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燃えることが、許されにくい時代。  この時代に、燃えてもいいのか?

最近、あるインタビュー記事で、ラピダスの小池社長がこう語っていた。

「全従業員が一丸となって、昼夜問わず、自分の限界まで挑戦してくれた。それが一番大事なことだった。」

今の時代、大きな企業がこういう発言をすれば、「労働基準はどうなってるんだ」とか「やりすぎだ」と言われるのかもしれない。
でも僕は、どこか懐かしく、まっすぐな熱を感じてしまった。


一生懸命やることは、悪いことなのか

僕は、自分のやりたいように働くために独立した。

何に時間を使うか、どこまで挑戦するか、その線引きを他人に預けたくなかった。
寝る時間を削っても、誰に引かれようとも、自分が納得できるところまでやってみたい。それが僕の性分だ。

でも今の時代、それは「やりすぎ」と言われてしまう。
効率よく、ほどほどに、周囲と足並みを揃えて、休むことを第一に。

そういう空気が、すっかり主流になった。

もちろんそれは、過去の労働過多やパワハラ文化への反省があったからこそ生まれた価値観だ。
でも時々思うのだ。

やる気のない人間にやる気を強要するな、という声は許されるのに、
やる気のある人間が自由に燃えることは、なぜ許されにくいのだろう?


人は、燃えていることを隠すようになった

今の空気感は、どこかおかしい。

本当は燃えている人も、
熱中している人も、
「意識高い」と思われるのが怖くて、わざとそれを隠す。

SNSでは謙遜し、会社では周囲に合わせ、家庭では迷惑をかけまいとする。
だからこそ、僕は思う。

燃えていることを隠すようになった──それがこの時代で一番つまらないことだ。


嫉妬と「努力しない自由」

とてもよく動く人。
何かに没頭している人。
そういう人にコンプレックスを持つ人は、確かにいる。

憧れているのに、自分は努力できない。
だから、努力している人を眩しく感じ、同時に苦しくなる。
そしてやがて、その眩しさを「うざい」「空気読め」と斜に構えるようになる。

だけどそれは──努力しないことの言い訳を、他人に押しつけているだけじゃないのか?

もちろん、すべての人が同じように燃えられるわけではない。
でもだからといって、燃える人の足を引っ張る理由にはならない。


火のある風景を、もう一度見たい

燃える人間の努力や熱意に、いちいち水を差す社会は、やっぱりつまらない。
それは、燃えない人間の嫉妬や劣等感を優先した結果なのかもしれない。

けれど、嫉妬の痛みを癒す方法は、火を消すことじゃない。
自分にも火をつけてみることだ。
あるいは、他人の火を見て、黙って見送ることだ。

火のある風景を、また見たい。
僕は、そう思っている。


火とは、目に見えるものだけじゃない

そして同時に、声を張り上げない者の中にも、
静かに、しかし確かに燃えている火があることを、僕は信じている。

人前で語ることは苦手でも、
自分の考えを、黙々と、記述というかたちで表す人たち。
その文章が、実はとても厚く、深く、静かに燃えていることがある。

火とは、目に見える炎だけで測るものではない。

熱量の違いは、表現の違いでもある。
だからこそ、誰かの火を笑わない世界であってほしい。
火を押しつけることも、火を押し殺すこともなく、
ただ、それぞれが自分の火を大切にできるような、そんな社会で。

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