ゴッホ、ミケランジェロ、そしてトルコアイス。歴史から学ぶ「作家の顔出し批判」解剖
現代のソーシャルメディア社会において、定期的に融点に達する議論の一つに「作家の顔出し論争」があります。
作家のメディア露出、つまりは自身のSNS投稿に作品よりも作家本人の肖像を多く掲載するたびに、一定の層から非常に定型的な批判が噴出します。
「表現者は作品の質のみで評価されるべきである」
「可視化された容姿に頼るのは、テクスト(作品)への不誠実さの顕れだ」
こうした言説に触れるたび、私はある種の「前近代的な作家観」への固執を感じざるを得ません。
確かに作者の本質的な姿を隠蔽し、テクストそのものの自律性を重んじる「作者の死」という概念(ロラン・バルト)は広く議論されてきました。
しかし、あらゆる主体が発信者となり、コンテンツが過剰供給される現代の記号消費社会において、表現者が「自らの身体(顔)」を戦略的に提示することは、ごく自然な生存戦略、あるいはコミュニケーションの一環です。
顔出しの是非とは、本質的には表現手法やマーケティングにおける「選択の自由」の問題です。
にもかかわらず、なぜこれほどまでに「作家の顔」は特権化され、非難の標的となってしまうのでしょうか。
本稿では、この理不尽な批判の背景にある大衆心理を構造的に解き明かした上で、クリエイターがこうしたノイズから身を守り、論理的に対処するための具体的な言説(レスポンス)とマインドセットについて考察を進めていきます。
1 「作品主義」に潜む”落とし穴”
確かに「作品の質こそがすべてである」という主張は、一見すると正論のように思えます。しかし、美術史を客観的に概観すれば、そのロジックの限界は明白です。
例えば、巨匠フィンセント・ファン・ゴッホ。
彼の作品の質が至高の域にあることは現代の誰もが認めるところですが、生前に売れた絵はわずか1点のみでした。
どれほど卓越した作品であっても、社会に「認知」されなければ、市場においては存在しないも同然なのです。
彼は弟テオという例外的なパトロンの存在によって救われましたが、通常の表現者であれば、認知され、経済的基盤を得られなければ創作活動そのものを継続できません。
表現者が生き残るためには、作品と社会を繋ぐ「インターフェース(接点・導入)」が不可欠です。
19世紀においてその役割を担ったのが画商での口頭による紹介であるとすれば、現代におけるインターフェースは、メディアやSNSであり、そして「作家自身のキャラクター(身体性)」といえるでしょう。
「作品の質が重要である」という前提を否定するつもりはありません。
しかし、自身もSNSやメディアというインターフェースを媒介にして作品を消費している鑑賞者が、作家側の「作品への導入(インターフェース)」としての顔出し行為のみを特権的に批判することは、明確な論理的矛盾を孕んでいるのではないでしょうか。
2 「作家の死」(ロラン・バルト)から「制作背景の可視化」へのアップデート
とはいえ、「作者の生身の姿が見えてしまうと、純粋にテクスト(作品)を楽しめなくなる」という批判的言説も、一見して根強く存在します。
20世紀の哲学者であり文学批評家のロラン・バルトは作品(この場合、文学)と作者は切り離されるべきとし、これを「作者の死」と命名しました。この理論が美術作品へも転用・定着した形でいまも健在しています。
しかし、事実として表現者の「人格の高潔さ」と「作品の審美的な質」は必ずしも一致しません。
この”ねじれ現象”こそが、芸術鑑賞の極めて逆説的で、かつ非常に興味深い部分でもあります。
具体例として、ルネサンスの巨匠ミケランジェロ・ブオナローティの事例を紹介しましょう。
彼は、後世に多くの「不器用さ」や「怒りっぽさ」にまつわる逸話を残しています。
例えば、システィーナ礼拝堂の天井画制作に際しては、自身の要求する過酷な技術水準に達しない助手を次々と解雇したという記録が残されています。人手がなければ制作の進行が遅れ、自身が苦労するにもかかわらず解雇してしまう、という人間関係への不器用さと仕事への忠実さという人間性を垣間見ることができます。
現代的にイメージするならば「職人気質の頑固オヤジ」といったところでしょうか。
また、「聖堂装飾として裸体表現は不適切」と、ミケランジェロを猛批判した当時の儀典長を地獄の番人のモデルに仕立てあげ後世までその相貌を醜く残すという復讐もしています(その局部を蛇に噛ませるという描写からも、その怒りの凄まじさが伝わってきます)。
しかし、このような人格的欠陥は、彼の遺した作品の圧倒的な質をいささかも損なうものではありません。
「私は大理石の中に天使を見出し、彼を自由にするまで彫り続けるのだ」という彼の言葉通り、肉体から生命を解き放つような彫像、そして立体的な量感を誇る絵画は、今なお我々を圧倒します。
彼は決して、大衆が好むような「均整の取れた聖人君子」ではありませんでした。しかし、その生身の人間的歪みそのものが、結果として作品にただならぬ強度を与えていたこともまた事実なのです。
現代の「顔出し批判」を行う人々は、この「人格(作者)と作品の乖離(かいり)」を恐れるあまり、作者を完全に不可視化しようと試みます。
しかし、批判者たちの過ちは「顔を出す=容姿で売ろうとしている」という、あまりにも短絡的で表面的な思い込みにあります。
顔を出すということは、多くの場合、容姿を自慢したいわけではありません。
顔出し行為は、「どんな人間が、どういう想いでこの作品を作っているのか」という、作品の背景にある物語(ストーリー)を届けるための表現活動の一部なのです。
近代文学がかつて提唱した「作者の死」というドグマ(教義)は、SNSという新たな「場」の登場によって崩壊し、古い価値観になりつつあります。
逆に、SNSの登場によって生まれた価値観・風潮は「制作背景の可視化」です。
使用する画材は何か、このモチーフを選んだ理由は何か、あるいはご依頼によって制作したのか、など。そこに作家自身の紹介(顔出し)も含まれるのです。
言い換えれば「作品が生まれるプロセスや、作者の人間性、身体性をも含めた多層的な総合芸術」へとSNS時代の芸術は変化していきました。
「作者の死」から、「制作背景の可視化」へとアップデートされたのです。
今後、我々が必要なことは、作家の顔出しという一部に焦点を合わせ嫌悪感を抱いだいたり非難することではなく、より俯瞰した視点から、時代の変化、及び顔出し行為も作品づくりの背景の一部であると認識し、価値観を常にアップデートしていく姿勢ではないでしょうか。
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ここから先は、私が大学の講義でも伝えている、批判者の心理をさらに解剖した【『自分が正義』病】の構造と、テレビやYouTubeでも活動する夫(トルコ人シェフ)のSNS炎上対策から導き出した、理不尽な批判を完全に無力化するための具体的な切り返しを公開します。缶コーヒー2〜3本分の投資で、SNSのノイズからあなたの心と創作活動を守る知恵を受け取ってください。
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