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第7回 技術では勝っていた。だが、時代が早すぎた ── ゲーム100タイトル移植の栄光と挫折


古巣に戻っても、平穏は来なかった

携帯キャリアをリストラされ、私は携帯メーカーへ戻った。そこでも引き続き、ガラケーの開発を担当することになった。

だが、戻った先も安住の地ではなかった。社内には派閥があり、ある日突然、外国人が上司になった。英語ができない社員は、私を含め3名がその部署を追い出され、社内で自分の居場所を探すはめになった。

さらに、新しく異動した部署では上司が特定の社員にパワハラをしていた。その社員から「助けてほしい」と頼まれ、私は部署の代表として人事部へ相談に行った。誰かがやらなければならないことだった。とにかく、大変な日々だった。

3キャリアへのリリース、そして理不尽なリストラ

それでも、仕事はまっとうした。私はその会社で、3つのキャリアすべてに対して携帯電話をリリースできた。この経歴は、今でも私の誇りだ。大変だったが、間違いなくいい経験だった。

しかし、本部からの評価は低かった。30万台も売れたのに、である。そして、またリストラが始まった。

私の場合、パワハラ上司を人事部に相談したことがバレて、評価を下げられていた。だから、リストラ対象になるのは早かった。正しいことをしたつもりだったが、組織はそういうふうには動かない。運がない、としか言いようがなかった。

仕方ないので、会社を去ることにした。家のローンもある。結婚したばかりでもある。通信キャリアと携帯メーカーで連続のリストラ ── 正直、きつかった。それでも、歯を食いしばって仕事を探した。

業界は、想像以上に狭い

そこで見つけたのが、携帯電話のミドルウェアを開発している、勢いのある会社だった。

実は以前、その会社からプレゼンを受けたことがあり、先方も私のことを覚えていてくれた。業界というのは、想像以上に狭い。ちょうどミドルウェアの評価チームのリーダーを探していたところで、入社が決まった。開発職ではなかったが、仕事を選んでいる状況ではなかった。

ガラケー全盛、ミドルウェアの黄金時代

そのミドルウェアは、ガラケーで多くのメーカーに採用されていた。搭載モデルが販売されるたびにライセンス収入が入る仕組みだから、携帯電話が売れれば売れるほど、売上が伸びていく。当時は相当な売上があったはずだ。

会社は上場したばかりで、創業メンバーは裕福だった。私は途中入社だったので大きな恩恵はなかったが、上場を経験するとこうなるのか、と羨ましく思い、憧れもした。

仕事は忙しかった。部下はどんどん増え、最大で30名ほどになった。本社ビルには収まりきらず、別のビルにオフィスを借りてメンバーを管理した。会社の指示で、防火管理者の資格まで取得した。

Androidの登場で、すべてが変わった

しかし、会社の景気は、Android携帯の発売で一気に雲行きが変わる。

ガラケーは市場から消えていき、ミドルウェアの収入は、当たり前だが細っていった。業績は下がる。事業はなかなかうまくいかない。だが、この会社には開発力があった。そこで、ゲームのミドルウェアを活用した、新しいビジネス展開に打って出ることになった。

その技術の売りは、iOSで開発したゲームを、簡単にAndroidへ移植できることだった。

3Dでも表示ができた。裸眼3Dシステムも開発。当時は画期的だと思った。

当時、多くのゲームメーカーはiOS向けには開発するが、Android向けは数が出ないので作らない、というのが普通だった。しかも時代はGREEやDeNAのブラウザゲームが全盛期。ネイティブゲームは売れない、とされていた時代だ。

1年で100タイトル ── ゲーム移植の激闘

そんな中、あるインターネット会社と組んで、ゲームプラットフォームを開発する大きな事業に参画することになった。私は転籍し、この事業に身を投じることになる。

私の役割は、大手ゲーム会社各社からiOSのソースリストを預かり、Androidゲームへの移植と品質管理を行うこと。1年間で、およそ100タイトルのゲームを、ゲームプラットフォームとしてリリースした。

当時GPUが非力なAndroid端末で動作させるのは苦労した

これが、かなり大変な仕事だった。私にとってゲーム開発は初めての経験でもあった。

ゲームは、GPUとの性能バランスが命だ。特にシューティングゲームは、描画速度の遅い安価なGPUを積んだAndroid端末では、まともに動かないものがある。iOSに最適化されチューニングし尽くされたソースコードを、玉石混交のあらゆるAndroid端末で動くようにし、一流ゲームメーカー様の品質基準をクリアして許可をいただく ── その繰り返しは、本当に骨の折れる仕事だった。ありとあらゆるノウハウを駆使して、ゲームを仕上げていったのを覚えている。

東京ゲームショウでは、有名携帯メーカーがゲームに特化したAndroid端末を発表し、そのプリインストールソフトに私たちの移植した大手のゲームが選定されたこともあった。これもいい経験だった。

技術では勝っていた。だが、時代が早すぎた

しかし、この事業は、ブラウザゲーム全盛の壁を越えられなかった。

技術力では圧倒的に勝っていた。それは断言できる。だが、時代はまだ、ネイティブゲームを求めていなかった。

その後、パズドラやモンストが登場し、「ネイティブゲームでなければ売れない」時代が来る。私たちがやろうとしていたことは、間違っていなかった。ただ、早すぎたのだ。5年早すぎた。それが、悔しくてならない。

そして、また元の場所へ

事業は少しずつ縮小し、開発が一段落したころ、元の会社から「戻ってきてほしい」と言われた。

悩んだ。だが、戻れと言われて断る権利はなかった。私は以前の会社に戻り、Androidのシステム開発を統率する仕事に就いた。

──しかし、この仕事は、うまくいかなかった。

その話は、また次回に書きたいと思う。

振り返って

正しいことをして、評価を下げられた。技術で勝って、時代に負けた。

理不尽な話ばかりに見えるかもしれない。だが、この時期に得たものは大きかった。30名のマネジメント、100タイトルの品質管理、GPUと格闘したゲーム移植のノウハウ。どれも、その後の私を支える柱になっている。

そして、もうひとつ学んだことがある。技術の正しさと、事業の成功は、別物だということ。早すぎるイノベーションは、遅すぎるのと同じくらい、報われない。それでも挑戦した経験だけは、誰にも奪えない。

次回も、この続きを書いていきたい。


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