収入で判定)
霧野市の場合、令和8年4月から月最大3万円・5年間(仮想設定)
シングルマザー世帯にとって、これら複数の制度の組み合わせが、「狭い市営住宅」から「子供部屋のある戸建て」への移行を、ようやく現実的にする。
(出典:厚生労働省「全国ひとり親世帯等調査」、こども家庭庁「児童手当・児童扶養手当」、各自治体の家賃補助制度)
——— ◇ ———
仕事を終えた午後4時。
真奈美はいつもなら、まっすぐ保育園へ向かう。だが今日は、昼休みに聞いた「家賃補助」のことが、頭から離れなかった。
美咲に、スマホでメッセージを送った。「少し遅くなる。市役所に寄ってくる。蓮とお留守番、お願い」
すぐに返事が来た。「わかった」
真奈美は市役所へ向かった。
——— ◇ ———
霧野市役所、企画政策課。
2階の小さな打ち合わせ室で、若い男性職員が真奈美を迎えた。
「遠山と申します。木村さんですね」
28歳前後。背筋が伸びていた。
「あの、子育て家庭家賃補助、というのがあると聞きまして」
「はい。霧野市は今年の4月から、子育て世帯向けの家賃補助制度を開始しました。月最大3万円、5年間です」
「私、シングルマザーで、子供が3人——」
遠山は、要件を順に説明した。
「対象は、小学生以下のお子様がいる世帯です。木村さんは、お子様は——?」
「中1の娘と、小4の息子と、4歳の息子です」
「下のお2人が小学生以下ですので、世帯の要件は満たしています。もう1つ、所得制限があります」
遠山は、書類の数字を指し示した。
「世帯の就労収入で、年収4百万円以下というのが条件です。児童扶養手当や児童手当などの手当は非課税ですので、この判定には含まれません。木村さんの場合、就労収入はその4百万円の範囲に収まりそうでしょうか?」
「はい。パート勤務ですので、それより、ずっと低いです」
「分かりました。それでしたら、要件は問題なさそうですね。正式な申請の際に、課税証明書などの書類で確認させていただきますが、今の段階で、心配はいりません」
真奈美は、肩の力が少し抜けた。
「ありがとうございます」
「具体的な物件をお探しでしたら、市内の不動産屋さんをご紹介できます。空家等管理活用支援法人に指定されている、駅前の笠原不動産さんが、地元の事情にいちばん詳しいです。もしよろしければ、今からお電話しておきましょうか? 駅前ですから、今日のうちに、お話だけでも」
「お願いします」
「それと、もしお時間があれば、駅前商店街に最近、新しいカフェができました。『柳家』というお店です。東京から移住されたご夫婦が始められた、お子さん連れでも、ゆっくりできるお店です。気晴らしに、寄ってみてください」
——— ◇ ———
笠原不動産。
笠原正吾は、遠山からの電話を受けて、真奈美を待っていた。
「お子様3人で、戸建てをお探しと伺いました。ちょうど、最近改修が完了した物件が、1軒あります」
笠原は机の引き出しからファイルを取り出した。
「霧野字桜山12番地。築53年、木造2階建て。庭は120坪、ペット可。改修済みですぐ住めます。家賃は月4万5千円。家賃補助の月3万円が出れば、自己負担は1万5千円です」
真奈美は息を止めた。
「120坪の庭——? 自己負担、1万5千円——?」
「東京から来られた田所さんという方が、半年かけてDIY中心で改修されました。お子様のいるご家族にぜひ、と。子供の声で家が生き返るのを見たいそうです」
真奈美は目を潤ませそうになって、慌てて瞬きをした。
市営住宅の家賃2万円より、補助込みの自己負担1万5千円のほうが、安い。それでいて、子供3人に、部屋を持たせられる。
「明日は土曜日ですね。ご家族そろって、現地にいらっしゃいますか? お子様も、学校がお休みでしょうから」
「はい。子供たちも、連れて行きます」
「では、明日の午前10時に、現地で。地図をお渡しします」
——— ◇ ———
笠原不動産を出て、保育園に健を迎えに行った。
その手を引いて帰る道。夕方の風が少し冷たかった。
「お母さん、お腹空いたよ」
4歳の健が母の手を握った。
遠山が言っていた、新しいカフェ。商店街の中ほどに、たしかにあった。柳家。
ガラス越しに温かい光が漏れている。
「ちょっと寄り道、しようか」
真奈美は健と一緒にドアを開けた。
「いらっしゃいませ」
笑顔の若い女性が出迎えてくれた。
「あの、コーヒーをいただいてもいいですか? 子どもにはジュースで」
「もちろんです。お子様の椅子、お持ちしますね」
奥から若い男性が子供用の補助椅子をひとつ持ってきてくれた。
カウンター席に座る。
「初めまして。木村と申します。木村 真奈美です」
「柳田麻里です」
「私、市営住宅から、引っ越し先を探していて。市役所の遠山さんから、こちらのお店のことを聞いて」
夫婦は、顔を見合わせて、微笑んだ。
「いらっしゃい。ゆっくりしていってください」
真奈美はコーヒーを口に運んだ。
少しだけ、肩の力が抜けた。
「明日、いよいよ見に行くんだよ」
真奈美は健の頭を撫でた。
健は意味も分からず、母の膝にもたれかかった。
明日が、家族の新しい朝の始まりになるかもしれない。
(第6部 第二話に続く——内見、田所健一との出会い、契約、引っ越し、新しい生活)
