書評『潤日』:日本に逃げる中国人たちの物語
中国人がさまざまな理由から故郷を離れ、異国の地で活路を見出そうとするのは、古来よりよくある現象である。そもそも中国という国家自体が、移民によりその範囲を拡大してきた(これは菊池 秀明『越境の中国史 南からみた衝突と融合の三〇〇年』に詳しい)。中華国家がやがて極限にまで膨張すると、人の流れはその外側に向かうようになる。世界各地にあるチャイナ・タウンがその証左であろう。ご存知のように日本にも横浜、神戸、長崎と由緒ある中華街が何箇所もある(また、山下清海『池袋チャイナタウン-都内最大の新華僑街の実像に迫る-』や『新・中華街―世界各地で〈華人社会〉は変貌する』に描かれるように、今世紀に入ってから池袋にも巨大な中国人コミュニティが形成されつつある)。
実は近年、新たな海外移民ブームが中国で起こりつつある。中でも、日本に移住する者が特に多い。その現象を冷静で理性的な、それでいて人間味あふれる文筆で追ったのが、舛友雄大『潤日(ルンリィー): 日本へ大脱出する中国人富裕層を追う』である。

本書は日本のメディアではもちろん、フィナンシャル・タイムズ(Financial Times)など英語圏のメディアでも注目され、本年11月に台湾で中国語の繁体字版が出版された(本書が今年2月に出版されたばかりであることを考えると異例のスピードである)。

「潤」は中国語で「ルン」と発音し、アルファベットでその発音をrunと表記することから、転じて海外に逃亡することを指すようになった。2018年にその言葉が現れ、2022年以降その使用が急速に広がった。「潤日(ルンリィー)」は中でも日本に移住する人を指す。
舛友氏によれば、潤ブームは2018年に国家主席の任期制限が撤廃され、習近平氏の終身制が実質的に確立されたあとに現れはじめ、その後の民営企業に対する制限の強化やゼロ・コロナ政策などにより急増したという。2025年6月時点で、在日中国人の数は90万を越し、中でもコロナ禍後に日本に移住した移民の数は9万を越すとされる。
いわゆる「潤日」と呼ばれる中国人はさまざまなタイプを包含する。不動産投資に勤しむ富裕層[1]から、子どもの教育のために移住した親たち[2]、よりよい生活スタイルを求める中流階級[3]、ひいては言論の自由を求める知識人[4]まで、その内実は多様である。舛友氏によれば、彼らの共通点は「抑圧から逃げる姿勢」である。確かに、中国国内における私有財産に対する制限から、生き詰まるような学歴競争、はては言論弾圧まで、「潤日」の人々はさまざまな形で存在する故郷における抑圧から逃れようとしている。

日本側に目を向ければ、比較的に取得可能な経営・管理ビザや北海道のニセコ町などの魅力的な不動産投資先、良好な教育環境が、日本を魅力的な移住先としている要素である。
「潤日」現象は、日中両国の現実を映し出している。しかし、両国の社会が常に変化しているように、「潤日」も動的な現象である。例えば、日本政府の経営・管理ビザの要件厳格化、「民泊特区」の廃止、今後強化されるであろう不動産投資への制限、さらには「日本人ファースト」を唱える参政党の登場にみられる排外主義の上昇などは、いずれも「潤日」トレンドを抑制しうる要因である。一方で、中国国内の景気後退や就職難、言論弾圧などは引き続き中国の移民ブームを促進しうる。
「潤日」は常に変化するトレンドであり、舛友氏の著書はまさにこの現象を理解し、観察する出発点を提供してくれる画期的なものである。

『潤日』で舛友氏は実にわかりやすい仕方で、中華の地を離れ、日本にやってくる人々の多様な実像を整理している。一方で、その冷静で理性的な記述の下には、人間味あふれる心の温度が感じられる。それは本書の最終章にもっとも現れている。本書を章ごとにつまみ食いに読むのではなく、最初から最後までしっかり読めば、事象を客観的に描こうとする舛友氏の紀実的な視点の裏には、いつも友人Akidへの思いがあることがわかる。
中国人女性Akid(本名「王懿」)は,長年メディア界に従事してきた。そして、多くのメディア人と同様に、日々厳しさを増す言論環境に辟易し、コロナ後に日本に移住することを決意する。しかし、彼女の日本での暮らしは、2023年8月に最も不幸な仕方で終わりを迎えた。彼女は長年メンタルヘルスの問題や拒食症に悩み、世間一般では餓死がその死因だと認識されている。一方で、東京新聞は彼女の本当の死因が低糖症である可能性を報じている。彼女が世を去った後、まだその死に関して全体像が見えない中、多くの根拠のない噂や誹謗中傷が出回った。さまざまなミスリーディングな報道が、それらを加速させた。日本に拠点を持つ著名な中国人ジャーナリスト王志安(そのYouTubeチャンネル「王局拍案」は現在約191万人ほどの登録者を持つ)の動画もその一例だ。

中国人ネット民のAkid氏に対する誹謗中傷は、一部の中国国内に住む人々の、海外移住者への敵意を象徴している。「祖国を裏切った」というのは、自称「愛国者」たちが海外移住者(いわゆる「潤」の人々)に貼りがちなレッテルだが、舛友氏は本書でそのような非理性的な声に静かながらも、力強い仕方で反撃を加えている。
舛友氏の「潤日」の人々に関する子細な記録から、我々は彼らが普通の人々と異なる点と共通する点の双方を見出すことができる。移民したことがない人であっても、「潤日」の人々と同じような経験をしたり、同じような思いを抱くことはあるであろう。例えば、社会のプレッシャーの中で自分の言いたいことを自由に言えないこと、子どもの教育を心配すること、長年苦労して貯めてきた資産を守りたいと思うこと、などがあげられる(日本と中国は異なる社会環境をもつが、自分の身に重ねれば、彼らに感情移入することは難しくないはずだ)。海外移住するという決断は、確かに故郷への裏切りといえるかもしれない。しかし、それは同時に生き残るための、より幸せに生きるための決断でもある。『潤日』はまさに、「祖国を裏切って、海外に逃げた」という表層的な表象では捉えられない、「潤日」の一人ひとりの生きた人間の物語を描いている。
※本年の11月10日に『潤日』の作者・舛友氏に行ったインタビューの内容を、海外中国語メディア・ボストン書評(波士頓書評;Boston Review of Books)にて、英語と中国語で発表しました。英語と中国語を読むことができる読者の皆様には、ぜひこちらも併せて読んでいただけたら幸甚である。
英語:
中国語:
注
[1] アリババの創業者で知られるジャック・マー(中国語名「馬雲」)は、富豪ですら中国国家の圧迫を逃れられないことの最たる例であろう。2020年に政府当局を批判する言論を行って以来、長い間マー氏は公の場から姿を消してきた。その後のかなり長い間、彼は日本に滞在していた。また、彼は箱根や北海道のニセコなどで不動産を有するとされる。いささか知名度が劣るものの、ほかにも万科集団の王石や兆泰集団の穆麒茹など、日本に長期滞在、もしくは日本をしばしば訪れる富豪の例は枚挙に暇がない(本書第四章を参照)。その多くは日本に不動産を持つとされる。
富裕層の増加に伴い、彼らが依拠するエコ・システムも発展してきた。地下銀号をはじめとする国際的な金融ネットワークや、彼らを対象とする会員制高級クラブ(「会所」)も発達してきたことを舛友氏は突き止めている(本書第五章を参照)。
[2] 中国の人々は自分たちの教育に対する執着ともいえる熱心さをも日本に持ち込んだ。近年、SAPIXのような中学受験塾は中国人の子どもであふれ、上級クラス(αクラス)にいる子も多いという。中国のチャットアプリWeChatでは、「裏SAPIX」とでも呼べる中国人親のグループもあり、互いに勉強のコツを共有したり、問題を出し合ったりしているという(第三章を参照)。近い将来、華僑や華人の子弟が日本社会のエリート層を占め、日中関係に大きな影響を及ぼすようになるかもしれない。一方で、中国で大きな社会問題となっている青少年のメンタルヘルスの悪化や自殺率の上昇が、日本でこれから起きないことを願うばかりである。
[3] 本書第七章によると、日常生活におけるささやかな幸せ(中国語で「小確幸」)を求めて日本に移住する中流階級も多い。しかし、中国の旧正月のテレビ番組や中国のSNS「RED(小紅書)」で彼らが受ける誹謗中傷(例:「お前は日本の犬だな」「こっそり楽しめばよい(偷着乐:コロナ禍中に中国の外交部の記者会見で使われたことから流行した表現)」)といった生活の細部から、彼らの故郷がいまや息の詰まる政治的な要素に満ちているがわかる。
[4] 中国において日増しに強まる言論弾圧は、多くの学者や知識人の海外移住を促した。彼らの知識や言論に対する情熱は、海外における中国語の「公共領域」の形成を促している。特に日本では、秦暉といった著名な学者から、局外人書店、飛地・離島書店などの中国語書店、ひいては中国語出版社「読道社」まで、中国人が活力あふれる言論空間を形成しつつある。日本側でも、駐中国大使を務めた垂秀夫や東京大学の阿古智子教授など、中国知識人の移住を支持する人が多い。現在の状況を、清末にたとえて、「第二の孫文」の出現を期待する声すらある。しかし、習近平がますますその権力の基盤を強固にし、国内の言論を押さえつけている状況で、そのような願いが叶うかはまだ未知数である。

