第5回 34歳、無線機から携帯電話へ ── 「ポケベル開発の経験」が人生を運んでくれた奇跡の話
無線機開発の日々に、影が差してきたのは、バブルの余波だった。
最初に入社した会社の経営が、じわじわと傾いていった。やがてついに、倒産。ソフトウェア開発部門だけが、ある商社に引き受けてもらえることになった。
無線機一筋でやってきた私にとって、それは畑違いの世界への放り出しだった。
商社で出会った、8ビットマイコンとノイズとの戦い
異動先の商社は、偶然にも三菱マイコンの代理店だった。
任された基板には、ノイズ対策はひと通り施されていた。だが、使っているマイコンの耐圧が弱く、ノイズが乗るとRAMの値が壊れてしまう。原因を突き止めた私は、「壊れても自動的に復活する処理」をソフトウェア側に組み込むことで、この問題を乗り越えた。
ハードで対策しきれない弱点を、ソフトウェアで補う。
この経験は、今振り返っても大きな財産だと思っている。ノイズ耐性は、回路だけの問題じゃない。ソフトでも上げられる——そのことを、身をもって知った。
半年で退職、そして無線機の世界に舞い戻る
ただ、商社には半年ほどで区切りをつけることにした。
以前の会社で一緒に無線機を開発していたメンバーから「ぜひソフト開発をしてほしい」と声がかかったのだ。私は二つ返事で、再び無線機の世界に戻った。今度は4ビットマイコンでの開発だ。
古巣に近い場所に戻れたことは、正直うれしかった。
無線機の販売先は中国。深圳、広州、上海、香港、杭州、東莞。いろんな箇所へ開発した試作機を持って、現地のバイヤーに声を聞いこともある。まだ携帯電話は高価で30万円程度。無線機で携帯電話の代替をしていたので、無線機が売れていた。私にとって大きなハードルだったのは、10キーから入力した周波数を除算や掛け算をして、4ビットマイコンで計算して、EEPROMへ記憶して、PLLへ送出する処理。入社することも躊躇する大変な作業は計算できた。
あと当時は海外はまだ数字だけ表示するポケベルが売れていた。その開発を4ビットマイコンで対応する仕事もした。消費電力が問題になるので、無線機とはまた違う処理が必要だった。しかし、私は、お客様から修正依頼を最後受け、ミスをしたまま、マスク発注してしまい、工場に大迷惑をかけた。お客様にも大変怒られた記憶がある。マイコンの開発の難しさを経験した。
二度目の倒産、そして迫られた決断
だが、平穏は長くは続かなかった。
親会社の経営が悪化し、倒産。無線機開発を主体としていた子会社もまた、人員削減を迫られた。私は、残るか、去るかの決断を求められた。
当時、無線機は中国において、携帯電話を買えない人たちの代替品として使われていた。だが私は、この先は携帯電話が主流になっていくはずだと踏んでいた。ちょうどそのとき、携帯電話の会社が人材を募集していた。
私は応募することにした。
面接室で、目が変わった瞬間
面接に臨むと、面接官は私と同じチップを使ったポケットベルの開発経験を持つ人だった——ということが、話すうちにわかった。
面接官から、ポケットベルの開発経験について聞かれた。

私は、搭載していたチップについて話した。型番を口にした瞬間、面接官の目が変わった。
「この人は、本当に開発をしていた人間だ」
言葉にはならなかったが、そう思われたのだと感じた。面接官もまた、同じチップを使った開発経験を持つ人だったのだ。マイコンの型番、開発の苦労、業界特有の勘所——言葉少なに交わすだけで、通じ合うものがあった。
特別なことは何もしていない。聞かれたから、正直に答えただけだ。それが、運命を変えた。
そして、入社が決まった。
経験が、人生を助けてくれた。あの面接室での一瞬は、その後のキャリアを大きく変えた転機になった。
開発ではなく、試験マネジメントという新しい役割
ただ、任されたのは開発の仕事ではなかった。携帯電話の試験マネジメントという、これまでとは異なる役割だ。
正直、悩んだ。開発の現場から離れることになる。求められるスキルも、大きく変わる。それでも、携帯電話という新しい領域に関われるのなら、と自分に言い聞かせた。34歳のことだった。
初めての領域だから、今までの経験が本当に役立つのか。不安はあった。
だが私は、積み重ねてきたものをできる限り活かすことにした。ハードウェアチームがはんだ付けで困っていれば、迷わず手を貸した。新人時代、Z80のボードに向き合っていたあの経験が、ここで生きた。開発チームのデバッグボードの線材が切れて作業が止まったときも、さっと直してあげた。大したことではない、と私は思っていたが、ソフトウェア開発のメンバーからはずいぶん感謝された。
CDMA全盛期、Qualcommチップセットとの格闘
当時開発していた携帯電話は、CDMAが全盛の時代。Qualcommのチップセットを使い、ブラウザやメールといった機能をポーティングする作業が欠かせなかった。cdmaOneが始まったころ、2000年前後のことだ。

テストは難航した。だが苦労の分だけ、経験が積み上がった。
そして最終的に、携帯キャリアから許可をいただき、無事に端末を発売できた。あの瞬間の達成感は、今も忘れられない。
振り返って
倒産、商社への異動、退職、無線機への復帰、二度目の倒産、そして携帯電話業界への転身。
こうして並べると、目まぐるしい。だが、そのすべての場面で、私を助けてくれたのは、それ以前に積み重ねてきた経験だった。ノイズ対策の知見も、はんだ付けの手も、マイコンへの深い理解も——無駄になったものは一つもなかった。
面接官と交わした、同じチップを触っていたというたったひとつの共通点。型番を口にした瞬間に変わった、あの目。そんな小さな縁が、キャリアの大きな扉を開けることがある。
技術者の経験は、腐らない。どんな場所に放り込まれても、必ずどこかで出番が来る。34歳の私は、そのことをようやく、体で理解した気がした。
次回も、この続きを書いていきたい。
