【冒頭先行公開】第8回大藪春彦新人賞・映像化奨励賞W受賞作に大幅加筆! 鮮烈デビュー作『檻の薔薇』(伽村あきら著/徳間書店)、9/2の発売前に冒頭部分を特別公開します!
第8回大藪春彦新人賞・映像化奨励賞W受賞作に大幅加筆! 女子総合格闘技をリアルに描き尽くす鮮烈デビュー作『檻の薔薇』(伽村あきら著)、徳間書店より9/2発売! その発売を記念して、本記事にて冒頭第一話(P62まで)を、特別に無料公開いたします!

●書誌情報
タイトル:檻の薔薇
著者:伽村あきら
定価:2,310円(税込)
判型:四六判並製
ページ数:352ページ
発売:2026年9月2日(水)
ISBN:978-4-19-866252-3
商品ページ:
【徳間書店】
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●あらすじ
女子総合格闘技団体ケージローズのトップファイター・マーヤに、試合直後ケージ上で突然挑戦状が叩き付けられた。
「同時代に敵なしの選手が二人いたら、本物を決めるしかないよな!」
ケージローズの興行主・原木山徹のサプライズ演出だ。
根回しもなしに持ちかけられたマッチメイクの相手は、五郎丸真希。
レスリング五輪銀メダリストであり、未来のスターであり、そしてマーヤの妹分だった。
――後楽園ホール、1600席完売の大晦日、決戦の火蓋が切られる!
第8回大藪春彦新人賞・同賞映像化奨励賞ダブル受賞作に大幅加筆。
ジョシカクの世界を新視点で鮮烈に描いた長篇デビュー意欲作!
●推薦コメント
肉体のダメージよりも、精神のダメージの方が深刻だ。どんな格闘家も一人では闘えない。「痛み」が伝わり、彼女らの戦いから目がそらせない。心して読んでほしい。
――今野敏(作家・大藪春彦新人賞選考委員)
主人公とヒロイン=ミューズにあたる「マーヤさん」の距離感。様々なシチュエーションで二人の会話を聞きたくなる。登場人物すべてに映像化に値する「顔」がある。
――原田眞人(映画監督・脚本家)
~第8回大藪春彦新人賞映像化奨励賞選評より~
●著者プロフィール
伽村あきら(かむら・あきら)
1975年生まれ。大阪府出身。2025年「檻の中のワルキューレ」(「女衒事業者」改題)で第8回大藪春彦新人賞・同映像化奨励賞W受賞。受賞作をベースに長篇化した本作『檻の薔薇』が受賞後第一作であり、長篇デビュー作となる。
それでは、以下に、本書の第一話を公開いたします。
『檻の薔薇』
伽村あきら
第一話 蜜蜂と怪物
一
金網で囲まれた八角形のケージの中で、マーヤさんは踊っているように見えた。
体にフィットした赤いコスチュームを纏った彼女の動きにあわせ、髪が揺れ、汗が散る。
オープンフィンガー・グローブに包まれた拳を、マーヤさんは軽快にくりだしていた。
ストロー級・五十二キロでは長身に入る、百七十二センチから放たれるジャブやローキックは射程が長く、相手選手を寄せつけない。
マーヤさんのペースで、試合は進んでいた。
対戦相手ハム・ユジンはボクシングでもキャリアのある強豪だが、パンチのスキルでもマーヤさんが上回っている。韓国からやってきた挑戦者に、女子総合格闘技団体ケージローズ王者の貫禄を、みせつける展開がつづく。
東京ニューピアホールの八百席は、空席も見当たらず、観客は熱狂につつまれていた。
「マーヤ、いけぇー決めちまえー」
「あと二発いれれば、倒れっぞぉぉぉっ!」
ダミ声でエールを送る観客にひきずられ、思わず僕も拳をつきあげてしまう。
ケージローズ事務局広報局長という肩書で、宣伝やマッチメイクの交渉をする立場としては、特定の選手を応援すべきではない。業務として関係者席で、見聞しているのだから。
とはいえマーヤさんとは、格闘技雑誌の編集者時代からの旧知の間柄だ。年も同じ三十三歳ということもあり、気になる存在だった。
彼女の十年のキャリアを、ずっと見てきた。
ベテランともなれば古傷だらけだ。左足の可動域は半分、両拳にはボルトが入っている。
それでも彼女は戦いつづけ、ジョシカクというジャンルを背負う、カリスマとなった。
「萩原っ、広報が暗い顔してんじゃねぇぞ」
隣席に座す恰幅のいい初老の男が、野太い声を放った。今時珍しいダブルのスーツを着た姿は、映画で見るシカゴマフィアのようだ。
多くの修羅場を見きわめてきた双眸は、選手よりも迫力がある。恐縮するしかない。
「はい……原木山社長。すみません……です」
「ったく、プロモーション側にまわり四年経ったのに、ファン目線がぬけねえ野郎だなあ。その就活生みたいなスーツ姿もなんとかしろ。夢を売る側の自覚を持てと、いったろうが」
原木山徹は豪快に笑った。昭和の博徒と呼ばれた男が、最後の博奕として選んだのは女子MMA興行だった。日本は腑抜けた男ばかりになった。世界相手に博戯できるのは女だけ──が、ジョシカクを選んだ理由らしい。
その剛腕と大胆不敵な戦略で、ニッチなジョシカクをテレビ放送されるまでに押しあげた。
先行団体から圧力も受けたようだが、博奕業界で築いた裏社会人脈を使って、粉砕した。
勝負事には、やたらと強い男であった。
「マーヤのヤツ……反応が悪いな」
原木山が渋い声をだした。僕とは正反対の見かたをしていた。格闘オタク歴二十年の僕には、マーヤさんは今が全盛期に見える。
スプリンターのような体から放たれる拳や蹴りは鋭く、速い。連打の中に、カーフキックや三日月蹴りも混ぜるなど、攻撃は多彩だ。
若い頃に比べると瞬発力は若干落ちたが、総合格闘家としての完成度はあがっている。
このまま勝ちつづけてゆける。そう信じていたが、僕の見解を裏切る事態がおこった。
ハム・ユジンがオーバーハンドで放ったフックが、マーヤさんの側頭部をかすめたのだ。
マットに崩れるマーヤさんに、ハム・ユジンのマッシヴな肉体が襲いかかってゆく。
上から抑えこむハムの胴体を、マーヤさんは両足で挟み、ガードポジションをとる。
だが、ハム・ユジンの勢いは止まらない。
その体勢から、拳を打ちおろしてきた。強烈なパウンドがつづく。マーヤさんは両腕で顔面を守るが、三発も拳をくらってしまう。
危険な状態だ。ダメージも心配だが、もらいつづけるとTKO負けにされることになる。
レフェリーが真剣な表情で、様子を窺っていた。止めるタイミングを、計っているのだ。
決着のときを感じているのか、客席のボルテージは高まり、叫喚でごった返していた。
原木山も、目を爛々と輝かせている。
「マーヤはアメリカの団体から声がかかっているらしいが……この調子だと再挑戦は、また失敗に終わっちまうよ。ならよう、死に水をとってやるのが、わしらの役目じゃねえか」
選手の栄枯盛衰を金に換えるのが、プロモーターの仕事ではあるが、身を削って戦う姿を前にして、よく吐けるものだとは思う。
「まだ、試合は終わってません。彼女は海外の敗戦以来、取り組んできたことがあります」
僕の言葉が終わらないうちに、ケージで異変が起こっていた。下で打撃を受けていたマーヤさんが、いつのまにかハム・ユジンの腕を、両足でからめとっていたのだ。
頸動脈を圧迫する柔術の技、三角締めだ。
以前のマーヤさんは、組技の距離になる前に、打撃で突き放す戦法をとっていた。だが、ムエタイ×柔術という南米の選手が使うスタイルを学び、寝技でも戦えるようになった。
彼女の練習仲間や出稽古先から、柔術は黒帯レベルという話も流れ伝わってきている。
瞬く間に締め落としていた。ハム・ユジンは失神し、レフェリーが両手を振った。
逆転勝利に、会場は大揺れしていた。
「今の実力なら海外でも勝てます。マーヤ選手とうちとの契約は、残り一試合。満了後は、気持ちよく送りだしましょう。向こうで活躍すれば、ケージローズの価値もあがりますよ」
僕の言葉に、原木山は唇をすぼめた。
還暦越えだが、子供のように表情が変わる。
「萩原よう……わしらの仕事は、観客が望むものを見せてやることだ。なんだと思う?」
「……選手が万全の状態で戦って、練習の成果を発揮し、強い方が勝つところですかねえ」
僭越だと思いつつ、格オタとしての意見を述べさせてもらった。僕が中小出版社の編集者からケージローズ事務局に転職したのは、原木山にヘッドハンティングされたからだ。
興行を取材する側から、運営する側への転職は少なくない。人脈や知識が活きるからだろうか。K-1の谷川氏や中村氏など、マスコミ出身者が団体CEOに上りつめている。
先例に倣ったわけだが──誤算だったと思う。好きだからこそ、苦しいことが多いのだ。
「萩原、客は人の運命が変わる瞬間を見たいんだよ。直径九メートルの檻の中で、暴力が五分三ラウンド吹き荒れ、人間の何かが喪われる。凝縮した人生が、商品なんだよ」
原木山は、勝負にすべてを賭けることを尊ぶ。多くを捧げることを、他者にまで求める。
彼にスポットライトをあてられた選手は、嵐にまきこまれたようなものだ。激しい波を乗りこなせれば、金や名声は手に入るだろう。
だが波間にのまれ、溺れ死ぬものもいる。
刹那的に興行を打つ原木山に対して、僕は編集者時代から、畏敬と疑念を抱いていた。
「神ならざる者が、人間の運命をコントロールするのは……やり過ぎだと思いますけど」
僕の苦言に、原木山はニヤリと笑った。
「神だって、与えるのは出会いだけらしい。ニーチェとかいう外人さんがいってたぜ。まあ、わしらにできるのも、その程度のことさ」
原木山はそう告げると、関係者席を抜けて、ケージに足を進めた。そこには、観客からのコールを一身に浴びるマーヤさんがいる。
練習、減量、試合という過酷な戦いから解放され、彼女は喜びにつつまれていた。
原木山が金網の中へ入ると、場内に緊張感が走った。マーヤさんの顔から笑みが消えた。
「見事な防衛戦勝利だ。アジアのストロー級には、オマエの相手になるヤツぁいねえなあ」
試合場に設置されているマイクが、原木山の言葉を拾い、観客席に伝える。祝福の時間であるはずだが、不穏な空気が流れていた。
「だが、もう一人、敵なしの戦士がいる。同時代に二人が存在する以上、本物を決めるしかないよなあ。ゴロマキィィ、でてこいよっ」
原木山が叫ぶと、照明が観客席を照らした。
ジャージ姿のおかっぱ頭の女が、ベルトを肩にかけ、たっていた。アトム級・四十八キロ王者・五郎丸真希、通称ゴロマキだ。MMA転向前は、レスリングで五輪銀メダルを獲っている。バリバリのスポーツエリートだ。
マキちゃんが日本体育大学に在学時に、マーヤさんが出稽古にいったことから二人は仲良くなり、そこそこ親しい間柄のはずだ。
マーヤさんは険しい色をうかべ、セコンドの野間弓子会長に視線を向けた。ジムの責任者である野間会長だが、首を横に振っていた。
原木山は事前に打診することなく発表し、なし崩し的に、試合成立を目論んだようだ。
「ケージローズは、ファンが求めるものを提供してきた。皆が一番見たいのはこれだよな」
原木山イズム全開の、人の心を土足で踏み荒らす剛腕交渉。彼は無理を通し、伝説的な試合をプロモートしてきた。選手の怒りを買うカードは、観客もチケットを買ってくれる。
原木山の音頭で、会場は大盛りあがりを見せていた。観客たちは叫んだり、スマホでネットに書きこんだり、大忙しだ。それだけの求心力を持った、カード発表だったのだ。
繊細な技術で詰め将棋のように戦うマーヤさんと、身体能力とパワーで打ち砕くブルファイターのマキちゃん──好対照な二人が試合したら──格オタ界隈では常々でる話題だ。
ケージローズが提供できる最高のカードだと思う。だが、どちらかの戦績に傷がつくことになる。マイナス面も多いマッチメイクだ。
通常のプロモーターなら、匂わせつつ先延ばし、賞味期限ギリギリまで、しがむだろう。
そこを、原木山はフライングゲットするのだ。時期尚早と思われるタイミングで、選手の準備が整ってなかろうと、カードを組む。
目下、その最大の被害者であるマーヤさんが、怒りをたたえた目で原木山を見ている。
「階級は? キャッチウェイトで五十キロなんて折衷試合なら、あたしは受けませんよ」
「ストローでやる。ゴロマキはオマエのベルトを奪って、二階級王者になりてえんだとよ」
原木山の言葉と同時に、マキちゃんが金網の中に入った。壁に設置されている巨大モニターに映しだされたのは、満面の笑顔だった。
自信があるというより、鈍感というか天然というか、ものを考えない性格なのだろう。
うら若き二十五歳の娘さんであるが、アマレス時代を含めると二十年近く格闘しつづけている。危険なケージであろうと、サウナに汗をかきにいく感覚であがれてしまうのだ。
「うちは、マーヤさんと戦ってみたいったい」
屈託なく笑うマキちゃんと対照的に、マーヤさんの顔には悲愴感が漂っていた。
強さを看板に糧を得ているプロ格闘家が、ファンの前でケンカを売られるのは、不愉快きわまりないだろう。挑戦者は「あなたに勝てますよ」と表明しているわけだから。
そして、格闘家という職業のブランディング上、ファンの前で弱気な発言は許されない。
「おチビさん、五十二でやれるの? 四キロの差は大きいわよ。アトム級では圧倒的だったパワーも、上の階級では並でしかないわ」
「やってみれば、わかるったい。うちは、二階級制覇したるっ!」
二人の女王が、八百人の中心でバチバチと火花を散らす。向きあうと、頭一つマーヤさんが高い。体格差は明らかなのだが、マーヤさんが圧されている気配があった。マキちゃんの方が生物として、強く見えるのだ。
マキちゃんは、アトム級の中でも小柄だが、体は分厚く、肉がつまっている感じがする。
首は太く、手足は短く、顔も肩も丸く──メスカブト虫のようなシルエットをしている。
好対照な二人の試合は、見応えありそうだ。
「お互いにやる気のようだな。よかろう、三ヶ月後の大晦日、後楽園ホールで試合決定だ」
原木山の言葉に、会場が揺れるほどのスタンディングオベーションで、観客は応えた。
「格闘家のプライドを利用して言質を取るとは……汚いが、チケットは売れるだろうなあ」
観客席がマーヤ VS.五郎丸真希で一色の中、僕は忸怩たる思いを洩らしていた。
二
日本一の女子総合格闘技団体を運営するケージローズ事務局は、ブラックカンパニーだ。
二ヶ月に一度は興行を開催する。東京、大阪、名古屋を中心に、観客動員数は毎回六百~八百人程度。深夜だがテレビ放送もされる。
それらに、わずか十五人の社員で対応している。役職や役割は、草野球的に気分で決めながら、せわしなくザツに運営されている。
僕の表仕事は広報として、取材に応じるなどのマスコミ対応や、ケージローズの動画チャンネルで選手インタヴューをすることだ。
だが、記事の文字おこしや動画編集なども、やっている。そんな裏仕事の中で一番キツイのが、契約書にサインを頂いてくることだ。
口頭で合意していたのに、土壇場でごねるものは少なくない。ファイトマネーアップや、試合順を後ろにしてくれ等々、交渉を仕掛けてくる。大事な契約の前日は、ほぼ眠れない。
マーヤさんの防衛戦から三日──大晦日興行に向けての準備は、始まっている。本日は、巣鴨の五郎丸ジムに契約締結に赴く予定だ。
その前に、僕は心療内科を訪れていた。
ケージローズ事務局の所在地・新宿は、夜の街ゆえ心を病みやすいのか、診療所が多い。
会社から徒歩五分でいけるデラ・メンタルクリニックに、僕は週に一度通院している。
「普通に生きてると……誰かが深い傷を負い、そこなわれる場面なんて、見ないですよね。三年に一回あれば、多い方だと思うんですよ。今の仕事は……二ヶ月に十回はあるんです」
悲痛に満ちた僕の声が、診察室に響きわたった。担当の小野寺医師は苦笑している。
「萩原さんを診察するようになって、私も格闘技を見始めたのですが……たしかに多くを消耗するようですね。本人も、支える周囲も」
「一興行で十四試合くらい組むんですが……同数の敗者がでるんです。大勢の前で殴り倒されたボロボロの十四人に、契約解除や減俸を告げる。それが、二ヶ月に一回あるんです」
僕が心療内科に通い始めたのは、二年前からだ。最初は睡眠薬の処方が目的だったが、今は愚痴を聞いてもらうのがメインである。
「あと、うちはジョシカクの団体なんですけど……やっぱり女の子は難しいんですよねえ」
「……きちんと診断したわけではないですが、女子アスリートは、ASD傾向がある選手が散見されるように思います。表情の変化が乏しかったり、苦痛に強かったり……」
「ASDって……あの、発達障害の?」
「はい、自閉スペクトラム症ですね。空気を読むのが苦手だったり、こだわりが強く、自分のやり方に固執するなどの特性があります」
小野寺医師の落ち着いた声は聞きやすく、心の奥の方にしみこんでくる気がする。
精神科医のテクニックなのかもしれないが、彼といると、僕は饒舌になってしまうのだ。
「まあ……プロ選手は変わり者が多いですね」
「本人が問題なく社会生活がおくれていれば、発達障害とは診断されません。ただ、その特性を持った人に、重圧がかかると別の疾患が発症しやすいんです。躁鬱や依存症とか」
「格闘家って、試合前は鬱っぽくなりがちで、それが試合開始と同時に躁転するというのは、よくある光景というか……基本運転ですけど」
「それは危険ですね。海外のアスリートは、メンタルトレーナーをつけると聞きます。日本はコーチが洗脳的に、プライベートも含めて支配してるケースが多いようですが」
小野寺医師の言葉で、女子選手たちから聞いたコイバナが浮かんだ。おとなしめのコが指導者とできちゃうのは、業界アルアルである。
「肉体鍛錬の専門家が、精神の専門家というわけではないですよね。優秀なコーチが、必ずしも人格にいい影響を及ぼすわけではない。プロ野球選手の不祥事を見る限り、競技の練達と精神の成熟は、直結しないでしょうから」
彼の指摘は、プロスポーツ関係者としては痛いところだ。自制心のない所業を行う競技者は少なくない。傷害、性暴力、強盗。結構な実績を残している選手でも、過ちを犯す。
すごく強いということは、人間にとって異常で、バランスが悪い状態なのかもしれない。
「興行と連結した現代格闘技で成功するには、狡猾さが重要だったりします。格闘技って武道と混同されがちですけど……技を競うものであり、道ではないみたいですねえ……」
僕は深々とため息をついた。重要な任務に赴く前に、リラックスしておきたかったのだが、仕事と関わる話になってしまった。
僕は睡眠薬デエビゴと精神安定剤リーゼの処方箋を貰い、クリニックを後にした。
三
新宿から山手線で十五分、巣鴨駅から徒歩十分。下町情緒が漂う街に五郎丸ジムはある。
巣鴨は昼から飲んだくれてる中年が散見されるが、その典型ともいうべき小太りハゲオヤジが、ジム会長の五郎丸和夫氏。五十歳だ。
レスリング出身で、MMA競技者としては無名。ベルトは一つも持っていないが、プロ選手を多く育てている。中々の名伯楽なのだ。
名選手名コーチならずというが、天才型は感覚でやれてしまうので、説明下手が多い。
いいコーチは、選手を理解すべく気にかけ、根気よく伝えられる。そんな愛と言葉を持った人なのだと、和夫会長を見ていると思う。
愛に〝性愛〟が含まれていたり、根気は執拗な饒舌として現れるのが、厄介なのだが。
「萩原さん、うちのゴロマキは大晦日興行のメインやろ。こっからケージローズを牽引してゆくエースやろ。ほなら、ファイトマネーに誠意こめてもらわんと、やる気のうなるで」
と、今日もジムに到着するなり、挨拶もそこそこに演説し始めたのだ。二十畳ほどの空間に、酒焼けしたしゃがれ声が流れている。
練習生たちは慣れっこのようで、サンドバッグを打ったり、ドリル練習に集中していた。
「今回のストロー級挑戦だって、マキに見合う相手がアトム級におらんからやろ。マーヤとやれば知名度UPという点では、おいしいけど……階級あげるのはデメリットも多いで。肉のつけかた間違うと、スピード落ちるしな」
マキちゃんの契約にペラペラ口を挟む、和夫会長。マネジメントをする立場であり、配偶者でもあるので、権利はあるのだけれど。
彼がからむと話が混乱するのだ。マキちゃんの意見を伺うべく、僕は彼女の方を見た。
会長の隣にちょこんと座っているだけで、いつも口数は控えめだ。契約内容も理解してなさそうというか、興味がないようだ。
「稼いで、子供らを私立幼稚園に入れるたい」
ようやく口を開いたマキちゃんの両脇で、双子の女の子たちがぼんやりとしている。まだ若いけれど、マキちゃんは二児の母なのだ。
ちなみに、双子は和夫会長の子ではない。マキちゃんは学生時代に、レスリングのコーチとできちゃった婚をしている。だが、MMAに転向後に離婚し、会長とすぐに再婚した。
男に洗脳されやすいのか、あるいは依存できる相手を常に必要としているのか? これも、格闘家界隈で散見される光景ではある。
五分三ラウンドという短い時間で、人生を燃焼させる戦士は、決断の早さが身に染みているのか。また、肉体を鍛えている人間アルアルらしいが、裸になることへの抵抗が薄いのも、恋多き理由の一つかもしれない。
クリクリした目で見ている双子に、軽く微笑んでから、僕は契約の方に話を戻した。
「今回はPPVボーナスが凄いですから。合計すると、普段の三倍はいくと思いますよ」
「信じてええんやろな。真希は四十八キロがベストや。五十二キロならUltimate Fighting Championshipにだって階級はあるんやで。アメリカやったら十倍は稼げるさかいな」
会長がクドクドと文句をいう理由はわからなくもない。日本の格闘技団体の中ではケージローズの払いは高額な方だが、王者であるマキちゃんだって、一試合百万円程度だ。
そこから治療や整体などの、体のメンテナンス費用もかかる。スパーリングパートナーを呼ぶ場合も、自費だ。オリンピアンであるマキちゃんだが、年収は三百万前後だろう。
ヴィジュアル売りしている美女アスリートなどは、いい条件のスポンサードもあるようだが、枕営業を要求されるなど悪い噂も聞く。
また、スポンサーが増えると必然的につきあいも増える。選手が営業マン的な接待をしなくてはならない面もある。時間が奪われ、練習や体調管理がおろそかになってくる。
スポンサーがつけば、経済的には安定するが、いい影響ばかりではないのだ。
お金をめぐる話題が長々とつづき、マキちゃんはうんざりしてきたようだ。
「うちは、細かいことはどうでもよか。マーヤさんとやるって、決めてるったい」
契約書をひったくると、五郎丸真希と大きな字でサインしてくれた。
「ありがとう。多くのファンが見たがってる黄金カードを実現できて、嬉しく思ってます」
僕は、敬意をこめて頭を下げた。
契約書をバッグに収納し、ジムを後にしようとしたとき、マキちゃんが呼びとめてきた。
「ハギィさん……話したいことがあるったい」
「……あらたまってどうしたの?」
「この前ん大会で、マーヤさんと対面したとき……試合のこと、知らんかったみたいやね」
「ケージローズ事務局の社員も、ほとんど知らされてなかった。ワンマン社長の独断だよ」
「うちは……半年前に、社長さんから準備するよういわれて、研究しとったとよ。でも、マーヤさんはいきなりで……驚いたやろね」
マキちゃんの言葉から想像するに「マーヤをエサにして、ゴロマキを大きくする」と、原木山は前々から構想していたようだ。
カリスマとして君臨するマーヤさんだが、もう三十三歳。キャリアの終幕は遠くはない。
完全にダメになる前に、次のスターを産みだそうと興行主が考えるのは、当然だろう。
「どの興行でも主催者のバイアスはあるから。地運があった程度に考えてればいいと思う」
僕の言葉に、マキちゃんは首を傾げる。
「……ちうんって、なんね?」
「己の心がけとか努力で引き寄せた運……みたいな意味だったと思う。ギャンブル系の用語で、社長がときどき使うんだよね」
「ハギィさんもよう知らんのか。適当やねえ」
マキちゃんの笑顔を見ながら、自分は案外、原木山の影響を受けているのだと思った。
四
黒塗りのハイヤー内を重苦しい空気が包んでいた。それを発しているのは、昭和の博徒にして、ケージローズCEO原木山徹だ。
赤坂にあるハニー・ビー・ジムへと向かう車の中で、僕は緊張をしいられていた。
昨日、五郎丸真希選手と契約を締結し、今日は、マーヤ選手との契約に向かっているのだ。
「萩原、ビシッとしろ。相手を呑むつもりでいかなきゃ、まとまるもんもまとまらねえぞ」
「でも……社長はやりすぎだと思いますけど」
僕の言葉に、原木山は大仰に眉をひそめて見せた。それから、運転席にあるルームミラーを覗きこみ、見栄えを確認する。
今日もダブルのスーツ姿で、大きな花束を持っている。芝居がかった姿に見えるが、こういうのが、ビシッとしている在り様なのだろうか。これが効果のある層がいるのか? そんなことを考えているうちにジムに到着した。
赤坂見附駅から徒歩三分。地代の高そうな場所に、マーヤさんが所属する、ハニー・ビー・ジムはある。瀟洒な十階建てビルの最上階ワンフロアとルーフトップを借りきっており、都内の格闘技ジムとしては最大級だろう。
だが、所属プロ選手は六名と少なめ。プロ育成よりも、フィットネスを中心としている。
格闘家マーヤを華麗に魅せるため、スポンサーがブランディングした、見せジムなのだ。
金満臭のするビルに居心地悪さを感じながら、僕と原木山はエレベーターに乗りこむ。
「ここ、いつも香水の匂いがキツイんですよ」
「マーヤは女性人気も確保しておきたいから、キラキラした人感を演出してんだろうな。いつ引退しても、食いっぱぐれねぇだろうよ」
「まだ引退は先ですよ。アスリートの寿命は延びてます、あと五年はトップでやれますよ」
「オバサンをこき使うのは、気の毒だろう。勝負事は、引き際が肝心ってもんよ」
狭い昇降機内で、原木山の圧力が増して感じられる。早く十階に着いてくれと願う僕に対し、原木山は楽しげに語りつづける。
「マーヤは技術はあるが、アスリートとしては凡庸だ。線が細い。外人さんと並んだら、頼りなく見える。だが、ゴロマキならメリケンの輩を力で圧倒する姿を、日本中に見せられる。ジョシカクをメジャーにできるんだ」
「マキちゃんのMMAキャリアは、約一年と浅いです。東京オリンピックの数ヶ月後にMMAデヴューして、半年で王者になった天才ですが、キャリアは四戦四勝と浅いです。もうしばらくツートップ路線でいくべきです」
「庭園の間引きをせんと、花は大きく育たない。それに、マーヤは海外団体から引き抜きの噂がある。王者のまま移籍され、他団体で負けられたら、うちの看板に傷がついちまう。よそにゆく前に、幻想は置いていってもらう」
原木山は〝マーヤさんを摘む〟と決めているようだ。彼女はケージローズの看板選手で、運命共同体だった。だから、それを裁断するときには、修羅場にならざるをえないのか。
興行主の常として、原木山も裏社会とは近い距離にあるが、試合でマーヤさんを始末しようとするだけ、まだマシなのかもしれない。
「昨日とってきた契約書は、刺客のものだったんですねえ……胃が痛くなってきましたよ」
「わしだって、マーヤに感謝の気持ちはある。ゆえに今なのだ。伸び盛りのゴロマキと、劣化しババアとなってゆくマーヤ。二年後だと、マキのワンサイドで終わる。勝負論が語れる間に、大きな舞台で美しく散らせてやろう」
原木山は己が興行で育てた選手を、掌中で終わらせたいのか。そういう思惑に、選手は敏感だ。体を張っている選手に対して、酷な話だと思う。憤りも覚えるが、原木山が、考えをあらためることはないだろう。ケージローズは、彼がたちあげた彼の世界なのだから。
僕は抗弁しなかった。沈黙が支配したエレベーターは十階に到着する。廊下にでてすぐ、ガラス張りのハニー・ビー・ジムがあった。
フィットネスウェア姿の女性たち二十人ほどが、激しく体を動かし、汗を流していた。
その脇を通り奥へと進み、入り口で受付をし、上へと案内される。赤坂のビル群を見渡せるペントハウスが、マーヤさんの事務所だ。
僕が扉を開けると、野間会長とマーヤさんが、冷たい視線で待っていた。緊張感につつまれる中、原木山は先日の勝利を祝福した。
「見事な戦いぶりだった。ハム・ユジンを完封できるのは、日本ではマーヤだけだよ」
「わざわざご足労いただいたり、防衛戦の直後にサプライズを用意してくださったりと……人の心を揺さぶるのが、お上手ですね」
慇懃無礼に答えるマーヤさんの声には、怒りが滲んでいる。相当に、お冠のようだ。
はりつめた空気もお構いなしに、原木山は薔薇の花束を、うやうやしく手渡した。彼が渾身のオファーをするときの、常套手段だ。
「美しさと強さが融合した、最高の試合を見せられるのは、マーヤだけだ。おまえの魅力で、檻の中に、大輪の薔薇を咲かせてくれないか」
陰ではバハア呼ばわりしてるくせに、調子よく語る原木山。だが、効果はあったようだ。
マーヤさんの表情が、少しやわらいだように見える。小さく咳払いして、口を開いた。
「期待をかけて頂いたことは感謝してます」
「マーヤがゴロマキ戦を受けると答えたとき、会場が沸いた。ファンは熱望しているよ」
原木山は言質を盾に、外堀を埋めにかかる。
野間会長が何かいいたげだったが、それを制し、原木山は懐から小切手をとりだした。
「大きなジムを運営していると、年末はものいりだろう。ギャラを先払いしておく。この試合にかける覚悟として、受けとってほしい」
唇を噛んだ野間会長と対照的に、マーヤさんは笑った。小さな紙をひらひらさせる。
「倍額前払い……退職金ということかしら?」
「ラストファイト……しっかり魅せてくれ」
原木山は危ういワードを、放りこんできた。
マキちゃんとの試合で、マーヤさんとケージローズの契約は一端終了する。今後については合意に至ってない。狭い業界ゆえ、彼女がUFCと交渉中であることは周知の事実だ。
それを踏まえると「うちでの試合は最後だな」という意味で、受けとることもできる。
だが「格闘家として最後の試合になる」という引退勧告だと理解する方が、自然だろう。
階級下のマキちゃんにKO負けすれば、年齢的に、今後を考えざるをえなくなる。進退のかかった一戦であることは、間違いない。
マーヤさんは小切手を数秒ながめたあと、小さくたたんで野間会長に渡した。
「あたしは、やるといったことはやるわよ。これからも戦ってゆく。だから、次のステージへのはなむけとして、貰っといてやるわよ」
彼女の様子を好機と見たのだろう──原木山が肘で小突いてきた。僕は契約書をアタッシェケースからとりだした。マーヤさんは一瞬眉間に皺を寄せたが、サインしてくれた。
泥沼交渉になる覚悟をしていたが、ストロー級タイトルマッチは、あっけなく締結した。
マーヤさんの気性を利用した原木山が、巧者だったということか。そして、こじれる前に去るべく、一礼し、彼はきびすを返した。
追随する僕の肩口を、マーヤさんがつかんできた。格闘家の握力を味わわされる。
「オハギッ、あんたは残りなさいね」
「……萩原、わしは先に社に戻ってるぞ」
原木山はそそくさと去っていった。引き際が肝心と語っていたけれど、たしかに、いうだけのことはある。見事なフォールドだった。
五
事務所の壁には、マーヤさんの無名時代からの写真が飾られている。かつてのジムメイトの笑顔も並んでいるが、そこに映っているもので現役選手はいない。過酷な世界なのだ。
そして、顔を腫らした僕の写真もあった。雑誌の企画で、マーヤさんとスパーリングしたときのものだ。六年くらい前だったと思う。
時は流れ、彼女の技術はあがった。スポンサーや広告収入のおかげで、金も稼げるようになった。だが、どこか脆くなったように感じる。
ベルトをまいてからは、試合が決まるたびにナーバスになった。
「オハギは、あたしとマキの試合が組まれることは……発表されることは、知ってたの?」
マーヤさんは、試合は戦略的だが、内面は激情型だ。
取材記事に不満があるとして、編集部に乗りこんできたこともあった。格闘技興行において対戦相手とのトラッシュトークは仕事のうちだが、いわれたディスを三年は根に持つ。
面倒くさい人なのだ。彼女が不安定なときは、地雷処理する心持ちで臨まねばならない。
「僕が知ったのも、マーヤさんと同じタイミングです。すべて社長の独断専行なんですよ」
「まあ……あんたのとこのボスは、自己中ジジイだもんねえ。昭和の男って厄介よねえ」
「まったくです。僕個人としては、階級も違うし、やる必要のないカードだと思います」
「オハギは、本当に調子いいわねえ」
マーヤさんは笑ってくれた。ただ、目の奥に暗い影を感じる。マキちゃんとの試合は、彼女にとって相当に苦しいもののようだ。
「あたしさあ……マキが十代の頃から知ってるのよ。あの子の最初の旦那との初デートのときだって、コーデしてあげたんだから」
壁には、二人が一緒の写真も多い。練習していた頃は、姉妹のように仲が良かった。
「お化粧を教えてあげたコの顔を……殴ったり、蹴ったり、踏みつけろってのねえ。まあ、あの檻に入れば、普通にやれるとは思うけど」
彼女は随分と感傷的になっているようだ。
MMA選手としてのキャリアは十年。肉体と精神の両方に疲労は蓄積されている。
「マキも勝てると思ったから、試合を受けたんだろうし。あたしのベルトと価値を奪いにくる外敵として、ぶっ殺してやるけどね」
彼女は気丈に笑っていた。非道なことをやらせている罪悪感が、僕の中に広がってゆく。
外にでてリーゼを飲みたい。そんな願いが通じたのか、事務所をノックする音が響いた。
「ごめん、スポンサーと会食があるの。あんたの気持ちが聞けてよかったわ、ありがとね」
マーヤさんに押されて、ハニー・ビー・ジムから、おいとますることになった。
僕と入れ替わりに、壮年の男性が入室してきた。
Tシャツにデニムというカジュアルなよそおいだったが、手首に巻かれたウブロの御威光か、富裕層感がある。格闘家のタニマチらしい、胡散臭い男だった。
六
ケージローズはジョシカクのトップ団体であるが、ボクシングのように一般層にまで認知されてはいない。伝統も格式も資金もない。
ニッチな世界で、マーヤ対五郎丸真希は唯一といえる金を産むカードだった。五輪銀メダルのマキちゃんと、美女格闘家としてテレビ出演も多いマーヤさん。ライト層まで響く試合が決まったことで、銀行の金払いがよくなった。
このカードの実現を原木山が急いだ理由は、懐事情もあったのだろう。大晦日興行は大きな箱でやるので、いつもより金がかかるから。
今回は十六試合、三十二人の選手から、契約書をとらねばならない。さらに、リザーブ選手も四人ほど確保せねばならない。MMAは、ケガによる欠場が非常に多い競技だから。
そんなこんなで忙しく、ろくに家に帰れず、メンタルボロボロの日々がつづいた。
会社近くのデラ・メンタルクリニックに通う頻度も増えて、小野寺医師とは飲みにいくくらい仲良くなった。精神科医が患者と距離を近くするのは、本来は御法度らしい。
だが、僕の病状は不安や不眠程度で、原因は不休と自明なので、よしとしているようだ。
それに加えて、彼が格闘技に興味を持ったこともあって、大晦日まで三日をきった今日も、新宿の端にある居酒屋で飲んでいる。
「萩原さん……また、痩せられましたねえ~」
小野寺医師がビールジョッキを片手に、赤ら顔で笑う。精神科医もストレスがたまる職種らしく、彼はいつも急ピッチで飲む。
「四日帰ってないし、興行前はストレスが胃に来るんで。でも、選手も減量のピークなんで、一緒に体重落ちてるとしたら、本望です」
僕は芋焼酎五杯目だけれど、心配ごとが多々あり、全然酔いがまわらなかった。
減量は免疫力を低下させるので、試合が近づくほど選手が病気にかかりやすくなる。スマホに着信が入るたびに、誰か欠場する事態になるのでは──と胸がざわつくのだ。
「格闘技というのは選手だけではなく……周囲の精神にもダメージを与えるものなのですね」
「そうなんですよ! 試合前は皆ピリピリするんで、選手のパートナーは大変みたいです」
「試合に向けて強くなっているはずなのに、心は弱くなっている。興味深いですね」
小野寺医師の格闘技への関心は、精神医学的な視点が大きいようだ。エビデンスを重んじるのか、スマホで検索しながら語っていた。
「MMAで最も金を稼いだコナー・マクレガーは、酒場で老人を殴ってるんですねえ」
「世界最高峰の舞台UFCで二階級制覇した、偉大な選手ではあるのですが。ここ数年は調子くずしてて……性暴力事件で告訴されたりしてますね」
ハイレベルな競技者でも、殺したり殺されたり、自殺する者もいる。勝ち負けに追われる日々に精神を摩耗させられ、廃人のようになって人生を終えるものは少なくないのだ。
これは興行側でもフォロー体制をつくるべき事案だと、僕もなんとなくは考えてはいた。
「あ、海外格闘家アルアルなんですけど、突然宗教に傾倒して、落ち着いたりしますねえ」
「教義や教祖に依存すれば、思考や迷う機会が減ります。結果、安定するのでしょうね」
小野寺医師が淡々と語る声は、猥雑な居酒屋内でも聞きとりやすかった。説法のうまさも、精神科医の資質の一つなのかもしれない。
「私が調べた中で気になったのが、UFC元王者アンデウソン・シウバです。彼は、最多連勝記録を持っていますね。六年間で十六戦やって、一度も負けてない。コンディションの悪い日もあっただろうに。驚異の安定感です」
「六年……バイトでも、皆勤難しいですよ」
「シウバ選手は、メンタルトレーナーを個人的に雇って、一緒に暮らしていたとのことです」
「日本の格闘界隈では……聞かないですねえ」
「日本には、メンタルトレーナー協会がありますけど……格闘技系とは縁がないんですか」
「大学でコーチングとかの科目がある競技なら、ノウハウもあるんでしょうけど……ジョシカクはまだまだマイナーなので。専門的に対応している人材は、少ないと思います」
メンタルケアは、ジムの会長やコーチが根性論でおしとおしてきた。科学的アプローチがないので、選手が成熟し思考するようになったとき、関係が壊れて終わることが多い。
心身共にダメージが蓄積されたベテランの進退は、精神メンテナンスにかかっているといっても過言ではないだろう。
ふと、マーヤさんの顔が浮かんだ。彼女もこのところ、心を乱しているように感じる。
「メンタルに問題がある人って、見るだけで、ある程度わかったりするものですか?」
「所見程度は述べられますが、きちんと診断をするのなら、問診や知能検査が必要ですね」
「実は、少し心配な選手がいて……明日、公開計量があるのですが、見学してみます?」
口にしてから僕は後悔した。格闘技に興味があるようなので、ウィンウィンと考えてしまったが、専門家の技術を気軽に使おうとするのは、敬意がない。失礼な行為といえる。
だが、小野寺医師は快諾してくれたのだ。
「実は、私も競技者のメンタルケアについて考えていたので、渡りに船ではありますね」
飄々とした医師に、借りができてしまった。
七
ケージローズの前日計量は、秋葉原にある催事場で、公開イベントとして行われる。記者二十人と、ファン五十人が招待されていた。
舞台の中央に計量器が設置され、その脇にコーナー色で別れ、選手たちは並んでいる。
女子格闘家たちはビキニやスポーティーな下着で計量器に乗り、規定リミット内でしあげてきた肉体を披露する。きわどいランジェリー姿で、観客を楽しませてくれる者もいた。
明日戦う選手が一組ずつ向き合い、肌艶や表情などコンディションを確認しあう。公開計量は、競馬のパドックのようなものなのだ。
マスコミやファンも、選手の肉体や一挙手一投足を観察し、試合予想を組みたてる。
そんな場所で、僕は似あわないタキシードを着て、司会を行っていた。これもケージローズ広報局長としての、業務の一環である。
計量を終えた選手に、僕はマイクを向けて、試合に向けての意気込みを語ってもらう。
「明日は、しっかりKOしまぁ~す」
「熱い試合になると思いますよぉ~」
などなど、選手のコメントを頂戴した後、撮影タイムとなる。シャッター音が鳴り響く。
そんなフェイスオフが十五回くり返され、最後が、メインを務める選手たちの番となる。
肌シャツ&デカパン姿のマキちゃんが現れた。山下清画伯が如く、裸の大将感があった。
彼女は計量器に乗ると、野に咲く花のように人を和やかにする笑みを、見せてくれた。
「五郎丸真希選手、ストロー級リミット……五十二キロ、ジャストでクリアァァァですっ!」
僕のマイクと同時に、客席から声援があがった。マキちゃんにとって初めての階級であるが、リミットピッタリにあわせてきた。
さすがアマエリートだ。大学でしっかり栄養学を身につけているだけのことはある。
肌艶がいいので、水抜きはしてなさそうだ。
戻しは二キロで……明日は五十四あたりか。
つづいて、スポブラ&ショーツのマーヤさんが登場した。腹筋バキバキながら、女性らしい凹凸のある肉体に、会場の温度があがる。
観客から熱い視線を受けているのだが、マーヤさんの表情は精彩がないように見えた。
おぼつかない足どりで、計量器に進む。
「マーヤ選手、ストロー級リミット……五十一・五キロでクリアァァァですっ!」
僕のマイクに観覧席がどよめいた。マーヤさんは常に五十二キロ丁度で体を作っていた。〇・五キロアンダーは調整失敗かもしれない。
階級制の競技は、基本的には重い方が有利だ。選手はリミットギリギリに体重をつくる。
高身長のマーヤさんは、通常体重六十キロ。
四キロ減量し、残りは水分を抜いて落とす。
計量にはフラフラで臨み、クリア後に五キロほどリバウンドさせ、体格差を武器にする。
それを正確に遂行してきたのだが、初のアンダーだ。ルール的には問題ないのだが、緻密な試合運びをするマーヤさんにとって、こういった差が感覚を狂わせる可能性はある。
不穏な空気が漂う中、二人は向かいあった。
マーヤさんは、相手選手と目を合わせないことが多い。今回も、やや下方を見ている。
マキちゃんは、いつもニコニコしている。
「明日は、よか試合するばい」
マキちゃんが右手をさしだし、握手を求めたが──マーヤさんは無視し、客席を向いた。
「明日の戦いは通過点です。あたしの強さを、ただ証明するだけの試合になるでしょう」
そう告げると、マーヤさんはきびすを返した。撮影も拒否し、その場から去ってゆく。
司会者としては、止めるべきなのだろう。
だが、マーヤさんは決めたことは覆さない。
「マーヤ選手は疲労がたまっていて……試合は問題なく出場しますので、ご安心ください」
僕の下手なフォローに、プレス席も観覧席もざわついている。業を煮やしたのか、原木山が舞台にあがってきて、マイクを握った。
「女王蜂の習性は、判明してねえことが多いんだ。まあ、そのときがくれば、役割に殉じてくれるだろうさ。緊張感のある、いい試合になる予感がしてきたぜ」
原木山の啖呵に圧倒され、喧騒は収まった。
昭和の博徒は役目を終えると、足早に去った。なにげに絵になるジジイである。僕も一瞬見惚れたが、気をとりなおし司会業に戻る。
「あらためまして、この後は休憩を挟んで、皆さまからの質問をお受けしたいと思います」
己の軽薄な声を聞きながら、ポンコツぶりに恥じいっていた。裏方気質の僕は、表舞台に立つような仕事は緊張するし、苦手なのだ。
喉が渇いて、少し息が苦しかった。パニック発作の予兆かもしれない。休憩時間にリーゼを飲めば、落ち着いてくれるだろう。
八
ケージローズは少人数で自転車操業的に運営されていることもあり、トラブルは多い。
観客も慣れたもので、そのズンドコぶりを生温かい目で見守ってくれている気配もある。
インタヴューの準備として、選手たちが舞台にパイプ椅子を並べたりもする。箔も格もあったもんじゃない、手弁当興行なのだ。
「選手の準備が整いましたので、質問の方を始めさせていただきます。お時間限られておりますので、お一人さま一問でお願いします」
僕はマスコミ席にマイクを向ける。格闘技マスコミも衰退し、今や紙媒体は二誌だけ。僕の古巣『格闘技旬報』もウェブ配信のみだ。
「コロナも明け、外国人選手も来日すると思いますが、世界と戦う覚悟はありますか?」
「階級を越えた王者対決について、選手の皆さまの予想や分析など、聞かせてください」
「明日の対戦に向けての、いきごみを……」
等の問いを捌きながら、司会進行してゆく。
格闘技マスコミに混じって、テレビ局も来ていた。明日の大会の注目度は高いようだ。
つづいて、観覧者の質疑応答タイムとなる。
「今まで戦った中で、一番強かった相手は?」
「大勢の前で、負けるのは怖くないんですか」
「女性が殴ったり、殴られたりするのは……」
質問内容や雰囲気から、今回の参加者はライト層が多いように見えた。いつもより、遠くに届いているということだ。原木山の剛腕プロモーションの成果が、でているようだ。
注目度の高い大会で勝ったほうが、得るものは大きい。舞台に並んでいる三十一人の選手たちの顔にも、気迫が滲んでいる。
絶対エースであるマーヤさんがインタヴューを欠席したのも、選手たちには追い風だ。
隙あらば我こそがと、最年少十九歳、最年長四十歳の女戦士たちは、虎視眈々と狙っているのだ。会見は熱気に包まれていた。
「では、次が最後の質問になりまぁーすっ」
僕がマイクをかざすと、小野寺医師が挙手した。スーツ姿が、ラフな装いの格オタの中で浮いていた。彼のもとに、スタッフがマイクを持ってゆく。
「五郎丸選手に質問です。幼少期よりレスリングをつづけ、東京五輪で銀メダル獲得後すぐにMMAに転向され、今も戦いつづけている。そのモチベーションはなんでしょうか?」
マキちゃんは胡乱な顔で聞いていた。マイクを向けられると、呟くように語りはじめた。
「うちは……つづけるんは得意ばい。やめるよか、つづける方が楽やった。そいだけたい」
格闘技のイベントには似合わない、朴訥とした返答に、観覧席は微妙な空気になった。
「他のことはできんし……いわれた相手とやるだけやねえ」
試合は激しいのに、普段はのほほんとしている選手は、結構いる。何も考えてなく見えるが、意外に格闘IQは高かったりする。
マキちゃんのコメントのせいか、公開計量後の会見は、緊張感の欠けた終幕となった。
それから、イベントの後片付けなど、せわしい作業は深夜までつづいた。会見の様子はネットにアップされ、マーヤさんのブッチが炎上していた。そして、素朴なマキちゃんのコメントには、イイネが多くつけられていた。
当日の会場人気は、どちらに傾くだろう?
空が白みはじめた頃、僕は都内のワンルームに帰宅した。疲労の極致で、すぐに眠りたかったが──小野寺医師からメールが入った。
眠れなくなるような内容でなければいいなあ……と願いながら、僕は文面に目を通す。
『萩原さんが懸念されていたマーヤ選手ですが、正常に理性が働いていると思います。気になったのは五郎丸真希選手です。所作から判断するにASDの可能性が高いです。適応障害の未病も感じました。あやうい状態だと思われます』
厄介な話だった。仕事上のつきあいレベルの関係性で、介入すべきなのか判断は難しい。
いかなるときも笑顔でいるマキちゃんに、感情の欠落や、違和感を覚えたことはあった。
学生時代にコーチと結婚し、MMA転向後に和夫会長と再婚する。環境の変化に合わせ、保護者をチェンジしてきた。それは、彼女が生きるための、サバイブ術なのかもしれない。
マキちゃんの障害特性と強さについて、小野寺医師から得た知識で、僕は考えてみる。
ASDの感覚鈍磨特性〝無表情で痛みに強い〟は、試合で優位に働いているだろう。
同じことを繰り返せる常道行動特性は、反復練習を飽きることなくつづけられるわけで、基礎力アップに貢献しているに違いない。
連勝中のアトム級王者、キャリアは順調だ。
その強さが発達障害特性に起因したものならば、治療は必要ないのではなかろうか。
将来、禍の種になる可能性があったとしても、それは、彼女の周囲の人間が慮ることである。マキちゃんのご主人は、多くの選手を育てた名伯楽だし。興行側の人間が立ちいる問題ではない。それで間違いはないはずだ。
モヤモヤと考えているうちに、目が冴えてきてしまった。時計を見ると、朝の五時だ。
「三時間後に後楽園か……二時間寝れるか」
僕はデエビゴを三錠、口内に放りこんだ。
九
後楽園ホール千六百席は、ソールドアウト。
ケージローズ最大動員数となった大晦日興行は、第一試合から白熱していた。ジョシカクはKOが少ないのが常だが、乱打戦から組みついてパウンド葬。場内は熱狂に包まれた。
大興奮の観客席の中心にある、直径九メートルの檻で、女の戦いは苛烈をきわめてゆく。
第二試合はグラップリングの展開がつづき、リアネイキッドチョークで決着がついた。
前半戦は新人同士で組まれるので、技術が粗い派手な攻防になりがちだ。若手選手の欲望が滲んだファイトは、熱がある。熱量は伝染するのか、KOや一本の早期決着がつづく。
午後三時に幕を開けた大晦日興行は、午後七時には十五試合が終了していた。オープニングセレモニー、トイレ休憩、主催者挨拶も挟んでの進行なので、いいタイムスパンだ。
「もうメインか。マーヤが凌ぎきるのか、ゴロマキがパワーで蹴散らすのか。なんであれ、お客さんは、忘れられない日になるだろうぜ」
関係者席の中央に座した原木山は、ゴキゲンだった。今日は当たり興行だ。彼の隣で僕も、仕事を忘れそうになるほど楽しんでいた。
「これよりぃぃぃ、ケージローズ・ストロー級タイトルマッチを行いますっ。青コーナーよりぃぃぃ、アトム級王者、五郎丸真希選手の入場ですっ!」
アナウンサーがコールすると、マキちゃんが入場ゲートに現れた。ケージへとつづく花道を、彼女はニコニコしながら歩いてくる。
隣の和夫会長は睨みを利かせ、気合十分だ。
「つづきましてぇぇ、赤コーナーよりストロー級王者、マーヤ選手の入場にぃぃなりますっ!」
巻き舌気味のコールと、観客のエールの中、マーヤさんがステップを刻みながら現れた。
場内に設置された巨大モニターに、マーヤさんのアップが映しだされる。編みこまれた長い髪が、体の動きにあわせて揺れていた。
赤いコスチュームには、所狭しとスポンサーロゴが貼られている。多くの人の夢と欲望を背負って、彼女は戦っているのだ。それが力になることもあるだろうが、今は、彼女を縛り、動きを重くさせているように見えた。
そして、八角形の檻の中で二人は正対した。
アマレス時代から愛用してきた青のシングレットを纏った、マキちゃん。
競技仕様のブラトップとショートスパッツを、ピッタリと身につけたマーヤさん。
マーヤさんから左拳をだし、二人はグローブタッチした。そして、自軍コーナーに戻る。
和夫会長はバカでかい声で「相手はびびっとる。楽勝やで」と、さっそく牽制してきた。
マーヤさんのセコンド野間会長は、まっすぐに見つめ、小さくうなずいただけだった。
高まる緊張感の中、ゴングが鳴り響いた。
十
先に仕掛けたのは、マキちゃんだった。
ベタ足で距離をつめると、酔っ払いの喧嘩のように、パンチをぶん回していった。
アップライトに構えたマーヤさんは、スウェーでかわしつつ、ローキックを放ってゆく。
インローが二発決まるが、構わず前にでるマキちゃんの鼻先に、マーヤさんは左ジャブを当てる。熟練度が伝わる、鋭い動きだ。
マーヤさんの攻撃だけがヒットする時間がつづく。手足の長いマーヤさんと、ずんぐり豆タンクなマキちゃん。二人のリーチ差は二十センチ以上ある。薙刀と手斧で切り結んでいるようなものだ。この差を埋める打撃スキルは、レスラーのマキちゃんにはない。
マキちゃんは下がることなく前にでて、プレッシャーをかけつづけているが──太腿はワインのように変色し、顔も腫れてきていた。
打撃スキルの差が窺える、試合内容だった。
距離をとって当てつづければ、マーヤさんがポイントアウトで判定勝ちかと思われた。
だが、いつのまにかマーヤさんは金網につめられていた。何発被弾しようと下がらないマキちゃんのタフネスが、おし勝ったのだ。
「ゴロマキィィッ、しばき倒したれぇぇぇっ」
「お高く止まった女をヒィヒィいわせたれっ」
後楽園ホールの観客席からダミ声があがる。
ケージローズの顧客メイン層は、三十代以上の中年男性だ。そんなオジサンファンたちから、肉厚なマキちゃんは受けがいいのだ。
会場は、マキちゃんコールに沸いていた。
金網を背にマーヤさんは横に回るが、マキちゃんは追いかけ、つめて──逃がさない。
薙刀に手斧で勝つには、超接近戦しかない。
距離が狭まれば、長ものは持てあますから。
マキちゃんのパンチは回転が速い。格闘技的でないザツな軌道ゆえ、読みにくく見え辛い。何発か、マーヤさんの頬をかすめていた。
マーヤさんは腕をあげ、ガードを固める。
マキちゃんは意に介さず、拳を打ちこむ。
レスラーの背筋はすごい。尻もデカい。それらがバネとなり、拳にパワーをのせるのだ。
マキちゃんの大ぶりフックが、マーヤさんのガードの上に当たり、ぐらつかせた。小さく薄いオープンフィンガー・グローブでは、ゴロマキパワーを吸収しきれなかったのだ。
マーヤさんの集中力がとぎれた刹那、マキちゃんは胴タックルし、キャッチに成功する。
しっかり準備してきた動きだった。試合をリークした原木山の思惑が、はまったのだ。
「おおっ、テイクダウンは時間の問題だな。グラウンドになれば、ゴロマキのターンだぜ」
「ですが、マーヤさんは柔術もできますよ」
「五輪レスラーの組力の前には、無意味だろ。結末は見えたぜ。早い決着になりそうだな」
周囲に業界筋や協賛者がいるのに、原木山は肩入れを隠さない。マキちゃんの勝利ありきで、進行中のプランがあるのかもしれない。
「五輪選手に倒されない。マーヤ粘るなあ」
「やっぱ、マーヤはバランス能力高いよなあ」
背後から感嘆の声があがる。関係者席の後ろは三万円のS席。買うのは格オタだけだ。
我が同志たちの論評通り、マーヤさんは粘りを見せ、スタンド状態をキープしていた。
マーヤさんは高校では体操部所属。県大会レベルの選手だったらしい。そこで培われた体幹が、寄与している部分があるのだろう。
格闘技はダイエット目的で二十三歳から始めた遅咲き系で、打撃が少々できるヴィジュ売りの選手と、キャリア初期は侮られていた。
だが、彼女は真摯な人だった。得意の打撃を磨きながら、苦手な組技を克服していった。
二十九戦二十七勝二敗。黒星二つは海外挑戦、国内無敗だ。麗しい外見とは裏腹に、泥臭く戦いぬいた野花だ。雨風が吹き荒れる中、折れることなくたちつづけ、開花したのだ。
この試合でも、胴にしがみつく銀メダリスト・レスラーに倒されず、たちつづけている。
マキちゃんの腕が脇を締めあげてくるのを、マーヤさんは左手で抑えながら、右ヒジを当ててゆく。胸位置にあるマキちゃんの顔に、何発もヒジを打ち下ろす。薙刀使いが小刀へ持ち替えるように、接近戦用の技を使う。
ズキンズキンとダメージを刻むヒジ攻撃を、いやがったマキちゃんのクラッチが緩んだ。
その隙にマーヤさんはマキちゃんを突き放し、中央に戻った。柔術黒帯レベルのマーヤさんだが、オリンピアンレスラー相手では、組技・寝技の攻防は避けるプランでゆくようだ。
マーヤさんはリーチを活かし、組まれない距離から、蹴りや拳を当てて、削ってゆく。
マキちゃんは被弾覚悟で前に出て、懐に入りこむ隙を窺う。お互いに決定打はないまま、ゴングが鳴った。一Rの五分が終了したのだ。
マキちゃんの鼻や脛は、傍目にも明らかなほど赤く腫れていた。それは、マーヤさんの打撃が、有効だったということだ。マキちゃんは削られ、ポイントも取られただろう。
しかし、息が乱れているのはマーヤさんだった。マキちゃんの圧力を防ぐのに、相当スタミナを消耗したようだ。足どりも重かった。
自軍コーナーに戻ったマーヤさんに、野間会長が水を飲ませ、タオルで汗をぬぐう。
「マーヤ、大丈夫よ。今のままでいい。残り十分、同じことを繰り返せば……勝てるから」
野間会長は、焦っているように見えた。
水面下で、なにか起こっているのだろうか。
試合の行方に、感情移入しすぎているのかもしれない。僕の心を不安がつつんでいた。
十一
インターバルが終わり、ゴングが鳴る。
二R開始と同時に、マキちゃんは立った。
湯あがりのオッサンのようにリラックスした表情で、ケージ中央に進み、陣取った。
後手にまわったマーヤさんはステップを踏みながら、サイドにサークリングしてゆく。
それを追いながら、マキちゃんは拳をぶん回す。ヴォゥンと空気を薙いだ音を、マイクが拾い、尋常でない腕力を会場に伝えた。
「すげぇ。あんなん喰らったら首もげるぞっ」
「男子ミドル級くらいの、破壊力あるだろ」
観客席がざわめいた。腕の一振りで、千六百人を戦慄させるマキちゃん。凄いパワーだ。
それを、マーヤさんは目を開けて見ていた。
己の打撃が届く間合いに留まり、スウェーでかわしながら──左ジャブを当ててゆく。
小さく放っているが、前にでるマキちゃんにはカウンターとなっている。彼女の頭は何度も跳ねあがった。だが、怯むことなくギアをあげ、風車のように拳を回しつづけた。
それをかいくぐりながら、マーヤさんは一、二、三、四、五発連続で左右の拳を当てた。
この試合で右拳を初めて使った。利き腕の拳の方が威力が高いが、その分痛めやすい。
勝負所で使うべく温存していたのだろうか。
しかし、マキちゃんは首が太く、僧帽筋が発達しているので、脳が揺れにくい。顎やテンプルに直撃しているのに、倒れなかった。
博多の怪物少女と謳われたのは、伊達じゃない。レスリングで獲得したトロフィーは五十本。スポーツエリートは揺るがないのだ。
マーヤさんは肩で息をしていた。カウンター・スタイルは心身ともに疲弊する。チアノーゼで倒れないか心配なほど、呼吸が荒い。
だが、選手がきつい激戦をこそ、客は喜ぶ。
「おもしれぇー、ずっと見てたいぜぇー」
「マーヤは、しっかり仕上げてるよなあぁ」
「手を抜いてる試合、見たことねえよ」
S席のガチ勢が絶賛する攻防は、勢いを増してゆく。マキちゃんがパンチを振りまわし、マーヤさんが左拳のカウンターで応戦する。一Rと同じ展開だが、距離が近くなっていた。
アウトボクシングを好むマーヤさんが、接近戦に応じている。マキちゃんの得意な間合いで戦わされているのは、なぜなのだろう?
二Rに入ってから、マーヤさんは蹴りを使ってない。だから突き放せなくなり、接近を許しているのだ。足を痛めたのかもしれない。
蹴りを当てそこなうと、足先が壊れることは少なくない。一R終了時、マーヤさん陣営の様子がおかしかったが、故障していたのか。
そして、僕が気づけることを、マキちゃんのセコンドの和夫会長が、見逃すはずはない。
「マーヤは足がいかれとる。逃げ足は半減、踏ん張りもきかん。テイクダウンとれるでっ」
檄と同時に、マキちゃんは飛びだしていた。
猛牛のように迫るマキちゃんを、マタドールのように捌くマーヤさん。二人とも速い。
マーヤさんはソフィスティケートされた動きで、マキちゃんは優れた身体能力で、ハイスピードとなっている。マキちゃんが少し速い。
タックルを切りつづけるマーヤさんだが、このままでは捕まる。僕の不安が大きくなってゆく。呼吸も苦しい。パニック発作の気配がする。予期不安がおこっているようだ。
そして、マーヤさんがミスをした。バックステップしたさい、金網を背にしてしまった。
マキちゃんが、砲弾のように突っこんでゆく。これ以上さがれない。逃げる場所はない。
そして、激しい衝突音が轟いた。
マキちゃんの上体が、跳ねあがっていた。
タックルに対して、マーヤさんがテンカオでカウンターをとったのだ。組まずに膝を当てる、ムエタイの技だ。背の低い相手に対し有効な打撃が、教科書通りに決まっていた。
勢いと速度が、己に反動したのだ。タフが売りのゴロマキが、後方に倒れこんでいった。
観客の絶叫で、会場が震動する。
「おおおおおおっ、マーヤすげぇぇぇっ」
「タイミングドンピシャッ、精度たけぇっ」
「まさに名刀の切れ味、いいもん見たぜえっ」
S席の格オタたちも、驚嘆の声を漏らす。
マーヤさんの技術が、オリンピアンを粉砕したかに見えた。だが、マキちゃんは何事もなかったように起きあがった。あらぬ方を向いた鼻から血を滴らせながら、笑っていた。
まがった鼻をつかむと、強引に元に戻した。
ゾンビのような不死身性に、恐怖を覚えたのか、観客席は一瞬で冷え、静まり返った。
けれど、よく見ると、マキちゃんの足は揺れていた。ダメージは脳に刻まれているのだ。
仕留めるチャンスだと思うが、マーヤさんは追撃しなかった。ポイントは確実にとっているので、キープする方を選んだのだろうか。
あるいは、マキちゃんが敵だという心構えを、三ヶ月では作れなかったのかもしれない。
その後、交錯することなく二Rは終了した。
マーヤさんが圧倒的有利だったのに、マキちゃん陣営に余裕が見えた。コーナーに戻った彼女を、和夫会長は満面の笑みで迎えた。
「相手は凡人や、一つも怖いとこないで。真希の方が、生物としては強い。楽な試合やで」
中年男のダミ声に、マキちゃんは微笑み返す。公私ともにパートナーである和夫会長を、彼女が深く信頼しているさまが、見てとれた。
十二
一分間のインターバルの間、野間会長がタオルを握りしめ語りかけていた。だが、マーヤさんは首を横に振り、ひとことだけ返した。
「すべてを見せるわ……プロの仕事として」
そして、最終R開始のゴングが鳴った。
会長を振りほどき、マーヤさんはケージの中央に向かった。悲愴感を纏う彼女の前に、痣だらけのマキちゃんが笑顔で待っていた。
観客を魅了する闘いをくり広げた二人だが、今から五分以内に、一人が敗者となるのだ。
一Rと二Rはマーヤさんがポイントをとった。三Rをマキちゃんが優位に進めても、判定では負ける。勝つにはKOしかない。
追いこまれている状況であるが、マキちゃんは気負いを見せず、拳をぶん回してゆく。
マーヤさんはステップしながら、躱しつづける。これまでと違い、パンチを返さない。
確実にカウンターがとれる場面でも、いかない。両拳共に、深刻なダメージがあるのか。
昨日のフェイスオフのとき、マーヤさんは握手を拒否したが、右拳を痛めていたのか。
それで左を多用した結果、そちらも壊れた。右足甲の腫れも大きいし、骨折しているのかもしれない。野間会長は、試合放棄したかっただろう。
「マーヤ、流して終えるつもりかぁー」
「逃げきり勝利狙いか、しょっぱいぞぉー」
観客席から、ブーイングがとんだ。興行のメインを任された選手としては、美しくない戦法だが、ルール違反ではない。勝ちに徹するのも、また、プロの在り方の一つだと思う。
ただ、彼女の目は狩人のように、とぎ澄まされていた。マキちゃんが放った拳を、スウェーで避けながら、マーヤさんはつかみ──跳躍した。
右足は相手の腋下へ、左足は首を刈るように挟みこみ、手を引き、ぶら下がる。
飛びつき腕十字固めが、入った。海外の強豪に勝つべく身につけた、柔術を使ったのだ。
マーヤさんの全体重が、マキちゃんの右腕にかかる。ヒジ関節を、逆側へ締めあげる。
完全にキャッチしている。マキちゃんの顔に、この試合で初めて苦悶の色が浮かんだ。
「おおおおおっ、マーヤすげぇぇぇ」
「全局面で、完封勝利だあぁぁぁっ」
掌返しの声援が、格オタからまきおこる。
これでようやく終わる。マキちゃんも経験がつめて、いい試合だった。僕が胸をなでおろしたとき、観客席に激震が走った。檻の中で恐るべき事態が、展開されていたのだ。
「うぅぅぅういいいいいいいぃぃっ」
脂汗を浮かべたマキちゃんが、唸り声を発しながら、右腕を掲げたのだ──百七十二センチのマーヤさんを、腕にからみつかせたまま。
そして、一気に振り下ろした。
マーヤさんは背中からマットに叩きつけられ──弾けるような音と共に、バウンドした。
編みこまれていた髪がほどけ──広がった。
マーヤさんの表情に、諦念が浮かぶ。
その顔を、マキちゃんは無造作に蹴りあげたのだ。
マーヤさんは折れた歯を飛ばしながら、マット上を転がり──大の字で動かなくなった。
壮絶な逆転劇を称えるかのように、ゴングが鳴り響き──マキちゃんの勝利が確定した。
しばし静けさに包まれていたが──やがて拍手が起こり、会場全体に広がっていった。
原木山も満足げな顔で眺めていた。マーヤさんを海外団体移籍前に潰し、マキちゃんの価値をあげた。あんたは賭けに勝ったんだな。
描いた絵図どおりに、試合をコントロールしきった。その手腕には敬服するしかない。
けれど、興行の未来のためとはいえ、ケージローズの功労者である選手の負けを喜ぶなんて、僕にはできない。もう、ここは無理だ。
この仕事をつづける限り、選手を駒として扱わねばならない。それは厭だ。僕にとって、格闘家は光だから。焦がれていたいから。
皆がマキちゃんを祝福する中、会場モニターに、マーヤさんの弛緩した肉体が映しだされた。負け様も負け顔も、晒されていた。
乱れた髪をそのままに、マーヤさんは立ちあがろうとしていた。意識が混濁しているのか、よろめき、崩れ、四つん這いになった。
無残な姿に嘲笑をあげるものもいた。僕は、呼吸が苦しくなってきた。息を整えようとするが、できない。ヒザをつく。
歓喜が満たす会場で、うずくまる僕は──檻の中の敗者に、少しだけ似ている気がした。
十三
騒々しい街並みを、白い雪が舞っている。
一月の寒々しさの中を、さまざまな人々がゆきかい、僕の周囲を通り過ぎてゆく。
大晦日興行の激闘から、一年が流れていた。
マーヤ対ゴロマキの一戦が与えた影響は、大きいものだった。生き方を変えることを余儀なくされた人間が、何人かいた。僕はケージローズ事務局を退職し、原木山から離れた。
赤坂駅から三分ほど歩くと、工事中のビルが見えてきた。ハニー・ビー・ジムの看板が撤去されていた。雪と共に喪われゆく光景は、ひとつの時代の終焉を感じさせた。ジョシカクのカリスマ・マーヤは、もういない。
日本格闘技界から消えて、半年以上になる。
栄光の象徴だったハニー・ビー・ジムの最後を見あげる、一人の女性がいた。僕は彼女との約束があって、この場所を訪れたのだ。
「野間会長、お会いするのは……マーヤさんの結婚式以来ですね。あのときは大変でした」
「私は、あれでよかったと思っています」
苦笑する野間会長に、僕は封書を手渡した。ハニー・ビー・ジム所属選手の引き受け先となる格闘技団体への、紹介状を書かせてもらったのだ。編集者時代のツテが役にたった。
「ケージローズに比べるとファイトマネーは安いですけど、マッチメイクは融通がきくと思います。今の僕にできる、精一杯です」
「ありがとうございます。これで私も、過去と決別して、前に進むことができそうです」
頭を下げる野間会長の肩口には、疲労感が滲んでいた。ジム閉鎖に伴う残務処理は、大変だろう。それでも笑みを浮かべ、静かに事態を見据えている。半年前のあの日もそうだった。
マキちゃんに敗戦後、表舞台から消えていたマーヤさんからの一報は、結婚式の招待状だった。消息不明だった間、どうしていたのか? 美女アスリート失踪は、格オタならずとも、興味を引く話題だ。挙式当日は、会場となったホテルにマスコミもつめかけていた。
だが、彼女は現れなかった。マーヤさんの経歴に、起業家との結婚式ドタキャンが加わったのだ。新郎は、ハニー・ビー・ジムで見たことのあるウブロの男。ジムの出資者であった彼は「どれだけ金を使ってきたと思ってるんだっ」と、関係者につめよっていた。
それに対し、野間会長は微笑を浮かべ「あのコは闇の底で……拳を握って立ちあがると決めたのです。戦う道を選んだ人間は、コントロールできませんよ」と、いい放ったのだ。
ハニー・ビー・ジムは潰されることになったが、会長は契約事項を盾にひきのばし、ジム生のアフターケアをしっかりやりきった。
彼女の苦境は窺い知れたので、僕は及ばずながら、敗戦処理の協力をすることになった。
そんな最中に、思わぬ知らせを受けたのだ。
格オタ界隈では死亡説も流れていたマーヤさんの動向が、海外サイトに流出したのだ。
そこで知ったマーヤさんの選択について、分が悪いと僕は考えていた。その件を聞いてみたいというのも、今日の来訪理由だった。
「自ら買いたたかれにゆくのは、もったいないですよ。日本で復帰戦をして、戦績を整えてから、再交渉した方がよかったのでは?」
「マーヤは、ゼロから始めたかったんですよ」
微笑む野間会長に返す言葉は見つからず、僕は赤坂を後にした。そして電車で約二十分──街並みも人種も真逆の巣鴨に向かった。
繁華街の中にある五郎丸ジムに赴くと、マキちゃんが出迎えてくれた。
いつも騒がしい和夫会長の姿は、なかった。
そのせいか、ジム内は閑散として見える。
「小野寺先生に書いてもらった処方箋……薬局で見せれば、お薬だしてもらえるから」
「ハギィさん……イロイロ気にかけてもらってありがとさんです。ウチも、はよ元気にならなと思うとるばい。娘たちも心配しとるし」
マキちゃんの声は、今日も覇気がなかった。
ジムの隅で、選手に遊んでもらっている双子ちゃんを見る目が、赤く腫れている。五郎丸家の家庭問題は長引いているようだ。
昨年末の大晦日興行──マキちゃんはマーヤさんに勝利したことで、多くのものを得た。
ネット配信の売上がすさまじく、PPVボーナスにより、十倍近い収入もあった。
さらにバラエティ番組に、夫婦で呼ばれたりした。そこで、和夫会長のあくの強いキャラが受けて、名物会長として一躍ときの人となった。それを引き金に、東横未成年買春の常習犯だったことが、週刊誌に暴露された。
それが九ヶ月前──マキちゃんの試合前日のことだった。メンタルボロボロの状態で、マキちゃんは判定勝利を拾ったが──結果には疑惑の声も多く、彼女の求心力は低下した。
その二ヶ月後に、調整試合としてカマセ犬をあてがわれたが、それでも勝てなかった。
ドロー裁定で、ベルトの移行はなかったが、王者の資格なしとネットで叩かれまくった。
マキちゃんはベルトを返上し、現在休養中である。ちなみに家庭内離婚中でもある。
小野寺医師が、危惧していた状態になった。
発達障害者は依存心が強く、その対象との関係がそこなわれたとき、適応できなくなる。
精神的支柱だった和夫会長に懐疑的になったマキちゃんは、試合で前にでられなくなった。
それがきっかけで、僕は起業したといえる。
「今後のキャリアを考えるためにも、メンタルトレーナーに会ってみようよ。家庭、仕事、心を一人に頼るのは、リスキーだと思うんだ」
僕の言葉に、マキちゃんは首を縦にふった。
けれども元気はない。いつも笑ってるコだったのになあ……と寂しく思う。
「そうだっ。今回のThe Ultimate Fighterにおもしろい選手がエントリーしてるらしいよ。ちょうど発表会見やってるみたいなんだけど」
と、格闘家なら誰もが憧れるUFC関連の話題をふっても、マキちゃんの反応は薄い。
ならばと、僕はスマホをとりだし、動画アプリを起動させ、彼女の前につきだした。
「もう、始まってるみたいだね。今回は、ストロー級の女子選手が集められたみたいだよ」
「マーヤさんもUFCから高待遇オファーが来てたけど、うちのせいでダメになったらしいね。うちが負けとったら、うちん人もあげんことせんくて……みんな幸せやったたい」
マキちゃんはガッツリ闇落ちしているようだ。だからこそ彼女と一緒に見たかったのだ。
TUFは、ローカル団体の選手たちをトーナメントで競わせ、勝ちぬいたものが、世界一の格闘技団体UFCと契約できる──蠱毒の如きシステムとなっている。ここから、UFC王者になったものも少なくないのだ。
新人発掘の場であるためギャラは激安。最低待遇からのスタートとなる。参加選手は若手が多いが、ワンス・アゲインを夢見る古参もチラホラいる。今回は日本人選手が、混ざっているという噂は、少し前から流れていた。
スマホ画面に映った舞台に、世界各国の荒くれ女たちが並び、紹介されてゆく。黒人、白人、メキシカン、皆ギラギラしている。
最後に、日本人選手にスポットが当たった。
Maaya Mitsubara と名前が表示される。
「ああぁっ、マーヤさんたいっ!」
マキちゃんが、頬を紅潮させた。
最強を重視するUFCは、近々に黒星のある選手とは契約しない。ゆえに、マーヤさんはTUFで泥にまみれることを選んだ。宝塚女優がハリウッドで、端役から始めるが如く。
ジョシカクのカリスマ・マーヤの看板を捨てて、光原真綾として異国で戦ってゆくのか。
長かった髪は少年のようにサッパリし、大きな目は上を向いて、強い光を放っていた。
「……昔のマーヤさんみたいな顔しとるたい」
マキちゃんの表情も、少し明るくなった。
彼女は立ち直れると確信した僕は、五郎丸ジムをあとにした。
巣鴨の街を歩いていると、白い雪景色に不似合いな黒のワゴン車が、僕の脇に止まった。
ドアが開かれ、僕は中にひきずりこまれた。
フルスモークの車内で、その男の顔を見たときに、人生最後の日になることを覚悟した。
十四
暗い車内には強面の男たちと共に、原木山徹が対座式のシートに腰かけて、睨んでいた。
彼を怒らせる心当たりが、僕にはあった。
「社長……お久しぶりです。近々、御挨拶に伺うつもりだったのですが……すみません」
「萩原よう……うちを退社したオマエに、社長と呼ばれる筋合いはねぇんだけどな」
原木山は手に持った酒瓶を向け、座るように促した。彼の正面の窓際に僕は腰かけた。
じっと僕を見つめる男たち。格闘家とは違う凄みがある。反社会的な属性の方々だろう。
そして車は発進した。どこに向かっているのかわからないが、結構スピードがでていた。
「オマエさ、ケージローズの所属選手のところをまわって、イロイロ声かけてるらしいな」
「……いや、広報局長として五年間在職させていただいて、人間関係もあるんで……はい」
「オマエの新しい事業のために、うちから引き抜こうってのかい。いただけねえなあ」
「いえ、それは、あの……僕も格闘技業界に関わる中で、思うところもありまして……」
「オマエ、筋をたがえ過ぎだぞ。いい度胸してるよなあ。まあ、とりあえず飲めや」
原木山がグラスになみなみとスピリタスを注いだ。高アルコールの酒を口にするのは危険だが、周囲の圧が強く、断れそうにない。
逃げだしたい気分だが、できないだろうし、すべきでもない。僕が義理を欠いているのは間違いないのだから。説明責任は、あるのだ。
そして、ピンチのときに前にでる格闘家の姿を、ずっと見てきた。だから、ヤバイ酒とわかっていたが口をつけることを選んだ。舌に熱を感じながら、僕は笑った。
「おいしいお酒のお礼に、格闘業界とケージローズにとって有益な話をさせてください」
「ほう、古巣の庭を荒らす商売始めたくせに、吠えるじゃねえか。新たに格闘技団体をたちあげちまうとは、ふてぇ野郎だよなあ」
原木山は更に酒を注いできた。一杯だけでクラクラしていたのだが、僕は喉に流しこむ。
「誤解をさせるような行動をとっていたことに関しては、お詫びすべきでしょうね」
原木山は片眉をあげ、覗きこむように見た。
いかつい男たちも、それに倣っている。
僕は原木山だけを見返して、告げた。
「僕が新たに始めたビジネスは、格闘技団体ではなく──格闘技〝支援〟事業なんですよ」
原木山はグラスの酒を飲みほし、嘆息した。
「洒落臭い囀りを……わしに聞けってのかい」
「事業内容は格闘家のメンタルサポートです。人前で殴り合う仕事って、体だけでなく心も摩耗しますから。ジム関係者とは別に、客観的にフォローできる役割が、必要なんです」
「けっ、ファイトマネーもさして多くない格闘家から、更にむしりとろうってのかい」
「知人のクリニックを間借りして営業するので、健康保険の適用範囲内で基本的な部分は行えます。競技者は神経を削られるので、メンタルを病んでいる方も、散見されるようです。ならば、自立支援医療制度が使えて……お安く提供できると思います」
僕の人脈からジョシカク中心で、引退後の選手をメンタルトレーナーとして採用したい等々、僕が挑戦する新事業をプレゼンする。
僕の話を聞きながら、原木山は照査しているようだ。都合よく取り繕っても、めくられるだけだ。ならば、格闘家メンタルサポート・ビジネスについて意見をあおぐつもりで、ぶつけてみよう。ジョシカク業界のドン原木山徹の反応は、興味深い。学びもあるだろう。
「きっかけは、マキちゃんの不調です。五輪も経験している怪物選手ですら、メンタルが崩れると、はがゆい試合をしてしまう。彼女の場合、発達障害ASDからの適応障害が要因でした。選手の精神的特性を理解して、安定へと導く機関があれば、ふせげた事態なんですよ」
原木山は不機嫌そうな顔をしているが、どこか楽しんでいるような気配もある。この男は、金のからんだ勝負事が好きなのだと思う。
気がつくと、スモークガラスの向こうが真っ暗だった。弁明大会をつづけているうちに、夜になっていた。灯りが見えないし、都心から離れているようだ。何をされるのだろう?
そして、車が停車した。いかついお兄さんがたが、ドアを勢いよく開いた。冷たい風と共に、雪が入りこんできた。白くつもった森が、広がっていた。結構な山奥にまで連れてこられたようだ。
なぜに、こんな場所で降りにゃならん?
狼狽する僕を見る、原木山の目は冷たい。
「萩原……格闘技オタクの情熱は伝わったよ。でもよ、なればこそ興行を打つ側に回ろうと思わねえのか。うちで得た人脈を使えば、資金も集まるだろう。おまえの理想とする団体をつくる方が手っ取り早いんじゃないか。自分好みのドリームカードも、組み放題だぜ。それこそ、オタクの本懐じゃねえのかい」
「団体と選手は利害関係なので、客観的な支援は難しいでしょう。興行主の仕事は、選手をコントロールすることです。僕は、選手を応援していたいんだと思います……ずっと」
「おまえには、いい給料払ってたんだがな。それを捨てて、推し活を理由に起業したわけか。オタクってのも案外、ギャンブラーだな」
「退職時は、そこまで考えてませんでした。メンタル激弱な僕が、業界に疲れただけです。ただ、僕が弱い人間だったから、格闘家の中にある弱さが、気になったのかもしれません」
「寝ぼけたこと囀りやがる。それじゃあよう、オマエ自身が得るものは、なんなんだよ」
「いや……まあ、熱い試合を見ていると……疲れてるときでも、元気を貰えるんで……」
「ぼんやりしてんなあ。ちっとはソロバンはじきやがれ。おまえは経営者に向いてねえぞ。でもよ、格闘家のメンタル安定事業は、悪くねえよ。女子選手は拗ねると厄介だしな」
原木山は褒めてくれたが、油断ならない。
ケージローズは赤字状態と噂だし、彼も苦境にあり、メンタル不安定な状況だろうから。
マーヤさんは去り、マキちゃんは長期休養。無茶なマッチメイクをしてまでスターをつくろうとしたことが、裏目にでた結果となった。
エース不在で興行をうつのは苦しかろう。興行主としての看板にも陰りがよぎっている。
ストレスフルな無法上等系は、なにをしてくるのか、わからない。理不尽なキレ方を何度も見たし、された。反面、そこまで思ってくれるのかという情を感じたこともあったが。
身構える僕の襟首を、原木山はつかみあげ、鼻の触れあう距離で睨みつけてきた。
「なあ、萩原。業界の先達として……オマエに一つ伝えておくことがある。心して聞けよ」
数々の修羅場をくぐってきた博徒の迫力に、僕は震えていることしかできない。
「わしらは、女に体を張らして上前をはねる、さもしい女衒なんだ。わきまえつづけろよ」
彼はそう告げると、車外に僕を放った。
背中から、地面に落とされた。一瞬視界が暗くなり、呼吸がつまった。やわらかい山土でなければ、大怪我していただろう。痛みをこらえる僕の頭上から、笑い声が響いてきた。
「同じ業界で生きてんだ、どこかで会うこともあるだろうさ。じゃあ萩原、またな」
そして、原木山とワゴン車は去っていった。
山道に一人残され、僕はしばし放心していた。ここに連れてこられたのは、詰問と脅しが目的なのだろう。けれども、話の流れ如何では、埋められていた可能性もあったと思う。
恐怖で足に力が入らず、体を起こすこともできない。車内では緊張もあり酔いを感じる余裕はなかったが、結構まわっているようだ。
不安がわいてきた。ケージローズ事務局を退職してから眠れるようになり、少しずつ減薬していた。今は抗不安薬は常備してない。
危険な状況である。こんな僻地でパニック発作がおこるとヤバイ。最悪、死ぬぞ。
薬局があれば、しのげる市販薬が見つかるかもしれない。僕は、スマホの地図アプリを起動させる。どうやら奥多摩の山腹のようだ。
麓までは二十キロ程度……スマホは使えるし、なんとかなるとは思うけれど。
ため息を小さくついて、僕は首をあげた。
月明かりをうけた花が、仄かに輝いていた。
椿が群生しているようだ。夜の静寂に溶けこむことなく、やわらかい灯となっている。
暗闇にうかんだ、花のひとつひとつをながめているうちに、不安はおさまってきた。
僕は立ちあがると、足を踏みだした。
幻想的な光に導かれるように進む。ふと、その輝きを、自分のものにしたいという衝動がわいた。僕は指先を伸ばしてみた。
だが、触れることなく、手をもどした。
雨風に打たれながらも天を仰ぐ花の気高さを、僕は知っている。それだけでいい。
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