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ツボ売り 

東京の真ん中で「ツボ」を売る仕事についた山本は、上司や同期と出会い様々顧客に直面する。ツボ売りとはすなわち「坪」を売る不動産営業。
興味のない不動産の世界に足を踏み入れ淡々とした日常の中にも少しづつの成長を感じてゆく
不動産営業というドライな世界にも喜び、挫折、別れがあり、山本を成長させてゆく

創作大賞2023応募作品『ツボ売り』
あらすじ

第1話「氷河期の終焉に」


街は変わった

景色だけではなく、街に暮らす人々の生活。そしてみている風景、時代すべてが変わった

東京に出てきてから20年、仕事をして一回りが過ぎた今。ずっと街をみてきた。六本木・渋谷・新宿・東京、どの街も15年経つと当時の面影は無く次の開発を目指すべく街の形が変わる。

すでに自分が知っている街は無い、だが変わらずこの街で仕事し続けている

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「衣食住は人の生活にとって絶対なくならない職業だろ、その中で一番儲かるのが住=住宅なんだよ。だから住に関わる不動産はなくならない、一生かけてやれる仕事って事」


当時、この単純明快な説明で山本は就職を決めた。
決めたというよりは決めざるをえなかった。不動産は自分にとってこの冴えない日常から連れ出してくれるチャンスだと思って飛びついたのだ。

2005年秋

山本にとっては悪夢のような1年間だった。就職氷河期が終わったと言われ始めたその時、中流以下の大学を卒業見込みだった山本のもとに内定は無く、同期が就職を決めて卒業旅行の打ち合わせを始めているのに自分だけ未来が決まっていない。

大学4年の6か月がすでに過ぎていた。

田舎に戻れば、それなりの就職口はあったかもしれない。しかし長野を出るときに同級生に大口を叩いてしまった自分を恥じても仕方ない。今さら戻ることはできないのだ。

それは山本の中に残る小さなプライド・・いや、『地元<東京で働く自分の姿』といった《見栄》ともいえる一粒の希望だった。

背に腹は代えられない時期外れの就活説明会。
不動産営業という最も自分がやりたいと思っていない職種に飛び込んだのもそういったプライドと内定が未だ0という自分に対する焦りが大きい。

大手企業がこぞって開催する新宿NSビルといった大きな会場ではなく、その会社があるという日本橋本町の小さなビルの中にある会議室スペース。

就職説明会といってもこの時期にやっているだけあって参加者も自分と同じ身分なのだろうか、顔色は土気色でいかにも早く就活を終えたいという疲れがみえている。

「君はどうして不動産を受けようと思ったのさぁ?」

となりに座っているいかにもな大学生が声を掛けてきた。

急ごしらえで黒染めしたバサバサの髪質、耳にはピアスの穴の跡が数個は空いている。確実に就職活動でウケない風貌だと思っていたがその表情に暗い影は無かった。

「いや、全然内定が出なくて目指す業界を変えようと思ったんだけど中々この時期説明会からやっている企業が無くて・・・」

山本は濁す

「そうなのぉ?俺はもう内定もらっている食品会社があるんだけど、やっぱり不動産は稼げるって話を先輩から聞いたから無名でも、いっちょ挑戦しようと思ったのよ。ほら就職氷河期の先輩だったから良いとこいけなかったけど、いま結構稼いでるって話聞いてサっ心揺らいじゃったのよ!」

聞いてもいないことをベラベラ話す男の名前は石田といった。
あぁこんなヤツと一緒に働くのか、だから不動産は嫌だと本能的に感じ取った。

山本にとって石田のようなキャラクターは対極だ。

部屋の明りがワントーン落とされ、説明会が始まる。大手企業にありがちな司会の進行や事業説明は無く、いきなり社長が登壇する。

中小企業では見慣れた光景だが、この社長登壇。尚且つそこそこのスペースしかない会場は学生たちの熱気と薄い酸素濃度で少し湿った空気感が充満する。

「社長の大曲です!本日はお越しいただきありがとうございます。今回は弊社の大事にしているモットーとオフィスの仲介という皆さんに馴染みのないであろう業界について説明します。」

思ったより紳士的だなと山本は思った。


そもそも不動産ならば日焼けした社長が金のロレックス、というような思い込みがあった。しかし今目の前にいるのは如何にも普通の企業勤めのサラリーマンといった特徴の無い紳士的な人物だった。

山本にとっての印象は大いに向上した。

「オフィスの仲介は、オーナーとオフィスを探している顧客を結び重要な意思決定を手助けする仕事です。テレビにも出ませんし、一般的な認知も低いです。オフィスを移転する時には数百万円から数億円規模のお金が動きます。そういった意思決定を支援する為になくてはならない仕事です」

「皆さん、不動産というから煌びやかな業界で金儲けというイメージがあるんじゃないでしょうか?」

「不動産のそういった側面は否めませんが、我々の仕事の顧客は主に企業の総務部長や社長です。そういった経営陣に誤解を招くような恰好では仕事に望めないので私はシンプルでかつ清潔感を重視しています」

山本にとって一連の説明は、とても腹落ちする内容だった。隣で聞いている石田も先ほどまでの舐めた態度は消え、集中して話を聞いている。会場が狭いせいもあるのだろう。全体から先ほどの湿気とは異なる熱気を感じた瞬間だ。

その後、事業部長や広報部などが代わる代わる事業説明を行うが彼らも誠実そうな印象を受けた。

不動産という悪そうな雰囲気を自らが勝手に作り上げてしまっていただけで、もしかするととても重要な仕事なのではないだろうか。不安は払拭され、少々のあこがれを持って山本はエントリーを決めた。


第2話「東京ではたらく」

きっかけは些細な見栄だが彼は知らぬ間に顧客と商談を進めている自分の姿を想像し始めた。


「君は学生時代何をやっていたの?自分の強みはあるの?」

何度もインプットされていた質問だ、そしてマニュアルのようになんども答えてきた。結果はいつも不合格だ。今日もまたマニュアル通りに回答してしまったら結果は同じではないかと山本は思った。

しかし、山本はこの1年間で培われた回答より優れた回答を持ち合わせていないのもまた事実だ。

「いや、君それ本心じゃないっしょ、どうしたいの?」

山本は不意を突かれる。そんな風に回答を遮られたことも初めてだ。多少背筋に嫌な脂汗が流れる・・・

「ぼ、ぼく・・いや私は今まで学生時代にアルバイトも真面目にこなしてアルバイトのリーダーとして…」

さらに遮られる

「だからね。それって君の本心じゃないと思うんだよね。別に圧迫ってわけじゃなくて、何がやりたくてウチを受けてどんな人材になっていきたいかを聞いているんだよ」

山本は、答えにとまどった。同時に自分が説明会で得た高揚感や面接を受けようとした動機などを一切踏まえずに、ただ面接攻略をすべく今まで通りに受け答えをしていた自分を恥ずかしく思い始める。

本心ーーー

本心は地元に帰りたくない、大学の同期の就職が決まり焦っている。そして乗り気ではない時期外れの就職説明会に出てしまったが、不動産に魅力を感じたこと、そしてオフィス仲介で社長と商談している自分をイメージしてここなら自分が輝ける気がする。

思いのほか素直にしゃべれた自分に驚きつつも、こんな同期で良いのか不安になった。若干の沈黙のあと

「うん、まぁそうだよな。そうそう」

「ウチの商品なんてオフィスの仲介だから、競合との優位さが無いのよ。扱う商品はみんな同じ。そんな中だから、君がどうしてウチに興味を持ったかというストーリーが聞きたいのさ。その結果、熱意が伝わる事や共感を生むの。だから自分の動機をちゃん持ってないと受からないし売れないよ」

そう言い放ち面接が終わった。果たして受かったのだろうか落ちたのだろうか。

現在3次選考まで進むことができたオフィス仲介会社「グランドオフィス」以外はもう受けていなかった。

しかし今回の面接がだめであったら就職浪人か、今続けているステーキレストランのアルバイトを続けながら就職先を探そうか?いっその事、長野に帰る選択肢もあるがどうしても山本の小さなプライドがそれを許さなかった・

東京でオフィス仲介をして客先である社長と対等に商談している自分の姿。これに賭けるしかない。

3次面接が終わり手ごたえも無いまま、小田急線に乗り向ケ丘遊園駅で降り家に帰る。

すでにこの家も4年、つまり東京へ出てきて4年が過ぎた、自分はあといつまで東京にいられるのだろう。

しかしそんな心配は翌日には消えることとなる

枕元の携帯電話が緑色に点滅している。折りたたんだ携帯を開くと2通の新着メールを受信していた。1通は1歳年上の彼女「由美子」からの着信、もう一通は「グランドオフィス・総務部」からの連絡であった。

おもむろにグランドオフィスのメールを開くとそこには丁寧なあいさつ文の後に「内定」の一文を発見することができた。

安堵と同時に、なぜあの面接で自分が採用されたのかが理解できなかった。だが、結果として今日をもって山本の就職活動は本日をもって終了した。

春からはオフィス営業として、社会人としての第一歩を踏み出すのだ。

後日談
あまりの嬉しさに由美子への返信を忘れてしまった山本、その後怒りの電話が鬼のような声色で由美子からきたのだった。

第3話「新生活始まる」

形だけの内定者懇談会が終わり内定者は4名という事がわかった。そこで説明会で隣にいた石田も内定していることを初めて知った。こんなことであれば石田ともメアドを交換しておけばよかったなと山本は思う。

山本、石田の男性2名と南野、吉岡の女性2名というグランドオフィスにとっては初の4名新卒採用らしい

グランドオフィスは東京を中心にオフィス仲介を行っている企業。創業者の大曲社長も元は不動産業界にいたのだが、業界構造の難しさと売上に固執する企業体質に疑問を持ち独立したいわゆるベンチャー企業である。

現在の社員数は約40名、大体が20代から30代と比較的若い。

その中で5名の新卒を取るというのだから社長の期待や意気込みが見て取れる。予定では山本を含む新卒は1か月の研修を行い、その後は各1名の先輩につき仲介営業として独り立ちしていくとのことだった。

山本にとって社会人としての1か月は一瞬の出来事だった。メールの打ち方、電話のとり方、そして名刺の渡し方や営業同行、物件確認の方法など学ぶことが多かった。石田や同期とも接することはほとんどなく座学と研修で日々が過ぎた。自分が社会人になったことと社会人らしくスーツに身を包む姿に充実感もある。これが社会人なのだと思った。

山本が配属されたのは営業1部、そこで山本は直属の上司となる岸部課長と出会う

岸部は30歳、部下は4名ほど抱える営業グループの取りまとめ役だった。若いながらも大きな案件をいくつもまとめ部下が4名いるという優秀な社員だが配属時の岸部は挨拶もそぞろにすぐ業務へ向かった。

「岸部さん、今日からよろしくお願いします。早く一人前になって岸部さんや課の役に立てるように頑張ります!」

岸部はパソコンのモニターから目を離さないまま

「うん。頑張ってよ。まずはこのリストにある空室確認しておいてくれる?」そう言った。

愛嬌は無く機械的だったが、山本にとってはまだ何もすることが無いので岸部からもらうリストの空室確認を日々こなして伝達した。面白味が無いが社会人としてもらった仕事を必死にやらねば・・・そして岸部から学べることは吸収しなくてはと丁寧に仕事した。

半月が過ぎたときに岸部から意外な言葉が放たれた

「そんで山本君、今月君が果たさなきゃいけないノルマは1件の成約だけどどうやって売上上げるの?」

山本は言葉に詰まった。案件?売上?
岸部から与えられる仕事を毎日こなしていたが、そこで売り上げをあげる話も成約する話も聞いていなかったからだ。

「あー、もしかして君も座っていれば案件が空から降ってくると思っているクチ?君が毎日やっている作業は俺の案件の空室確認だから俺の数字には影響するけど君自身は何もやっていないのと一緒だぜ。どうするの?」

山本は返す言葉が無かった。

「じゃあ仕方ないから俺の見込みが薄い顧客のリストあげるからこれで電話して、移転したい顧客があったらやっていいよ。電話の仕方は研修期間に教わったでしょう。今日から空室確認はしなくていいからこっちやりな」

「わかりました。岸部さん、見込みが薄いという事は移転をしたい意思が弱いという事では?」と頭に山本が思ったことを返した

「そりゃそうだ。いきなり俺が新人に見込みが強い案件なんて渡すわけないでしょ。そのリストの中から売り上げが立つ案件を発掘できれば課としてはありがたいし、君にとっても1件成約できて良いじゃない。社会人になったんだから頭使って売り上げあげる方法考えなよ。手取り足取り俺は教える時間ないぜ」

一瞬頭が真っ白になったが、山本にとっては岸部は直属である。逆らう事もできない、なんにせよリストをもらったのだから明日からはこの300件ほどある会社へ電話しなくてはいけない。

山本の先月までの華やかな気持ちがしぼんでいくのがわかる。これが社会人か、これが不動産会社なのかと思った。

その日は珍しく同期が飲みに行くという事で20時には退社して都合のあう同期3名と近くの中華料理店でおちあった。

「俺は今3件内見をもらって、1件申し込み予定なんだよ!不動産って気合いれて頑張れば成果あげられるんだなチョー楽勝じゃん」石田が酒が進む中上機嫌だった

「俺は岸部課長の元で今日、どうやって成果をだすんだって急に言われたよ、俺は岸部さんの言う空室確認ずっとやってたけどそれじゃダメなんだな」

「へー岸部さん、何考えているかわからないけど結構厳しいだな」

「ウチの課は先輩が案件を一緒にやろうって言ってくれて半分は俺の売り上げにして良いって言われるからやる気もでるんだよな」

どうやら山本の所属している1課は岸部課長の判断である程度決まってくるらしい他の同期達は先輩との同行で少しづつ案件を持たせてくれるが1課は自分で売り上げを上げろ、人に頼るなという課のようだ。

「ま、でも岸部さんは新規案件とってくるのすごく強いって評判だし、ベンチャー企業の移転にも顔が利くらしいからお前がうらやましいよ」

石田はそう言うが山本の気持ちは晴れない。3件内見していて1件の成約が見れている石田に対して山本が今できることは岸部からもらったリストに電話を掛けるだけなのだ。そのリストは見込みが薄い顧客だと言われたばかり。

同期の状況を知ることができる飲み会は気晴らしになった。しかし山本の胸の中には明日から始まるリストへの架電や不安がのしかかっている。

乗換駅の代々木上原は終電間近であるにも関わらず、人であふれかえっている。各駅停車に揺られて30分都会とも田舎とも言えない向ヶ丘遊園駅を目指してほぼ満員の小田急線にのって家路を急ぐ。


「お世話になっております!グランドオフィスのやまもとです!」

「だからぁ、移転の話は一旦延期になったんですよ。何度も電話してこないでください」

岸部からもらったリストに電話を掛けるが、たいていが担当者不在かそれとも移転しないという一点張りだった。そもそも見込みの薄いリストという話なのだからこれで売り上げがあがるわけは無い。

岸部もわかっているのになぜこのリストを自分に渡したのだろうか。

朝から電話をし続けているがすでに25件を越えるが1件も移転をする気配がない。いやそもそも見込みが無いのかもしれない。1件だけ移転を検討していると言われたが、坪数や価格やどういった理由で探しているかが全く分からず電話を切られてしまった。

こんなことにどんな意味があるのだろう。

山本の心に不安の影が広がる。自分はこのまま電話して案件が無いまま今月を終えてしまうのだろうか、岸部のリストが終わったら自分は何をすればいいのだろう頭が真っ白になりそうだ。

いや、今はこれしかできないのだから電話すべきか・・・電話をプッシュする手が止まる。

移転を促すことで企業の価値を上げ、オフィス移転の協力をすることに意義があるという大曲社長の言葉に感銘を受けたが、今やっていることは完全に押し売りではないか?とも考え始めた。

いやそもそも半月間空室確認だけをして今さら売上を上げろと言われてもと同様の疑問も湧いてくる。

企業の社長との商談など影も形もない

岸部に質問に向かいたいが、岸部は多忙である。会社の中にいることがほとんどなく、1日の半分は商談と内見である。見込みの薄いリストを後輩に投げて自分は見込みが強い案件に絞れば売り上げがあがる。

他の課からは尊敬できる稼ぎ頭なのかもしれないがそれは他人が作り上げた勝手な偶像だとその時山本は思った。

岸部の課は営業がほとんど会社にいない。岸部と同じく皆商談や内見があるから、全員が集まるのは水曜の夜に行われる課の数字報告会のみである。

夕方17時 岸部が営業から戻ってきた

「岸部さん、いただいたリストを電話したのですがどれも移転したいというような話は無かったです。やはり見込みが薄いリストでは・・・」

「そうか、何件電話したの?」

「40社ほど電話しました」

「少ないね、1日あったんでしょ?100はいけると思うのに何してたの?」そういった岸部の言葉

「一生懸命電話しましたし、100件はさすがに・・・」

というと岸部はおもむろにリストに載っている企業に電話を掛けた。

「お世話になってますーグランドオフィスの、あ、はいそうです。かしこまりましたーまた改めますー。」
一連のスピード感にも驚いたが聞いたことのない明るい声だったことも衝撃的だた。

「35秒」
「え?」

「だから35秒、1件の電話」

「断られる薄い顧客に対しての電話は1件35秒なの。という事は約1分に2件は電話できるのよ。1時間あればこんな電話なら100件掛けられる。君は新人だし1件あたりもう少し割り切りができなくて時間がかかるとは思っていたけどさ」

一瞬の無音があった、そして

「4時間ちょっとあって40件てことは1時間あたり10件も掛けて無いってことでしょ。手数が少ないの、余計な事考えてたり他の人の目が無いから休み休みやっていたんじゃないの?」

言われてみれば、1件ごとに立ち止まっていた事には言い訳のしようがない。しかし言われても30秒で電話が終わることにどんな意味があるのだろうか。

「まあいいや、そんでリストの40件から1件も移転ニーズはなかったの?」

「1件移転したい意向があると言われましたが、坪数も時期も教えてもらえませんでした。多分体の良い断り文句かと思います」

「それどの会社?」「インターセクション株式会社というIT系の企業です」

「リスト貸してみな」岸部はそういって、リストを眺めPCで打ち込んだ後に受話器に手をやった。午前中に掛けたリストなんだからどうせまた同じ結末になる・・・そう山本は思った。

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「それでは!週明けの月曜日の午後に2名でお伺いします!はいよろしくお願いします。はい、イメージ湧いてます。」

「どうして・・?」岸部に対しての第一声だった。

「君はこの会社が移転しないと思ったけど、俺は違うと思ったそれだけだよ」
「種明かしをするなら俺は会社概要を見たのさ、薄いとはいっても一度は案件として扱ったから可能性は0じゃない。そして、この企業は現在千駄ヶ谷にオフィスがあるベンチャー企業、坪数は物件データを見れば大体わかる22坪だ。この手の企業が移転するのは大抵拡張移転だ。ということは1.5倍から2倍の移転先を探していると思ってカマをかけたのよ」

「良いか?リストなんて言うのは誰が掛けても大抵同じなのよ」
「違うのは、タイミングや移転をする意思があるかを感じとる嗅覚」

岸辺はまくしたてるように説明を続ける。

「嗅覚が無いとモノにはできない、惜しかったな!ただこの電話掛けたのは俺だ。案件じゃないって言ったのは君だから、この案件は俺がやるぜ。」

そういって山本は課の数字報告会に向かった。

新人である山本は当然案件が無いので報告すべきことは無い。つまり自分の座席で帰りを待つ事のみが許されている。

悔しさよりも呆気に取られた。
と同時に自分がやっていた作業の未熟さと先輩社員である岸部との明らかな器の差を垣間みた。同じ電話を行っていてもスピードが違う。そして「嗅覚」が違う。

自分はまだスタートラインにも立ててなかった。案件は持っていかれた。今日の収穫は0だ、明日も電話かけねばならない。

しかし、一見不愛想に見えた岸部の教えは山本を一歩大人にするには十分な刺激となった。嗅覚が甘ければ他人に取られる、そして取られても言い訳はできない。

案件の濃い薄いは嗅覚を高めなければ何件電話しても無駄になってしまう。すこしだけ光が見えてきた・・・・ような気がした。

第3話「打席に立つ」


「インターセクション社の移転、山本君やってみる?」

アポイントから帰る際に岸部から発せられたのは意外な言葉だった。

「でも、先日俺がやると岸部さんおっしゃっていたじゃないですか、なぜ?」

「今回のインターセクション社の移転は約50坪、エリアが千駄ヶ谷よりも立地の良い場所という、かなり広域なオーダーだ。当然俺がやっても良いが、他の案件も進めなくてはいけない。だから今手が空いている山本君ならやれるんじゃないかなと思ってさ。どう」

「ただ俺の下でやる案件って、結構厳しいけど大丈夫?」

「大丈夫です!」瞬時に山本は答えた。

岸部が提案した物件が50棟、そのうち内見の予約をとった物件の数は約13棟だった。

山本にとって内見の経験はあるものの実際の顧客を案内することは初めてであった。しかも1日で約13棟見て回るというハードなスケジュール

大丈夫です!と力強く答えたものの、何が大丈夫なのだろう。不安と期待の気持ちがむくむくと湧いてきた。期待のほうが大きかったからの返事だったのかもしれない。

しかし、商談・案内につながったという事自体、自分が不動産営業として一つ進んだような気がしていた。よし、案内できるように頑張ろう。一歩一歩だが確実に成長している。

そう自分に言い聞かせた。

「じゃあ明日までに案内する物件の場所覚えといて、現地調査しておいてね」

「え?」

明日まで?という単語に聞き間違えてしまったのかと思い聞きかえす。

「え?じゃないよ、山本君物件知らないんでしょ。それじゃ案内できないじゃないどうやって案内するつもりなんだよ。内見の予定は明後日なんだから明日中までに見ておかなかったら内見できないでしょ」

冷静に言うが、現時刻はすでに17時を過ぎていた。「どうやって・・・」と言葉を詰まらせる山本に対して岸部は続けざまにこう言った。

「オフィスの営業は、空室確認が下ごしらえ。商談のアポイントがオーディション、内見がいわゆる本番よ。オフィスなんていう商品は誰でも扱えるの。」「それを売ろうとする営業が物件の立地や案内に手間取ったら意味がないだろ。場合によっては内見が明日という場合もある。どちらにせよ現地調査しない営業は舞台に立つ資格が無いってことよ」

・・・・

その日の山本の帰宅は終電だった。

オフィスの不動産営業は通常車での案内はしない。それは土地勘や物件情報を顧客と同じ目線で判断するためだ。

つまりは電車と徒歩で現地調査せよという指示だった。岸部が最後に直帰していいよと言い残したのは優しさなのか、それとも皮肉なのかはわからない。

しかし、山本はこの2日で嫌というほど社会人、いやオフィス仲介ではたらくという事の現実を知った。足の裏にできた血豆が潰れ、風呂の中で鶏が絞められたような声にならない声を上げた。

憧れた東京のオフィスで社長たちと対等に話す自分という姿とは大きくかけ離れている。仕事とはこういうものなのだろうか、デスクワークではなく今日の大半はフィールドワークによる疲労だ。

小田急線で30分の向ヶ丘遊園1kの風呂場の中で湯船に顔をつけ明日からの自分の姿を想像した。

13棟のビルの立地、歩き方、駅からの距離、だんだんと薄れていく記憶。明後日の案内はどのエリアからだっただろうか、まずは岸部に報告しなくては・・・・

第4話「初成約」


「結果として御社を含めて2-3社がN.S.Eビルを検討しているという事です」インターセクション社内で緊張感の溢れる打ち合わせが行われた。

先日の内見から更に候補を挙げて、結局のところ物件は15棟にのぼった。岸部の持論では短期間で棟数を見る顧客は決まる可能性が高いとの読みもあり、とことん提案しようと方針転換を受けて手のことだった。

その分山本は追加で2棟の現地調査を行う羽目にはなったが、物件が大詰めという事もあり苦痛は感じられなくなっていた。当初はエリアを広げていたインセーセクション社であったが、千駄ヶ谷から区をまたがない渋谷という街で物件の選定を終えていた。

渋谷といえばビットバレーと言われ気に入らない競合企業も多いと最初は言っていたが逆にコストで考えると新宿よりは安いところも結果として候補に残った理由になったようだ。

対象のN.S.Eビルは渋谷から徒歩で8分程といった立地にあり決して駅近の物件ではない、しかし落ち着いたビルの印象と渋谷風の雑居感が無い落ち着いた物件だった。また若干駅前の喧騒から外れており落ち着いた環境で千駄ヶ谷と似ているのも高評価であった。

物件賃料はオーナーの腹積もりで坪19,500円が最大の交渉幅と言われている。ただし同タイミングで内見している顧客が1社いると聞いている。

「2-3社検討している場合はどうすれば、良いですか?」インターセクション社の社長も前向きな回答を示した。

「物件に引き合いが多い場合は、会社の与信力と金額で選ばれる事が多いです。現在貸主側は20,000円を下限と言っています。さらに1,000円引き上げましょう。」

「しかしそれで確実に抑えられるんですか?」

「保証はできません。御社はまだ設立して数年のベンチャー企業です、対抗馬が上場企業などであれば勝ち目は無いと思います。しかし、同列であればやはり賃料を上げた方に優先権があります。」

同席している山本はわからないことだらけだった。聞いたことも無い話を岸部はしている。そして山本もインターセクション社長もただ頷く回数が増えていくように思えた。

岸部は続けざまに

「与信に関しては私共でどうすることもできません。しかし我々は御社の代理店です。御社の事業概要について少なくとも貸主よりは熟知しています。今後の携帯電話ゲームの市場規模、そして携帯電話がによってインターネット上でゲームができれば顧客層は爆発的に伸びるという事を御社に代わって説明できます。」

インターセクション社長もこの発言には嬉しいのか顔が少し赤らんだのを山本は見た。自分がなりたかった社長と対等に話している社会人の姿を岸部は少なくとも体現している。

インターセクション社長も一人では判断がつかないという事で今日は一旦取締役を集めて方針を決めるという事だった。取締役といっても設立時の同級生3名らしく、本日中には回答しますという事だった。

「わかりました。ではここに、貸主側の20,000円の申込書と1,000円引き上げた21,000円の申込書を置いておきます。意思決定をした申込書に捺印をいただきFAXかメールを入れてください。どちらの条件でも競合との交渉は誠意を持って行います」

本日の打ち合わせは終わった。終始緊張感があったが、インターセクション社長にとってはN.S.Eビルに行きたいという意思は決まっている模様だ。

どの道、明日になれば申し込みを出すのだろうなというのは山本の目にも明らかだった。

帰社報告をして戻りの総武線に乗りながら、岸部は中づり広告を見上げながらつぶやいた

「21,000で出すと思うよ」

「なぜ、わかるんですか?ちょっと渋っていましたが、しかも金額が・・・」

「まぁ見てなって、俺の描いたようにこの案件は着地するから。無事契約したら山本君にもやり方教えてあげるよ」

釈然としなかったが、そう言って詳しくは語らなかった。

岸部のテクニックなのだろうか、そもそも釣り上げた賃料に乗ってこなかったらまた物件の探し直し・・また現地調査をしなくてはいけないという不安がふと脳裏をよぎる。

しかし山本の心配は杞憂であった。

事務所に戻ると岸部の机には坪21,000円で押印済みのFAXがしっかりと届いていた。打ち合わせが終わってからまだ1時間も経たずのことだった。

今月の新人売り上げは山本ただ一人だった。

もちろん結果としてインターセクション社に関しては、案件のほとんどを岸辺がまとめたあげた。今回は成約に到る経緯の中から山本も内見や条件交渉の会議には同席した功績を認められたからに他ならない。

当初は「俺の案件」といっていた岸辺も異論はなく最短売り上げ記録として大曲社長から期待の新人だと褒められるシーンまで用意されていた。

当初は調子の良かった石田は内見の数が多かったものの顧客側が煮えきらず次月への持ち越しと悔しい結果だったらしい。

「山本、この前の飲み会の時は全然言ってなかったのに独り先に抜けてズルいぜ!」

と不満を漏らす石田だが、その言葉には羨望の眼差しが込められており山本も嫌な気持ちはしなかった。

山本にとって1ヶ月がこれほど長いと思ったのは初めての経験であった。物件の現地調査をして味は豆だらけ、休ませてももらえず追加の調査。内見前の岸辺からの指示はとにかく全ての質問や言動をメモして持ち帰れだった。慣れない案内をしながらメモ帳を片手に緊張の連続の1ヶ月が終わろうとしている。

全体での売り上げまとめも終わり営業課でのささやかな打ち上げが人形町の地下にあるチェーン店居酒屋で行われた。山本はこの案件で疑問であった点を岸辺に質問する機会が巡ってきた。

「インターセクション社に当初よりも高値で契約させたのは何故ですか?そもそも貸主が持っていた条件よりも高かったじゃないですか、お客さんにとって割高な条件だと僕は思いました」

「相手もそれを飲んで申込をしただろ。これがオフィス仲介のやり方さ。条件を他より引き上げて決める事が大事なんだよ」

山本は酒の勢いもあり口をはさむ。

「しかし、貸主が想定するよりも高値で交渉するのが本当に顧客にとって良いのでしょうか」

これは言いすぎたっと山本は後悔した・・・。案件をまとめたのは岸辺である。何より新卒である自分が酒の席で意見して良い話ではないと。しかし不躾な質問に岸辺は店の天井を眺めながらこう応えた

「オフィスビルっていうのはさ、替えが利かないんだよ。似てる物件は沢山あるけどお客が本当に気に入ったものを確実に用意するのは難しい。第一にあの物件には他の検討も入ってた、ベンチャー企業を選んで取ってもらうにはよほど条件が良くなきゃ競えない、そういうものさ」

「そもそも、俺らは何を商売に売ってるか山本くんはわかるか?」

山本は少し考えて

「オフィスビルいや、オフィスのスペース。でしょうか」自信なく答えた。

岸辺は一瞬酔いが覚めたかの様子で山本の眼を見てこう言った。

「ツボだよ」

「え?」

「坪。俺たちはオフィス仲介っていうのは【坪】を売ってるんだ。その価値は時期によっても変わる、同じ物件でも時期が違えば値段も変わる。同じ物件でも入居の時期が違えばもっと高い時があれば、安く値崩れする場合もある」

「俺らは顧客にとって入居させる為に努力して、貸主にとっては少しでも良い条件をとり物件の価値を上げる。そして俺らはその単価で売り上げが決まる」

「このツボをいかに広く高く売るかで俺たち仲介の価値が決まるんだ、【高く・確実に】契約を決めるやつが良い営業だよ」

いつになく饒舌な岸部の口調には彼なりの美学というものに酔いしれている様だ。

しかし、山本からすると顧客は無事に契約できた姿とオーナーには思いもよらない高単価で決まったという言葉はどちらにとっても価値のある事を成し遂げたのだろうと理解する。

岸部のこだわりは異常だと当初山本は思った。無茶なスケジュールでの現地調査、急な依頼。到底こなせない個人に振られた仕事は土日に出社してこなすしかない。この1ヶ月で休みだと思えたのは一日も無かった。

しかし、仲介という仕事の意味やこだわりを岸部の口から直接受けられたのはそれに勝る収穫となる。山本はこの1ヶ月で大きく成長を実感した。

社会人、とりわけオフィス仲介の意味について気づかされた事が山本にとって大きな意味を持てたのだった。いつか自分も岸部のような貸主と借主が共に満足できる仲介になろうと心の中で誓う。

第5話「高い壁」

春があっという間に過ぎ、夏になり、その夏も過ぎようとしている。岸部から案件を一緒にやろうと振ってもらえる機会も増えた。

岸部なりの親心なのだろうか?山本にとっては嬉しい瞬間である。

その分、山本は仕事に没頭せざるを得ない。岸部案件はその教えから物件調査が必須である・・・。日中はリストから電話をして夕方になれば現地調査をする生活である。足りない分は土日にも現地調査と休みなく活動していないと対応できない。

また、各課の担当者にもお願いをして【案件にならない顧客リスト】への電話も開始した。岸部のリストはアプローチが終わってしまったので他の部署でもそういったリストがあるだろうと予測しての働きだった。

新人で契約をすぐにとったというのが他の課でも好印象だった為リストを手に入れるのは容易だ。

山本にとって幸運だったのは最初の案件でIT系企業の移転をできたことがだ。この1件目がヒントになり山本にとっての突破口である。

『今の時代はIT系が伸びている、ITであれば人を増やしている。だからオフィス移転の可能性がある』

しかしオフィス仲介はアナログである。2005年に入ってもパソコンでメールが打てる営業は少なく物件管理している会社もFAXが主流である。

電話してアポを取るか飛び込むかチラシを巻く事が成果に繋がっていたので案外泥臭く非効率な構造なのだがITは違う。ITはメールで対応が主流だった。

山本の戦略はシンプルだがその隙をついたものだった。

それはまずは電話で連絡して、総務担当や移転担当のメールアドレスを聞き出しメールで連絡を取ることだった。テレアポや訪問に比べメールは目を通してもらえるチャンスが大きい事が利点である。

担当者が社長の場合はその企業に訪れて名刺交換のチャンスを探った。電話・ファックスのオフィス業界に対してメールを送るという差別化により案件の整理がしやすくなる。

時を同じくして2005年はIT企業にとっても追い風であった。ソフトバンクは東京汐留のオフィスに移転して話題を呼び、六本木ヒルズはライブドアをはじめとしてIT企業が話題性を呼び、いくつものベンチャー企業が連日テレビを賑わせている。

当然山本のもとに来る案件は規模が違えどこのIT企業と言われる業種や、若い企業の移転を促す活動に最も力を入れていた。楽天やライブドアの様な企業を自分も見つけるのだと信じて。

少しづつ信念が実を結び、5月・6月・7月と必ず1件は契約をしている順調な山本は同期の中でも注目される存在となっていた。しかし、あくまでも新卒として注目という話であって会社の中ではまだまだ課の先輩営業にも追い付かない。当然岸部とは天と地の差である。

しかし、注目とは良いものだ。リスト回収の際には他の課と直接接触する機会も増える。同期の石田とも久々に話ができる。最近は部署が異なると全く接点がなかったので同期と話せる機会だった

「俺は、最近やっと先輩から案件もらえるけど全然決まんねーの。山本は岸部さんトコだから運がいいよな!」

こっちの苦労も知らずに、相変わらずの軽口だ。しかし上司の運という点ではもっともだと感じた。

石田は石田なりの苦労があるらしい。

「先輩案件予算も厳しいし、会う人老人ばっかりだぜ。金属業界なんてわからないし、業界研究や新聞を読めだ、日経新聞だ、株価だと覚える事ばかりで土日なんもしないで寝て1日過ぎるわ。社会人厳しいよ!」

なるほど。

積極的に追う業種が違うとやるべき話や学ぶべき業界構造が違うのかと山本は頷く。幅広い知識の獲得が必要な業界もあり、石田はそれに向かっているのだと理解できた。

しかし同時に石田は土日寝るだけという過ごし方をしているが自分の場合そうはいかない。岸部の現地調査をしなくてはいけないからだ。自分の方が圧倒的に成長でき、経験を積めるし業界自体も変化するので充実した環境に身を置いているという自信にもなった。

「山本はどうなのよ?平日は仕事の鬼かもしれないけど、休日は彼女と遊んだり公私共に充実って感じか?」

「あぁ、まあそんな感じだよ」

「やっぱ、新卒で早く結果出すやつは違うよなぁ!」

石田は羨ましそうな、どこか皮肉めいた口調でそういった。天性のものなのかそう嫌味にも聞こえないのが石田の良い所だ。

・・・

そういえば、もう由美子とは1か月近く連絡を取っていないことに気づく。すれ違っているつもりはないが、社会人としての時間が経つスピードに驚きを隠しきれない。いや、今の自分にとっては仮に連絡をとっていても仕事以外に費やす時間は取りにくいだろう・・・とも思った。

仕事が楽しいかは、、わからない。しかし、オフィスを案内し自分の想定した物語や条件で決まっていくことに喜びを感じ始めている。

さて、明日は本命物件へ内見だ。山本は現地調査において抜かりは無い、貸主へのアポ取りも先手を打っておいた。

貸主は、老舗の和菓子屋三代目だが事前に味も歴史も確認済みである。すでにその情報は顧客にも伝達済みである。若干与信には厳しいらしいが、下調べをここまでしておけば内見時点で話に困る事は無い。

山本の頭の中は明日の内見を攻略する道筋が浮かび始めていた。


日が沈むのが早くなったと感じる秋から冬の訪れ。日の沈みと同じくこの日の山本の気持ちも沈んでいた。

入社時から快進撃を続けてきたが、ここにきて案件が立て続けに自分が提案した物件以外のビルを契約してしまい勝てない。

オフィスビル、こと不動産営業一般としてどんなビルも提案できるが基本的に交渉する権利やその顧客の申し込みを得る権利は、内見をした会社が獲得できる。つまり提案していても内見させることができなければ成果にならないのだ。山本も複数提案している物件には入れていたものの一歩のところで他社に案件を取られてしまう状況だった。

自分の営業力なのか負け続ける居心地の悪さを感じている。

この案件は他の部署からもらったリストだった。
ニューリアル・ネットワーク社。絶賛成長中の営業会社だった。実際の商材は、光回線の営業からコピー機、営業代行、ふとんの訪問販売まで手掛けるかなり勢いのある若い会社だ。

当初から複数の仲介会社に声を掛けており物件の提案スピードや担当者の好みで選別される傾向にあるが、今回の負け方は山本が提案しているときには気になっていた模様だったからこそ悔しい。

取り返すべく他の案件で数字を作らねばと新たな顧客リストから電話をしようとした際に、久々に社内にいる岸部に声をかけられた

「お、ニューリアル社?山本君が追っかけてた案件じゃん。決まるの?」

こういう時の反応は目ざとい。これが売れる営業なのだろうか、正直ばつが悪くタイミングは最悪である

「いえ、実は・・・」

「何?どうしたの、最近勢いなくなってきたんじゃない。スランプに陥ってるんだとしたら早いよ。」

ばつが悪いが、しょうがない。洗いざらい話をすれば気持ちも楽になるかと思い、これまでの経緯を説明した。

ニューリアル社が提案したが内見に至らず競合の仲介会社に取られてしまった件。個人的には内見をしていた自分のビルが良かった点。数字が足りないので他の案件で補填をする件などを話した。

「へー、池袋の会社で成長してんだ、なるほど岡田ビルね。あー確かに今のオフィスからは近いね。そんなに現状を変えたくないけど坪数大きくしたいのね」

なるほど、ねと岸部はうなずく。物件概要や山本の物件提案したものを見比べて条件的には岡田ビルの方が良い。これを先に内見させられたのは痛い。

「よしっ!」とおもむろにつぶやくと岸部は山本に提案してきた

「この案件さ、アポ取ってよ。山本君に同行するよ。ただし、もし上手く進めたら、俺に売り上げの半分頂戴ね。ほら、新卒最初の案件あげたでしょ。お返しでいいから!」

山本にとって悪くない話だが、この状況からどうやって挽回するのだというのだ。岡田ビルの内見は取れていないから今さら割り込むのは無理だ。岡田ビルのオーナーも個人オーナーである。そういったルール違反は認めないだろう。

岸部は上機嫌に鼻歌を歌っている。こういう性格の人ではないと思いつつ勝算はあるのだろうか。

山本は不思議であったが、まずはニューリアル社にアポイントの連絡をすべく電話に手を掛けた。

ニューリアル社の総務担当はいら立っていた。営業会社にある光景だ。営業会社で強いのは圧倒的に営業だ。その分無理難題や雑務一般を総務担当が受けやすい、かくいうニューリアル社も同じなのだが、今回はオフィスの移転という会社の中でも優先度が高いプロジェクトである。

そこに対してやっと物件が定まり申し込みが成立して移転計画が落ち着こうという時に別の仲介会社から無理やりアポイントを入れられたのだから、そのいら立ちはまさに山本たちが到着した時が最高潮であった。

「だから、山本さん。前にも言いましたが今回は別の仲介会社さんに見つけてもらった岡田ビルでもう決まりなんですよ。今更仲介手数料を請求されようが物件にとって良い条件だろうが、我々の意思は揺るぎませんよ。」

「そもそも、岡田ビルを提案したのは御社ですが、熱意をもって紹介してくれたのは他社の仲介担当さんだったんですから…」

結果は見えている、山本は言葉に詰まった。

アポイントを無理やりこぎつけたがここまで不機嫌を露わにしている担当者をどうやって岸辺は口説き落とそうというのだろう。

一通り山本への愚痴ともとれるような文句や、物件への意思が固いという話、代表者もそれで同意しているという話を担当から聞いた後、岸辺が落ち着いた口調で語りだした。

「おっしゃる通り御社のご移転計画に対して文句や今更何かをしようということはありません。条件や今のオフィスからの近さなど踏まえても御社のご判断に間違いはないと思っています。」

では、なぜ今更?というのが山本からも担当者からも出ていた。岸部の考えていることが全く分からないという節だ。

「物件の謄本はちゃんと目を通されていますか?」

「謄本?」これには担当者も目を丸くした。

岸部は続けざまに

「やはり、そうですよね。山本が若い事もあって1つだけ懸念材料を説明していなかったと思いまして、どうやら他社もそこについては明言していないかと思ったのでご説明にあがりました」

「謄本に目は通しましたが、そこについて何か問題でも?」

担当者も威厳があるのか、知らないとは言わせない態度だった。顔色からは怪訝な雰囲気を感じる。

「岡田ビルは現時点で問題ありませんし。根抵当が6億ほどついているのですが個人所有のビルで無借金のビルはそれほど多くありません」

うんうんと頷く

「この物件の貸主、平成4年と平成8年に差押えを受けています。相続などの税務面で差押えがはいるケースもございますが本件は所有者の移動は行われていません。当然税務面だとは思いますが、差押えを受けてしまった物件になった場合のケースも移転リスクとして御社が承知の上かという点を取り除きたかったのです」

そんな話は初耳だと言う、担当者。

「もちろん申し上げたように現時点では根抵当が6億円ほどついているだけですが、過去2度にわたる差押え、そして所有は個人のビルなのでその実情がわからない。だからこそ賃料が手ごろで早くテナント付けをしたい可能性まで加味しなくてはいけないのです」

「また、総務担当の方がそのリスクに気づいていない場合、結果として御社が迷惑被ってしまうので、御社内でリスクについて協議をお勧めします。重ねて山本がご提案した際にその部分の指導ができておらず失礼しました」

担当者も釈然としない表情ではありながらもその顔には不安の影がみえる。

「では、契約をしない方が?」

「そうとは言っていません。最終的には御社が決める事です。我々は物件を紹介します。ただしすべての物件について熟知しているわけでは無いのです。俯瞰して判断をいただきたいという事です」

担当者も一度代表に同意を取ってしまった以上今更という部分もあるだろう。今回はいちど申し込みをしている仲介担当者に伝えて情報を整理して代表と協議するとのことだった。

その2日後に、今度は代表者から直接呼び出しがかかるとはその時はまだ想像していなかった。


呼び出しは意外な結末であった。

「岡田ビルの契約はやめた」

そう一言発した。
競合していた仲介会社の担当は過去の差押えについては把握しておらず、貸主に確認したが今は抹消されている事項だから大丈夫ですという不安げな返答であったからという話だ。

この不信感が引き金となり岡田ビルへのモチベーションが著しく下がりそしてもう一度池袋で探しなおすという話だ。

結果は意外だったが、実際のところ呼び出されてから岸部と山本はひどく叱責された。顧客のオフィス移転をどう思っているんだ。そんな重要な意思決定に影響する話ならなぜ紹介しているタイミングで言わないのか・・・・と、さすが営業会社の代表というだけあり、凄みが効いている。

客先で席に座る事を許されず立たされらたまま、これほど大人に詰め寄られるというのは初めてだった。

山本は委縮してしまい、冷や汗が止まらない。しかし、そのような最中であろうが岸部は恐縮した態度を保ち平謝りの姿勢を崩さずにどこか冷静であった。

一通り15分ほどだろうか、叱責された後に驚くような依頼となった。

『仲介会社をグランドオフィスに一任するからもう一度、池袋で物件提案をしてくれ』という事に落ち着いた。一旦白紙に戻して検討したいとのことだった。

「ありがとうございます!誠心誠意取り組ませていただきます!」

岸部は丁寧にお礼を述べ、即座に再提案のアポイントの段取りまでスケジュールを押さえ始めた。

その間、例の総務担当の顔色は紫色になって固まっていた。先日の岡田ビルの件を話した後、代表に相当搾られたのは表情をみても一目瞭然である。

若干申し訳ない気持ちがありつつも山本の内心ではこの奇跡的な逆転劇にガッツポーズを決めていた。

再提案とはいったもののオフィスの物件で新規提案できる様な掘り出し物件など短期間で出るわけはなかった。最終的には当初の本命物件よりもすこし立地を妥協して、もともと提案していた物件ではない青柳田ビルで無事に契約の運びとなった。資産管理会社の物件なのでキャッシュも問題ないだろう。

岸部と山本の話は両者痛み分けとなったが会社としては黒星が濃厚な案件から無事白星となったので売上には繋がった。

「岸部さん、先日も今日も本当にありがとうございました。途中で諦めかけていた自分が恥ずかしいです。まだまだ仲介は奥が深くて難しいと思いました。」

山本の素直な気持ちだった。

岸部の依頼や指示その他社内での応対をみていて手厳しいところは確かにある。しかし、部下や後輩に対して助け舟を出し状況を好転してくる上司である。現状においてまったく越えられない壁の高さを肌で感じたからでた言葉だ。

「まっ!山本君もこのペースでずっとやり続ければできるよ、若いんだから失敗しながら成長していきな。案件も結果違うビルに誘致できたんだから、君の案件として売上げ報告で良いよ」

「まあ、なんていうか置き土産ってことで」

「置き土産?」

山本は聞きなれない岸部の言葉に思わず聞き返した。

・・・・

「あぁ、そうか・・・言ってなかったね。」

風が通り過ぎる音が微かに耳に響いた。ほんの少しの間をあけて口を開く

「俺、会社辞めるんだよ」

第6話「別れそして再スタート」


岸辺退職の理由は『引き抜き』だった。

2000年以降日本企業に対して外国企業の日本法人の立ち上げや支社開設が見られたが、仲介業界にも外資資本が入ってくるケースが増えてきた。

最初は不動産ファンド組成などを行っていた欧米系不動産会社が今回日本のマーケット拡充を行うために仲介部門をより強化する為に人材を集めているらしい。

「岸部さんは古株じゃないですか、なんで今さら辞めて転職なんてするんですか!」

「より強い情報が集まる会社に所属する必要がある。より大きなツボを売るには今の会社だと無理だ」
「俺たちは毎月ツボを売らないといけない。だが山本君がやっている坪数と伸びている企業が必要な坪数は違う。もっと大きいんだ」

不動産とはいわば情報戦だ。

その為にはより大きな坪数の移転を扱っている仲介業者の方が情報も集まりやすい。グランドオフィス社のような会社ではまだ扱えないような坪数の案件も世の中にはたくさんある。

「大曲社長の理念や世話になった義理もあるさ。だけど俺の客はもっと大きい坪数に移転したがってるし俺もやりたい」

「山本君。六本木ヒルズ森タワーをうちの会社が何坪決めたか知ってるか?」

「いえ、、わかりません。100坪程度でしょうか?」

「ゼロだよ、ゼロ。実績なし!これがウチの実力なんだよ。個人も会社も・・・」

岸部の言っている事は今の山本になんとなく伝わる。一仲介としてどこまで挑戦できるのかという意気込み・闘志が普段クールな岸部から伝わってくる。坪を売るには、より強力で早い情報網が必然なのだ。

「六本木ヒルズも今、色々問題が出てきてるからいずれテナント空くだろう。そういう時にいち早く取引できるポジションに俺はいきたいのさ」

「山本君も今は目先の案件があるけど、いずれどういう仲介になるか考える時が来るから」

もっと大きな坪数・・・大きな案件に携わるポジション。今の山本には実感が湧かない事は当然である。しかし岸部の想いの強さも感じたので山本は一言も発する事が出来なかった。

・・・・

・・・・・・

「岸部さん辞めるんだって?」

1週間ほどたってから石田が部署を越えて声を掛けにわざわざ来た。この手の情報はなぜか早い。石田の情報網に山本は感心した。

「そうなんだよ、情報早いなお前」

「でも、岸部さんそっちの課ですげえ売上を上げてたし、山本も調子上げてたじゃん。どうしたんだ?山本なんか聞いてんじゃないのか」

「さぁね。そこまでは知らないよ」

と素っ気ない返答をした。本当は知っているが石田にその情報が入ってないならば話す必要もないだろう判断した。

岸部の送別会は営業課の垣根を越えていつもの新橋や小伝馬町での居酒屋ではなく、豪勢に六本木の焼肉店まで出向いての行われた。なんだかんだ言われてはいたものの岸部は社内で人気があったのだなという一面が垣間見えた。

しかしこの時も岸部の次の転職先や岸部が何を思って辞めるのかは公にされなかった。実際のところはわからないが山本だけが知っている情報の様に思える。

岸部が扱いたいといった情報戦、そして2005年は個人投資家の台頭などがニュースとなった。また六本木ヒルズやヒルズ族などIT企業たちの様々な不祥事などが明らかになる。

第7話「うねり」

2005年、グランドオフィス社は岸部という営業を失った。しかしこれはグランドオフィスにとってはまだ序章に過ぎなかったのだ。

なにか、不動産の『大きなうねり』が来ている。山本の目にはそう映っていた。


岸部が去ったグランドオフィスの社内は大きく割れた。

社長である大曲が舵取りをする部署が創設され実績を残しているメンバーは社長直属になった。山本・石田、そして若手営業マンは別部署に加入となり組織の再編成となったのだった。

同時に岸部と同じ年次である社員が2名ほど転職として抜けてしまった。いわゆる稼ぎ頭となる社員がいなくなった事であった。現在は大曲が直接もっている案件や社長同士の紹介案件を回す事で会社は継続しているが、岸部在籍時よりも活気がなくなっているのは新卒であった山本・石田の目から見ても明らかだ。

2006年に入り同期の新卒2名が辞めた。結局、山本と石田の二名しかいなくなってしまった。辞めた2人は営業チームではないので実情がわからない。送別会もなく社内の告知のみで終わってしまった。あっけないものである。

同期で集まることもめっきり減ってしまい、なぜ辞めたかもわからず山本・石田に告げることもなく退職していった。

現在は40名近くいたグランドオフィスのスタッフが約20名と半数まで減ってしまった。目に見える範囲で会社に問題があるようには思えなかったが岸部の退職以降少しづつ会社の雰囲気に緊張と殺気じみた空気がピリピリと肌を伝わる。

今回の課はオフィス営業第2課となり、課長代理として3年目の城島が山本・石田の2名とともに行動することに決まる。それ以外の2年目営業2名が営業2課に所属の計5名。

不穏な空気が社内を蔓延しているが、オフィス仲介として同期ライバルのような石田と同じチームというのが唯一の救いだった。しかし、この城島は岸部と違う厳しさを持っていた。2名にとって出鼻をくじかれる新チームの始まりである。

チーム組成後3日目、城島に石田と山本は呼び止められる。

「山本くん、石田君。新卒気分はもう抜けてもらっていいかな?今うちのチームなかで君たちの売上いくつ上がっているかわかる?まだ月の半ばを越すのに達成度率35%ってどういうこと?」

「すいません、当初見込んでいた移転の案件が他社の申込みとバッティングしてしまって」

「そんなのはどうでも良いんだよ。35%からどうやって挽回するかって聞いてるの」

「すいません…」

「頭使って考えろよ。岸部がどうやったか知らないけど、35%から達成目指さないんだったら辞めてもらっていいんだからな」

「飛び込み・電話なんでもできるのにやらないなんて給料の無駄遣いだろ。わかったならさっさと外出てこい」

会社の雰囲気もまさしくだが、新チームもかなり不安定だなと山本は思ったが口には出せずじまいであった。愚痴を言ってもしかたがない、山本と石田は見込み客リストをもって顧客回りに向かった。


会社の雰囲気は依然として厳しい。岸部やその他の中堅がいなくなり売り上げの見込みが立ちにくくなりクレームをもらう案件が多くなった。主には営業マン個人の対応について悪いというものだ。

当然ベテラン陣が営業する第1課よりも第2課の方がクレームは多くなってしまいその分売り上げへの見込みが立ちづらいのもその理由の一つである。

「隔週の土曜は営業会議を行う」

大曲社長のアイディアによって、土曜日の営業会議が開かれることが決まった。勿論目的は足りない売上をどう向上するかという点と毎週の進捗を社長の前で発表する場でありとても神経の磨り減ることであった。

業績が悪いが働く時間は体感で1.5倍に増えた印象だった。土曜日に強制的に招集をかけられる営業の進捗を報告する、いわゆる週の休みは日曜と祝日のみとなった。

「なんか最近おかしいよな」

土曜ミーティングの帰りに石田がそうつぶやいた。山本も同感であった

「オフィス移転は社会にとって大事だっていってた大曲社長が、急に土曜日集まれって言いだしたりするし、結局売り上げをどう上げるかって話ばっかりじゃん」

石田の不満は収まらないらしい。かくいう山本もあまりの激務によって付き合っている彼女との連絡が疎遠になり結局社会人1年経たず破局してしまった。現在の山本は仕事と家との往復の無味乾燥な日々である。

しかし同時に岸部のいっていた「ツボ売り」はオフィスを移転させることにすべての価値があるという、どれだけのツボを売ったかが大事だという言葉が頭に残った。

結局のところオフィスの営業はいかに多くの顧客に紹介したくさんの仲介をすることなんだと心のどこかで理解していた。不満はある、会社の雰囲気は月を追うごとに殺伐としてくる。

しかし、今の山本にとっては一つでも多くの顧客を仲介するしか術がないのだ。

ーー

ーー

第8話「裏切り」

岸部氏の退職引き抜き騒動から1か月後、日曜にも関わらず山本と石田は会社から呼び出しを受けた。

何が起きたかわからなかったのだが、会社に到着するなりエントランスでちょうど石田に出会った

「何があったんだ?」「いやぁ、わからないお前も呼び出されたクチか・・」

岸辺・山本ともにキョトンとした表情である。

オフィスのフロアに上がりそのまま会議室へと通される。そこには第1課のベテラン勢とそして大曲社長、城島がいた。ただ事ではない雰囲気であった。

大曲社長から発せられた言葉は山本にとって意外すぎる言葉だった

「ウチの顧客案件が他社に流れている。お前たち二人が流しているんじゃないかという話が出ている、だれが流しているかを調べていったところお前たち2人にいきついた」

城島は二人と目を合わせない。その姿でこの場に味方がいないであろうことはわかる。

「営業第1課はベテラン勢ばかりだ、創業時からついてきている。しかしお前たちは違う、そして岸部らともつながりがあった。正直に言ってくれれば大ごとにしない。」

いや、すでに大ごとだと山本は感じた。身に覚えはない、しかし逃げ場はない。


代わる代わる質問や恫喝のような誘導尋問が何度も繰り広げられた。石田は涙をこぼして「自分はそんな事していない」の一点張りである。

当然、山本にも心当たりはない。

しかし追及が止まらず、第1課のベテラン陣と大曲社長による質問は3時間もの間続けられた。結局のところ、二人ともに思い当たるような節もなく彼らは会社で使用しているパソコンと携帯電話を社長たちに渡すことで執行猶予扱いとなった。

状況を把握するために月曜日は代休で良いと言い渡された。

そもそも濡れ衣であり、日曜に呼び出されており代休も何もない話だったが、そのような指摘ができる空気ではない、そしてどうやら顧客・案件情報が他社へ漏れているのは事実のようである。

一番気がかりなのは石田である。お調子者の彼がここまで憔悴しきっている姿は山本も初めてである。

もしこれが演技だとしたらそうとうな大物であるが、1年近く石田との付き合いの中でそこまで大胆不敵な行動がとれる人物でないことも山本はよくわかっている。

「俺は本当にしらないですよ、この会社どうなっちゃってるんだよ」

石田の悲痛も今は山本の耳にしか届かない

・・・・

山本はもともと口数があまり多くないタイプである。つまり矛先に上がることや話題に上がることも少ない。しかし石田は明るいキャラクターと誰とでも分け隔てなく接することができる人物である。

その点が今回の顧客流出において犯人扱いされる状況陥ってしまった。

2人はその後ほとんど言葉を交わすことが無く、自宅へ戻った。携帯電話と使用中のパソコンを取り上げられたので、明日1日はPCの送信履歴や電話の履歴などをチェックされるのだろう。少なくとも山本には気がかりな点はない。

なぜ顧客情報が・・・そして、今の会社の雰囲気はどうだろうか。少なくとも1年前にあこがれた姿はなく新卒で入社した会社は業績とともに疑心暗鬼になっている。

そして、今回の件である。

月曜日になれば顧客からの連絡があるだろう。それを城島もしくは会社の人間は対応してくれるだろうか。そして、顧客案件情報を流しているのは誰なのだろう。

今までは湧きおこらなかった会社への不安、そして辞めていった岸部の顔がふと浮かんだ。

「岸部さん、良いタイミングで辞めたな、、」

心の中でそう思った。

少なくとも岸部がいたときは体力的に厳しい日々だったが会社が売り上げだけではなく顧客の移転に本気で取り組んでいる姿勢があった。

会社にも活気があった。今の自分は顧客への余裕もなく日々の売上を如何に達成するかどうかだけだ。そして会社内で自分らは疑われている。気持ちが晴れない

しかし同時に山本は安堵の気持ちもあった。今まで週6日間は仕事に追われており、土日も休みとはいえ顧客からひっきりなしに電話がかかってくることがあり、夜間にメールが届くことも多い。しかし今、会社の携帯は没収され、明日は1日なにも考えずに落ち着ける・・・

文字通り山本にとって久々の『休息』であった。


翌日、朝会社のエレベータに乗るのが憂鬱であった。月曜に連絡は無い、休むわけにもいかず出社するしかないのだが、日曜日の悪夢が呼び覚まされる。だいの大人数人に詰問されるような事はもう経験したくない。

オフィスフロアで自席に向かうと待ち構えていたのは城島だけだった。

「これ、お前たちのパソコンと携帯電話」

「結局、お前たちの携帯の通話履歴、メールからはそれらしい記録も内容も出てこなかった。今回はおとがめなしだと」

城島の発言には謝罪も申し訳なさもなく、ただ淡々と説明をしただけだった。日曜に自分らを守るわけでもなく今回の件を誤解だったと説明するでもなかった。

「それってどういう事ですか?」

「どうって、そのままだよ。事実この会社の中の顧客情報が他社に回っているのは事実だ。社長や営業1課はお前たちじゃないかと目星をつけていたがそれは違っていた。晴れて自由の身で仕事できるってことだ」

あまりに他人事のように言い捨てる城島に山本は怒りでこぶしを握り締めた。発狂してしまいそうだ。だが、ここで城島を殴ったことで事態は変わらない。つまり会社内から意図的に案件が流れている事実、そして社内にスパイのような人物がいるという事実以上の事はわからないのだ。

山本は肩を落とした。

切り替えるしかない。1日空いてしまったので慌てて月曜に連絡すべき顧客のフォローを開始した。それをみて納得したと思ったのか城島は席を離れた。

それから1か月近く過ぎたが犯人らしき人物は上がってくることがなかった。しかし山本、石田が呼び出されたことは社内のどこかでうわさが回ったのだろう。会社内では腫物にさわるような扱いを受け積極的に声をかけてくる社員はいなかった。

幸い営業活動に支障をきたすものは無く、顧客との関係や仲介にとっては順調であった。邪念を捨て自分の案件に対して電話と物件紹介、内見を繰り返していけば顧客は評価してくれる。

自分たちの売上が自分のプライドや存在意義として自身を支えてくれる。そういった思いで仕事に取り組めた事は大きかった。

・・・・・・


第9話「2年目そして」

気づいたら4月を迎えていた、ちょうど1年経ったのだ。石田と山本は期待に胸膨らませた新人1年目がようやく終わる。

社員が40名の成長中の仲介会社は20名の半分になった。月々の売上を達成していくのが精いっぱいだ。会社の雰囲気は全体的に回復の兆しはあるものの、社内での居場所は少なく石田と山本の心は晴れない。

あの1件のせいで山本も石田にも会社に対する愛社精神や会社に対する期待はすでに燃え尽きていた。いまは一人の営業として如何にして仲介をしていくか、そして早く岸部達のような『実力あるオフィス仲介担当』にならなくてはいけないという焦りがあった。

2006年4月14日金曜の夜。社用携帯がブルブルっと震えたので条件反射的にポケットから携帯電話を取り出した。金曜の夜のメールは大抵が迷惑なものだと頭で分かっているものの職業柄取らないと週明けに大炎上するという事も経験済みだ。

たたんでいた携帯電話を開き、恐る恐る内容を確認する。それは見覚えの無いアドレスだが見覚えのある名前だった

差出人:yasutoku.kishibe@----
件名: 岸部です。お久しぶりです


岸部からのメール内容は他愛もないものだった。

転職が落ち着いて半年近くが過ぎた事、会社に対しては申し訳ないが後輩の面倒を見きれなかったお詫びと近況の報告といった内容だった。

しかし、山本は迷いに迷った。

このタイミングで岸部からメールが来ること自体が何かの罠なのではないかとも感じた。しかし、メールアドレスは会社のドメインからきている。この事態を知っているのかそうではないのか・・・山本には判断できなかった。

これ以上濡れ衣を着せられたくはないが、会社に対して気持ちが覚めてしまった今、岸部とコンタクトした事実が明らかになってクビになっても仕方ないと諦めの気持ちもある。

迷いにまよった挙句、山本は

件名:RE:ご無沙汰しております
岸部さんごぶさたしております。あれから会社も様々な事がありまして少々社内体制にも変更がありました。岸部さんのおっしゃる通り会ってお話できることもあると思います。つきましてはご連絡について
○○○@t.vodafone.ne.jp でご連絡でも良いでしょうか。
勝手申し上げますが、よろしくお願いします。

と返信した。

これで返信がこなければそれまでだ、あとはメールの送信履歴を消して何事もなかったようにするしかない。

しかし、その数分後山本の携帯にメールの着信を伝えるバイブレーションがあった。山本の心配は杞憂に終わったのだった。

待ち合わせは山本に気を遣ってくれたのか小田急線への乗り入れも簡単な新宿であった。金曜日の夜、西新宿の高層ビルの最上階レストランフロアで落ち合おうという事にとんとん拍子で進んだ。

待ち合わせの金曜夜であった。新宿の高層ビルで食事というのは初めてだった、以前は岸部に誘われるのは小伝馬町の居酒屋であったのでその差に驚く。高層オフィスビルの49階にエレベータであがるとそこはオフィスビルに似つかわしくないレストランフロアであった。指定された和食居酒屋に入って岸部の名前を告げると店員が岸部のもとへと案内する。

どうやら高層ビルではあるが、そこまで気を張るものではなく以前の小伝馬町の居酒屋とそれは雰囲気は似ていた。仕事帰りの会社員やカップルのデートだろうか店内は薄暗い照明ではあるが活気ある光景だった。

岸部の席に向かうとそこには岸部一人だった。グランドオフィスのメンバーがいたらどうしようかという心配はまず、なくなった。

「おう、久しぶり!元気にしてたか?」

岸部は元気そうだ、少し色が浅黒くなったが変わりは無い様だ。乾杯を軽く済ませて食事を適当に岸部が頼む。スタートは誰でもビールジョッキというのがグランドオフィス流である。

「最近はどうなの?結構良い感じで営業できるようになった」

「はい、おかげさまで少しづつ案件が成約できるようになって、先日ついに初めて100坪を越える案件を1件成約できました・・・しかし社内は結構人も少なくなって大変で・・」

「あーなんとなく聞いてるよ、ミヤさんもトクさんも辞めちゃったんだって?『ビルネ』に行ったっていうのは情報入ってるけど・・」

「え?ビルネに行ったんですか!!・・・そうなんですね。そんな話一切聞いてなかったので同業じゃないと思ってました」

「業界狭いからね、前にも言ったけど一度『坪売り』になったら中々業界から足を洗えないよ。動かす金額も大きいし、それなりに業界経験があればフィーも高い」

(ビルネというのは『ビルディングネットワーク』という、業界御三家の次に名前の挙がってくる仲介会社である。新卒も中途も積極採用をしており今伸びに伸びている・・・その反面顧客やビルオーナーへの押しが強い営業が話題にもなっており業界内でも賛否ある)

「結局、坪売りは坪売りさ」

「そうなんですね。皆さん業界に転職されるものなんですね」

「そういうもんさ。ところで今グランドオフィスの人が大変だって聞いてるけど大丈夫なの?人も少ないし何やらメールでも込み入った状況だったじゃん」

山本は迷いに迷ったが、現在の状況と先輩たちが業界内の企業に引き抜かれている現状について多少の不安があったので、今回の騒動を一部始終話した。もちろん先輩であっても今では他社の営業マンであるから重要な点はいくつかぼやかしながらではあるものの・・・

「なるほどな、そういう事か」

岸部は何やら納得した表情でうなづいた。


岸部の納得の裏に何が。

山本は暴露したついでに「何が、なるほどなんですか?」という様に尋ねた。岸部の思い当たる節はどこなのだろう。

「山本君、俺が外資系の企業に転職する理由は前にも言った通り『情報』なんだよ、それこそ毎日のように何百坪という移転案件が社内会議で飛び交う」

「その中にはどの会社の誰が何坪決めたなんていう話だけ集めている情報通のおじさんなんかもいるんだよ。その中で今回、ビルネの担当が決めたらしいという話を聞いていてその案件が過去にグランドオフィスがやっていた顧客なんだよどうも・・・」

「え?という事は流出している先は、ビルディングネットワーク社なんですか・・・」

「多分そういう事になる・・・俺はさすがにその辺は恩義もあるから当時の案件に対しては手を出していないし、いくつか紹介を受けて新規でぶつかることはあるけど、その話を聞く限りだと自分が担当していない案件も持ち出しているね」

そういう岸部は饒舌に語った。

「結果としてグランドオフィスは太いパイプの顧客を抜かれて、かつ首謀者がわからない・・・しかしミヤさん達はパソコンや携帯得意じゃなくてファックスと黒電話の人たちだからな」

岸部の口元がほほ笑んだ。むしろ懐かしむような口調である。
この話でどうやら岸部が関わっている話ではなさそうだと確信を得ることはできた。が如何せん社内の情勢は良くない事は理解できた。

「そうそう、今回山本君をわざわざ連絡したのはもし会社で営業がしにくいのであれば、ウチに来ないというお誘い。といっても俺に何かの採用の権利があるわけじゃないのでそこは期待しないでくれよ」

「会社が今仲介部門にもっと人員を投入しようという話になったんだけどウチの会社は合併してから新規採用をあまりとってなくて人材が40代越えが多いのよ。20代や若手、企業の移転メインで担当した有力そうな人がいたら声をかけろって言われてるんだよね」

そういうと、岸部は続けざまに会社の説明や今自分の担当している案件について話をしていったこういう、したたかさがあるから岸部は敏腕営業だったのだと思った。

その後も移転担当した案件の概要や今日本における不動産の価値の話、昨今六本木ヒルズを始めとした企業で続けざまに話題になっている話で解約気配、いよいよヒルズも空室が出てくるから仕事が面白くなるといったネタまで多くの情報を聞いた。気づくと23時20分となり終電間近であった。

「まぁ今すぐにとは言わないけど6,7月あたりで色々声かけたりするので気になるなら面接だけでも受けに来なよ。大変な時だから自分の身の振りしっかり考えな」

そういって名刺をもらい別れを告げた。

今の会社に不信も不満もあるが、転職できたとして岸部と同じラインにたてるような営業になれるだろうか。そして会社の情報は何処から何処へ流れているのか。

久々の再開と入り混じる不安の気持ちと酔いで気分が優れなかったが、新宿駅の改札へ向かうため山本は地下道を走り出した

第10話「さらばグランドオフィス」

「山本君、達成です!」

「おめでとうございます!」

「山本、成長したじゃん!この1ヶ月ちょいの伸びすごいな、スランプ脱却だな」

社内で称賛の声を受けるが山本の心はここにあらずである。6月になり、山本の心は揺れていた

会社に黙って西新宿で会った岸部との会合の件、そして未だにグランドオフィス内で疑いが晴れていないという2件が大きく影響している。

一年以上世話になった会社だが居場所はすでにないも同然だ。自分の売上のために自ら案件を発掘し成約させる、売れば評価され褒められる。

表向き以前よりはマシになったが古株の社員からの視線は変わらない。

山本はこの晴れない気持ちを唯一の同期である石田に相談しようと持ちかけたところ、ちょうど石田から話があると逆に呼び止められた。

石田の内容を聞き出したかったのだが、此処ではまずいと釘を打たれ、職場から離れた場所で落ち合う事にした。

こじんまりとした神保町の中華料理店だった。何度か石田とはこの店で飲んだことがある。深夜までやっていて薄暗い店内、そしていつも人がまばらであるので金曜でも空いていてしかも安い。密会には最適である。

21時30分、現地待ち合わせで石田と山本は中華料理店の扉をくぐった。

いつも通りのまばら具合。早速ビールで乾杯した後に開口一番、石田が

「噂話の延長みたいな話だけど、顧客情報が流れている件、俺わかったわ」

山本はいきなりのビッグニュースに思わずビールを口からこぼした。

「おっおい!特選情報じゃない。で、出どころは?」

「同期の南野さ」「突然辞めただろう」

予想をしない石田から出た名前に驚いた。新卒同期、配属はオフィス営業ではなく総務経理のバックオフィスである。

「南野が、、なんで・・」

一瞬の静寂のもと石田が口を開く、その口調は確信めいたものだった。

「私怨、、、かな」

山本には不思議に思う。すでに会社に在籍していない南野が今更になって情報を流すのか。なぜそのことを石田が知っているのかである。

石田は少しづつ経緯を話し始めた

「ほら南野が辞めたとき、あのタイミングで総務の人たちが一斉に辞めたじゃん。送別会も無くておかしいと思わなかったか。俺はあの時おかしいと思って同期の吉岡と話をしたんだよ。ほら吉岡と南野は新卒女子だったし仲良かったからさ」

なるほど。山本と違い、しっかりと同期とのコミュニケーションをとっている石田に感心した。しかし本題はそこではない

「そうしてわかったんだけど、総務部長と南野が当時デキてたんだよ。秘密裏に・・・・」

「え、部長。だって妻子持ちだったよな!」

思わず山本も聞き返した。

「そう、、、」

「社内不倫ってやつ」

マジかよ、思わず山本は呟いた。そういう話が世の中にあるのは知っているが、まさか自分たちの社内でもあるのか。

「秘密の関係は、日が経つにつれて南野も悩みはじめて、新卒で仲の良かった吉岡にまずは相談したんだよ、ただ段々と周囲も感づかれちゃって巡り巡って俺のところにきたのよ」

山本は呆れた。

悩む様な関係であれば不倫なんてしなければ良いものの、迷惑な話である。

「情けないけど俺は力になれる事は無いし傍観者でいるしかなかった。結果として吉岡が騒ぎ立てちゃって社長の耳に届くことになった。」

感情を殺しているの、それとも無関心なのか淡々と話す

「ま、自業自得なんだけどさ。当然大曲社長は怒り心頭さ。ただあの人はあの人でこの問題を社内で広まらないようにもみ消す選択をしたんだよ」

「総務部の問題として、矛先を変えて処理した。事情を知っている人たちに圧力を与えて、退職においやったのが実態さ」

「会社としてクリーンな体裁を大事にしたかったんだろうさ」

淡々と話す石田は、すでにどこか他人事だ。

「だけど、世間知らずで正義感の強かった吉岡は納得いかずに反発の上で退職。課長部長を越えて社長と直接ぶつかったみたいだけどさ・・・まぁ無理だよな新卒程度では」

「で、その話は課でも噂のタネになっていて、近しい人はみんな知ってた。直接は関係ないけど会社方針に不満をもっていた中堅層が他社に引き抜かれるタイミングと重なって今回に至ったってわけ」

「なんなんだよそれ、俺全然知らなかったよそんな話」

しかし、まだ山本は納得できていなかった。直接関係ない南野にとって、引き抜かれた社員に情報漏洩するような果たす義理は無い。

その表情に気づいた石田は付け加える

「宮本さんとか他社に引き抜かれたおっさん達がいただろ?その人達にとっては案件情報を持って転職したかったのよ。要は新天地に『お土産』をもっていきたかった。会社にも個人にも恨みがある南野の事情は知ってたし、絶好の復讐チャンスを持ち掛けて・・・て話さ」

「南野は事務作業を兼ねてデータ入力していただろ。社内の取引データや重説記録なんかもごっそり持っていける存在さ」

「だけどうち盗まれたと証明する術はない・・・よな」

と山本は確かめるようにそう尋ねた。

「そっあくまで想像」「半分は事実だけどな」

と石田は皮肉な笑みを浮かべた。

会社の偉い人たちはその経緯に気付かなかったからこそ山本石田を呼びつけたのだろう。見当違いも甚だしく、関係のない人間を問い詰めそして多くの信頼を互いに失う形となったのだ。

「だから、俺達が呼び出された時はむしろそっちの話だと思ったんだよ。まさかと思ってその後自分なりに調べた結論さ」

山本からそれ以上の質問は無かった。

陳腐な話である。内部情報が洩れその事情が私怨で、社内不倫して関係した新卒が辞めた。当人たちの問題が発端とはいえなんとも脆い。社会に出てあこがれたベンチャー企業の実態は砂上の楼閣であったのだ。

「だからさ」

「俺、辞めようと思う」

石田の目にはすでに決意の色が見える。すでに心決めていたようだ。

それは2名だけになった同志であり同期への最後の報告をすべく、今日は声を掛けられたのだ。

石田は地元福島に帰って教師になるつもりだった。すでに6月、タイミングとしては決して良くないが。まずは地元に帰ってゆっくりしてから地道にやるさとのことだった。

別れ際に石田は「東京は怖い街だったよ!」と笑っていた。諦めとは違う・・憧れていた街がいつしか自分の現実になって、そして悟った。自分の居場所はここではないと・・・そう思ったのだろう

・・・・

宣言通り7月の末に石田は会社を去った。

一瞬、大曲社長から安堵の表情が出ていた点を山本は見逃さなかった。経営陣や彼はまだ自分達を疑っているのだ。いずれ疑いの目は自分に向けられるかもしれない。その時会社は、大曲社長は自分を守ってくれるのか?いや守ってくれないだろう。

山本はすでに何も知らない新人営業マンでは無い、この社会人生活が彼を人としても営業マンとしても大きく成長させたのだ。

これで山本も決意をする事ができた。そして、携帯電話を開き岸辺にメールを送る。

それは新卒として入社した会社への決別の意思であった。


エピローグーーーー

あれからいくつもの春が過ぎただろうか。山本は東京にいる。住みづらいと感じた街がいつしか自分の街となっていた。

東京は変わる。数年で街は開発され新しいビルやニューシンボルがたくさん登場した。オフィスビルも数年で売買され今では元々の名前がなんであったかを思い出せないビルの方が多くなってしまった。

山本は岸部へのメール送付後に、推薦効果もあるのか3度にわたる面接を潜り抜けて見事に内定を勝ち取り転職するに至った。

新しい勤め先であるCDR社は今までの小伝馬町から、浜松町へと通勤場所が変わり山本にとっては新鮮に感じられるものだった。部署が多く、4つのフロアに会社がまたがっている、急に自分まで大きくなった様な気がした。

実際業務についてわかったのだが仲介業としての仕事はまったく変わらないものなのだと転職してからよくわかった。

グランドオフィスに比べて、当時のアットホームさや目に見える熱意というものは無いが結果を上げる事に対しては貪欲な集団であった。更にオフィス業界に詳しい先輩だらけである。

会社の体質は完全な成果主義ではあった。しかしほぼ業界新人である山本に対してはどの社員も親切に接してくれ、プロジェクトごとに共同で案件を持たせてくれる等、グランドオフィスとは違う環境を体験できることが山本にとっては良かった。

しかしそれから2年後、同企業の仲介部門は突如として解体される事となる。

いわゆる『リーマンショック』だった。

低迷する経済の懸念から外資系企業ならではのドライな選択であった。2009年以降、山本の席はないと通告されたのだった。

運良く、当時付き合いがあった不動産オーナー会社が物件取得による事業拡大で、仲介経験のある中堅層の募集をしていた。

今度は一転して貸主側へと転職することになった。

山本をCDRB社へと誘った岸部は2009年時点で解雇対象とならず、未だにCDRB社に在籍している。最近は大型の電機メーカー買収案件とやらで数千坪の移転と統合プロジェクトを手掛けているそうだ。やはり岸部は生粋の『ツボ売り』なのだなと山本は思った。

古巣グランドオフィスは、2010年に10名程度の会社にまで縮小してしまい小伝馬町の60坪から今では蔵前の15坪のオフィスに移転した。このエリアで細々と事業物件の仲介をしているようである。

一時期は御三家と並ぶと言われた急成長企業であったが、いまではその影も形も無い。あの2006年が原因だったのか、それともリーマンショック後のあおりを受けたのか、当時の新卒は誰一人として残っていないので真実は闇の中である。

あれ以来大曲社長や当時のグランドオフィスの社員とも顔を合わせることはない。

奇妙な縁といえば同期の石田との関係は続いており、年に一回ほど彼が東京に出てきた際に会うような間柄になっていた。石田は、無事に福島で中学教師になって生徒指導に燃えているらしい。

2011年の震災以降は中々東京に出てくることも難しいようで少し疎遠になってしまった。最近ではもっぱら年賀状のやり取りだけになってしまって残念だが、相変わらず元気そうだ。律儀に年賀状を送ってくるあたり根が真面目なのだろう。出会った頃には想像もしない姿である。

新卒で入社してから結局連絡をとっているのは石田のみである。他の面子とは会うことも連絡を取ることすらない。

東京に出て何を得て、何を失いそして何が残ったか、、、

東京という街は変わる。たくさんの経営者に出会った。多くの会社が生まれ、いくつかの会社はなくなった。

月島の隅田川沿い、スカイツリーをギリギリ望むことができるリバーサイドマンションの自宅から、タバコをふかすとふとあの頃の思い出が脳裏をかすめる

あの時てわは考えられないほど自分は東京に染まってしまった。10年、15年で街は変わる。あの頃の情熱やひたむきさ、そして純真さも今の山本には持ち合わせていない。

しかし15年経った今でも、仕事上での立ち位置が変化しても尚変わらないものもある。

それはオフィスビルだ。紹介、案内して空室を埋める。その繰り返しが彼の日常となり日課となったのだ。

今日も山本は街に出るだろうそして明日も、街に出る。

自分と顧客の為に『ツボ』を売りに街へと向かう。大都会東京は無数のツボたちで溢れている、まだ見ぬ新たなツボを求めて山本は今日も行く

Fin

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TKさん@オフィス不動産 最前線 主にオフィスに関する不動産知識や趣味で短文小説を書いています。第1作目のツボ売り、それ以外も不動産界隈の話を書いていければ良いなと思っています。 サポート貰えると記事を書いてる励みになります。いいねをしてくれるだけでも読者がいる実感が持ててやる気が出ます