【短編】ひと線の「あい」
15年ものの、あいが醒めた。
クリスマスイブに「仕事だ」なんて見え見えの嘘をつくから夜に彼の家の前まで行ったら、私ではない女の吐息が聞こえた。
29歳。
笑ってくれ。
友達がブーケを投げる度に取り損ねていたから、イヤな予感はしていたんだ。何となく彼の気持ちが離れているのも気づいていたんだ。でも、あいしてたんだよ?あんまりだ。このまま帰りたくない。海に行こう。冬の荒波に身を捧げて、飲み込まれてしまおう。
しかし、無情にも終電を逃してしまった。仕方なくコンビニで安いワインを買い、カプセルホテルで飲み干して一夜を明かす。頬をつたうしょっぱさで一睡もできなかったのは言うまでもない。
まだ暗いが、始発の時間だ。
岩場の海がいい。高い岩場から、新しい私をやり直すんだ。電車に揺られる。少しずつ空が明るくなってきた。私の、最期の日の出がそろそろ迫る。
岩場に面する海が見えた。ここを終の場所にしよう。電車を降りた私は、薄明かりを頼りにパンツスーツにパンプス、コートの場違いなコーディネートで岩場を上がっていく。登り切ると、予想外の先客がいた。ダウンジャケットを着て長靴をはいた白衣の男性がイーゼルを立てて、水平線を睨みながら絵の具を溶いている。40代くらいだろうか。
「え、こんな場所にどうして?」
「いやぁ、あんたこそ、そったら格好で?」
「いえ、今日の面談が急きょキャンセルになりまして……」
言い訳に無理がある。ボサボサの髪に涙で崩れた化粧がそのままなのだ。どう見ても面談前のキャリアウーマンではなかった。
彼の向こうに絵が見える。キャンバスの上には、ひたすら横線が重なるように引いてある。藍色、黒、黄金色、白と少しずつ配色は違うものの、確かに1本の線の連なりでできている。
「あぁ、この絵?不思議だわなぁ」
苦笑いした彼は駅前の定食屋を営んでいるらしい。毎朝、開店前にここに登り日の出の時間に見える水平線を油絵で引いているのだという。
「あの震災でこの辺も津波が来たんだども、付き合っていた彼女が流されちまって。あの次の日が彼女の誕生日で、プロポーズしようとしてたんだわ。それが今も行方不明さ。だから、毎朝の挨拶代わりに描くようになったんだよ」
明らかに怪しい女に大切な話をする店主さん。
この絵はただの色の集合ではなく、店主さんが絶望の淵から重ねた日々の情景を形にしてきたものだった。店主さんや流された彼女さんの想いを想像すると、涙が止まらなかった。
「で、なしてこったらところにそんな格好で?寒いからうちの店に来なよ」
早朝、定食屋でただひとり。店の中にはあの線の絵がいくつも飾られていた。
何も言わずに出てきたブリ定食をいただいた。みそ汁の温かさが身体に沁みる。ポツポツと話し始めた私の話を、店主さんは穏やかな顔でただただ頷くだけだった。お茶を出して、店主さんが初めて口を開いた。
「あんたは生きな。向こうに行くには早い。いつかあんたを待っている人に会えっから」
このとき、私のこころの中に温かな何かが灯った。久々に感じたこの温かさ。もしかして。
「私、また来てもいいですか?」
「あ?ああ、ええよ。いつでもおいで」
お金を払い、定食屋を出て駅へ向かう。
吹雪いてきた。寒い。しかし、さっき灯った何かはどんどん温かくなる。頬が赤らんでくる。
私は定食屋を向いて、つぶやいた。
「私が、あの人の『あい』になれるかな」
(了)
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