No.015『ゴッホ展Ⅰ〜家族がつないだ画家の夢』
【芸術鑑賞0001】2026月1月9日 晴
皆さん、今晩は。
年が明けましたね。
本年もよろしくお願い申し上げます。
さて、今月は昨年東京で開催され、観に行った『ゴッホ展』に就て綴ろうと思っている。
2025年9月12日~12月21日までの三箇月程、東京都美術館に於いて開催された展覧会である。
私がこの美術展を知ったのは、新宿駅構内のポスター告知であった。
身近な場所でゴッホの作品が鑑賞出来ることを知り、是非に行きたいと思った。
先ずは、この美術展の主旨を紹介したく思う。
フィンセント・ファン・ゴッホ
Vincent Van Gogh
1853年3月30日にオランダ南部ズンデルトにて牧師の父・テオドルスとその妻・アンナのあいだに六人きょうだいの長男として生誕する。
その四年後の1857年に弟・テオ(Theo van Gogh )が誕生
後に詳細するが、このテオは兄の良き理解者となり、フィンセントの生涯を支える存在となる。
1869年、16才のフィンセントは伯父の経営する美術商「グーピル商店」のハーグ支店に見習いとして雇われる。
1873年1月に弟のテオもブリュッセル支店に見習いと雇用され、同年11月にハーグ支店に異動となる。
1875年5月、22才の時フィンセントはパリ本店に異動し、モンマルトルに移住する。
しかし、翌年の4月に成績不振の為、フィンセントはグーピル商店を解雇される。
その後、補助教員や書店での仕事を経て、
1877年の24才の時、神学を学ぶ為にアムステルダムに移り、翌78年25才の時、ブリュッセルに行き、福音伝道師の訓練を受ける。
1879年にベルギーの炭鉱地ボリナージュにて伝道師を務める。8月にはクエムにて伝道師の傍ら炭鉱夫の素描を描く。
一方、テオはグーピル商店で働き続け、1879年末にパリのモンマルトル大通り支店に異動し、1881年に支店長となる。
1880年、フィンセントは弟・テオの勧めにより、27才にして画家になることを決意する。
このようにフィンセントは、短期間でヨーロッパ各地を巡り、職を転々とし実にめまぐるしい日々を送っていた。
画家になることを決意し、テオがグーピル商店のパリ支店長になってからはテオからの資金援助、又テオ一家の支援を受けながらフィンセントは活動を続けていくのだが、少し不思議にも思う。
弟のテオが自ら勧めたとは云え、兄の画家として活動や又その生活を長年に渡り支援するのは、大変なことだったろう。
何故にテオは兄のフィンセントをここまで支援出来たのか。
この兄弟の美術への素地は幼い頃から牧師である父の信仰に基づき、二人の兄弟は文化の重要性を認識していたと云う。
牧師である父・テオドルス(Theodorus Van Gogh)は、フローニンゲン学派を信奉していた。
この学派は、自然や文化に高い関心を寄せるプロテスタントの自由主義的な流派で、寛容な考え方の牧師たちが文学を出版したり、宗教的な性質の版画等の美術が、ファン・ゴッホ家に大きな役割を果たしたと云う。
またこの兄弟の二人の叔父(伯父)は、フィンセントとテオとの人生に於いて美術や芸術の重要な部分を占めている。
実際、二人はセント伯父の経営する美術商に勤め、常に美術や芸術に触れることが出来たのだ。
又、青年期以後は安価な複製版画を購入したり、若い画家同士で互いの作品を交換したりと、二人のコレクションはささやかながら築かれた。
幼い頃からの文化への造詣を育まれ、職として身近に置き、様々の芸術家と交流してきた兄弟は、互いに美術と云うもので結ばれていたのだろう。
こうしてフィンセントは画家の道を歩むのだが、その活動は十年程に留まり、生前に売れた絵画はたったの一枚だった。
テオは1889年にヨハンナ(ヨー)・ボンゲルと結婚し家庭を築くが、その後も兄を支え続けて、兄の死後はその名声を広げる為、一家は尽力した。
一般的に不思議に思うその姿勢は、兄弟の幼い頃からの絆があっての故だろう。
そして、テオは元よりその妻・ヨーも(義)兄・フィンセントの才能を信頼していたのだろう。
生活も精神も不安定で絵を描くこと以外は仕事は出来ず、他人との付き合いも上手くいかず、最期は自ら命を絶ったフィンセント・ファン・ゴッホ ---
フィンセントは晩年にあたる1890年の5月、テオの妻・ヨー、そしてその年の1月に生まれた甥のウィレムに初めて出会う。
その時、ヨーは義兄のことを「とても健康的で、テオよりずっと丈夫に見える」と云い、三日間の滞在で「いつも生き生きとして楽しそう」と後に本の序文に記した。
この時、フィンセントは甥の誕生祝いに『花咲くアーモンドの木の枝』をテオとヨーに贈っている。
澄み切った青空に小さな薄い桃色のアーモンドの花が咲いたこの絵は、愛らしく、フィンセントの純粋さを感じる美しい一枚である。
フィンセントは甥のウィレムに会ったとき、涙を浮かべたと云う。
誰とも付き合えず、何事も上手く出来ずに心が疲弊しても、他人を愛する気持ちや優しさは失われなかった。
彼の死後から約半年後、弟のテオが病死する。
テオの妻・ヨーと息子のウィレムは遺されたフィンセントの作品とともに、ファン・ゴッホ家のコレクションを引き継ぐこととなる。
ヨーは元々、美術や芸術に精通している訳ではなかった。それでも、夫の死後はテオに代わって宿泊業の傍ら、これらの美術品を管理していく。
又、フィンセント・ファン・ゴッホの名声を広める為に少しずつその作品群を見極め、売却したり、知人の協力の許に展覧会を開催したり、書簡等をまとめて書籍化し出版したりしている。
ヨーがここまで尽力したのは、夫と出会いテオやフィンセントと過ごすことで、二人の芸術に対する想いやファン・ゴッホ家のコレクション、並びにフィンセントの作品群等の美術の価値を理解していったからだろう。
それは、後に「エンジニア」となった息子のウィレムに受け継がれていく。
ある程度名声を広げた後、1949年に「エンジニア」のウィレムは、最初の「フィンセント・ファン・ゴッホ財団」を設立し、翌年には同財団を改めて設立する。
そして、1973年に国立フィンセント・ファン・ゴッホ美術館の開館に至る。
尚、この美術館は1994年に民営化され「ファン・ゴッホ美術館」に改められる。
こうしてファン・ゴッホ家は現在でも財団の代表を務め、フィンセントの作品群やその他のコレクションである美術品を世界各地の美術館に貸与・出展している。
そして今回、日本での美術展が開催されたのである。
フィンセント・ファン・ゴッホの作品群を中心に、ファン・ゴッホ家を築いた数多の美術品や交流した作家の作品、又フィンセントが宛てた手紙等、家族が紡いだ芸術観が覗ける展示会となった。
次回は、フィンセントやテオを中心に、交流のあった作家やファン・ゴッホ家のコレクションの作品を出来るだけ紹介しようと思う。
