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甲子園の裏でひっそりと行われた夏の闘い【第3回灯火杯】

話は、20年ほど前にさかのぼる。

2004年8月。
当時はまだ真夏といっても最高30℃に届くかどうか。網戸と扇風機で十分快適に過ごせる北海道の夏だった。

阪神甲子園球場で行われた、全国高校野球選手権大会で北海道代表の駒大苫小牧高校が優勝し、白河の関を渡ったことのなかった赤い優勝旗が初めて津軽海峡を超えた年である。
毎年1回戦、2回戦で涙を飲む北海道勢があれよあれよと勝ち上がり、いつしかスコアが動く度に絶叫が近所中あちこちからサラウンドで響いていた。

そんな道民の永年の夢が叶った貴重な試合を、僕は観ていない。いや、観られなかった。

決勝開催日に、大学院入試を受けていたのである。


僕の出身大学の工学部は、大学院入試を盆休み明けに開催するのが通例だ。当時は就職氷河期を抜けつつあり、大学院進学が就職に有利と呼ばれる時代にもなっていた。
僕もあまり深く考えることなく大学院を目指した。奨学金を借りれば親にもそれほど迷惑はかからないだろうと目論んでいたのもあった。


大学3年生の秋から冬、春にかけてに遡る。

母校機械工学科の面々は名物の「製図実習」に阿鼻叫喚の日々を送っていた。指定エンジンスペックに合わせて容積や動力、強度計算をし、部品図と組立図を計算書とセットで提出するもの。
どれくらい過酷かというと、午前3時に製図室横のソファで同期の女の子が寝ているのを目撃したほどだ。
目撃したということは、僕を含めた複数人がその時間に製図室で図面を描いていたということになるのだけど。

そんな中で数人が大学卒業後の就職を選択し、就職活動を同時並行で進めていた。あのぎゅうぎゅうの講義カリキュラムの中で信じられないバイタリティである。会社は本州がメイン。大学は札幌。説明会帰りに図面を描きに来ていたツワモノもいた。
彼らはしっかりと某自動車会社や某自動車部品会社の内定を取っていた。学校推薦の力も絶大とは言え、個々人の努力の賜物だ。

その数人を除き、4年生になって研究室に配属されてから本格的に「夏」に向けての闘いが始まる。
受験勉強だ。
うちの大学院修士の入試は「よそよりガチ」と言われていた。定員は4年生希望者全員より少なく、外部受験の人もいた。必然的に仲間同士の真剣勝負になる。誰かは不合格となる。
不合格になれば内定まで超短期の就活か、「留年」か、卒業後授業料を払って学籍を残す「研究生」の選択を迫られる。

材料力学、機械力学、熱力学、流体力学。

なんのはなしですかと言わんばかりの試験科目の演習問題解答を重ねる。これがまた難しい。
研究室に残る「過去問」を受け継ぎ、それをベースに必要な学力を身につけていく。レベルはただでさえ難しい各講義の試験よりも高い。
そして教科により1年〜2年のブランクもあり、演習問題以前に取り戻す必要があった。

研究室で勉強することもあったが、研究室には先輩方や同期もいて、集中しにくい。
工学部の図書館に行ったり、家で机に向かったり。
朝5時に起きて、地方FM局で音楽番組を聴きながら勉強することもあった。

4年生ということで少ない講義(再履修分2コマは余計だった)と研究テーマ決めをしながら、受験勉強に勤しむ。あんなに真剣に勉強をしたのは人生で今のところ最後だ。

そして、本番の「夏」を迎える。

特に苦手だったのは材料力学と機械力学。どちらも成績はギリギリ合格の「可」。
最後まで不安を抱えながらも、できる限りの努力は尽くした。

2日間に及ぶ学力試験はふわっとした手応えしか得られなかった。落ちてもおかしくない。家庭の事情を考えると、落ちれば即就活だ。ビクビクしながら翌日の面接に備えた。

高校入試も大学入試も面接のなかった僕にとって、人生初の入試面接だった。
慣れないスーツ姿で教授陣に取り囲まれる。
何を訊かれるかドキドキしていると、ある教授が切り出した。

「材料力学が3位で、非常に優秀でした。手応えはありましたか?」

こういう質問の出るときはほぼ『合格』を意味する。苦手なはずの材料力学で好成績を取れた安堵で、それ以降訊かれた内容は覚えていない。
実際に後日合格となり、本格的に卒業をかけた卒論研究に入っていく。

一方で、不合格者は合格発表の前、面接後に裏で知らされる。
友人のひとりがまさに憂き目に遭った。この時点で一般企業の内定式まで1ヶ月強。
選択肢のない中で、希望企業を絞り門を叩く。友人はまさに過酷な状況から、某自動車部品メーカーの内々定を無事確保した。

中には翌年の大学院入試を選択した同期もいたが、1年分の学費を棒に振るようなもの。家族の追加援助か、アルバイトで稼ぐか、教育ローンを借りるかの選択を迫られる。


選択に応じた、それぞれの努力。
努力と運の差による、それぞれの結果。
結果に応じた、それぞれの進路。

どのような形であれ、選択し、努力し、結果となって道が拓く。
そして、何度もやってくる選択の積み重ねにより自分の人生に昇華していく。

僕があの夏の大学院入試に当たって得た気づきだ。


その後。

甲子園初優勝時の駒大苫小牧高野球部キャプテンは母校の監督になった。

大学院入試に失敗した同期は、よりよい環境を求めて転職した。

そして僕はと言えば。
就活で苦労の末に今の会社に就職し、結婚して家族を持ち、酸いも甘いも噛み分けながら長い休職をせざるをえなくなった。
あの夏には想像もしてなかった現実を突きつけられ、今、新たな選択を取ろうとしている。

そう、自分の、自分だけの人生を形成している真っ最中だ。


読者の皆様へ向けて。

早い子では本人の意思に関わらない幼稚園から、
遅くとも中学校卒業時点で「進路選択」という人生の分かれ道を選ぶときが来る。

望んだ通りに未来を切り拓いていく人。
思い通りにいかず、挫折を繰り返す人。
内に抱えた思いは間違いなく違うだろうが、いつか命が尽きるまでこの選択は続いていく。

「ああ、あのときもっと頑張っていたら」

人により、思うことも多々あるだろう。
でも、違う選択や努力量を変えたときの道は存在することはない。

自ら選び、自らの努力で歩いてきた道のみが、今だ。

過去を後悔しても仕方ない。
今を、将来をどう描くか。
それがいつか最後を迎えるときに、最も後悔せずにいられる。

これを皆様に向けたエールとする。

(了)

(2533字)

本エッセイは第3回灯火杯応募作品です。

#第3回灯火杯


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