未解決事件簿|鬼死骸村のどこかで
この物語は、実在の土地・史跡を基にした
フィクションであり、神話であり、記録である。
一つの語りとしての記録である。
(鬼死骸村探検隊|実在する旧鬼死骸村を舞台にした物語)
<あらすじ>
鬼死骸村では、未解決事件が静かに積み重なっている。
豊吉の冤罪。七つ盛りが数えられた時期。大武丸の死。
県警による再調査が始まると、証言と記録が奇妙な一致を見せはじめる。
だが、どれも「確認されていない」で終わる。
理解に近づくほど、輪郭は崩れていく。
これは、接続と崩壊の狭間にある記録——
そして、あかりの夜間外出については、たぶん、問題ない。
序章:未解決事件一覧
未解決事件は、なぜか同じ形をしている。
本編において、明確な刑法上の事件は、確認されていない——はずである。
しかし、事件性が指摘されることの多い事項について、以下に現時点での整理を示す。
・豊吉の冤罪とされる件
当時の公式記録には瑕疵は見当たらないが、納得のいく説明も存在せず、確認されていない。
・響子のロードスターに施された一部改造
現行法に抵触する可能性は低いとされるが、技術的説明が困難であり、確認されていない。
・七つ盛りの数が確定した時期
最初に数えられた記録は、現在のところ存在しない。
・「鬼死骸村」という呼称が使用され始めた経緯
自然発生とされるが、裏付けはなく、経緯について、確認されていない。
・大武丸の殺害および死体遺棄
史料上、暴力的死の可能性は否定できないが、発生時期は不明であり、確認されていない。
仮に事件であったとしても、すでに公訴時効は成立している。
・沢渡および村人による鬼の目撃証言
当該村の「未確認生物の目撃に関する条例」においては、未確認生物を目撃した場合の報告義務は定められていない。従って、現行制度上の問題は、確認されていない。
・ケンジの就業規則違反に関する噂
ケンジは鬼死骸探検隊に所属し、調査活動を行っているが、これはあくまで個人的なボランティア活動であり、副業には該当しない。
また、探検隊の活動は、役場の就業規則に従い、すべて勤務時間外に行われている。
なお、これに反する事実は、確認されていない。
・あかりの未成年夜間外出に関して
村の青少年保護に関する条例では、原則として22時以降の外出は制限されているが、関係者の証言によれば、当該時刻までに帰宅している。
……はずである。
……たぶん。
……きっと。
……という理解で差し支えない。
よって、村の青少年保護に関する条例に反する事実は、確認されていない。
・あかりの歌唱および言動に関する噂
当該歌唱が村の騒音防止条例に抵触するとの指摘、また、彼女の言動が違法薬物の影響によるものではないかとの噂が一部に存在するが、そのような事実は一切、確認されていない。
・スーパーの女性の飲酒運転疑惑
当該女性は、退勤後、鬼死骸食堂での飲酒が日課となっているが、自転車をひいて帰宅しており、道路交通法に反する行為は行なっていない。
村の関係者の証言もある。
村の男性A「自転車をひいてるところ、見たことあるよ」
村の男性B「また来るかな」
よって、道路交通法に反する事実は、確認されていない。
・沢渡による名誉毀損の疑い
沢渡氏は、スーパーの女性に「何かを終えたあとの目に見えた」などと言ったが、決して、重大事件の犯罪者であるかのような疑いをかけた訳ではない。
よって、名誉毀損については、確認されていない。
・村の男性A・Bの騒音防止条例違反
村の男性A・Bは、毎晩、飲酒して大声で騒ぐなど近隣住民に迷惑をかけている疑いがある。しかし、彼らが飲酒する食堂の近隣には山林と田畑しかなく、迷惑行為を訴える者は誰もいない。
よって、騒音防止条例に反する事実は、確認されていない。
むしろ、大将の鍋の音の方がうるさい。
・駐在の収賄罪疑惑
駐在は、職務で鬼死骸食堂を訪れた際に、定食を出されたとのこと。
事実であれば、収賄罪の疑いがあるが、関係者の証言によれば、味噌汁の匂いだけ嗅いで帰ったとのことである。なお、その日は定休日であった。
よって、収賄罪に反する事実は、確認されていない。
・鬼死骸村 記録改竄疑惑
村の出来事を記録する人物が、事件性のある事象を意図的に矮小化、もしくは隠蔽する目的で記録を改竄しているのではないか、との指摘がある。
また村内では、「村で何か事件のような出来事が起きても、『翌朝も村はいつも通りだった』の一文で済まされる」という記述態度に対する不満の声も聞かれる。
関係者の証言によれば、
村の男性A「まあ、だいたい村はいつも通りだけどな」
村の男性B「でもな、そだよな。ま、そういうことなのか」
とのことである。
なお、現時点において、具体的な事件の存在自体は確認されていない。
そして、翌朝も村はいつも通りであった。
なお、翌朝の村の状況については、確認されていない。
・本編が編纂された理由
必要性は説明されているが、必然性は、確認されていない。
付記
なお、上記はいずれも事件として立件された事実はなく、本作はこれらの是非を判断する立場にはない。
ただし、読者が違和感を覚えることについて、本作は関与しない。
以上の件が、今回の調査対象となった。
理由は、明確ではない。
第一章:入口
鬼死骸村の集会場は、村の中央にある。
平屋の建物で、壁は白く塗られているが、ところどころ剥がれている。
午前九時。
扉が開く音がした。
映美が入ってくる。
鍵を開け、窓を開ける。
机を整え、椅子を並べる。
動きに無駄がない。
その日の予定を、黒板に書き出す。
文字は小さく、整っている。
しばらくして、入口に人影が現れた。
「すみません」
若い刑事だった。
映美は顔を上げる。
「はい」
「少し、お話よろしいですか」
映美は、黒板のチョークを置く。
「今、何かありました?」
刑事は一瞬、言葉を探す。
「いえ……その、確認というか」
映美はうなずく。
「どうぞ」
椅子を引く。
刑事は座る。
手帳を開く。
「最近、この辺りで何か……変わったこと、ありましたか」
映美は少し考える。
窓の外を見る。
七つ盛りの山が見える。
「特には」
間を置いて、付け加える。
「いつも通りです」
刑事はうなずく。
「そうですか」
ページをめくる。
「では、こちらですが」
一枚の紙を出す。
小さなメモ。
二小節の五線譜。
映美は、それを見る。
ほんの少しだけ、目が止まる。
しかしすぐに、表情は戻る。
「見覚え、ありますか」
映美は首をかしげる。
「……さあ」
紙から目を離す。
「誰かの落とし物じゃないですか」
刑事はメモを見直す。
「集会場で見つかったんです」
「そうなんですね」
映美は淡々と答える。
少しだけ、間がある。
刑事が言う。
「音楽、やられます?」
映美は、少しだけ間を置く。
「いいえ」
「まったく?」
映美は、窓の外を一度だけ見る。
「まったく」
刑事はうなずく。
メモをしまう。
「ありがとうございます」
立ち上がる。
映美も軽く会釈する。
刑事が出口に向かう。
その背中に、女性が言った。
「記録って」
刑事が振り返る。
「残ると思います?」
一瞬、沈黙があった。
刑事は少し笑う。
「仕事ですから」
映美はうなずく。
「そうですよね」
それ以上は何も言わなかった。
刑事が出ていったあと、映美はしばらく動かなかった。
やがて、机の端に手を伸ばす。
そこには何もない。
はずだった。
指先が、空をなぞる。
ほんの一瞬だけ、迷う。
それから、何もなかったように手を戻す。
黒板の前に立つ。
予定の続きを書く。
チョークの音だけが、部屋に残る。
第二章:拡散
鬼死骸村の駐在所は、村の入口にある。
その日、県警の車が二台、止まっていた。
珍しいことではない。
ただし、二台同時は、あまりない。
畑にいた男が言った。
「なんか来てるな」
別の男が答える。
「誰かやったか?」
笑いが起きる。
その程度の出来事だった。
駐在は、机の前に座っていた。
向かいには、県警の刑事が二人。
「確認なんですが」
「はい」
「村人から、酒を受け取ったことはありますか」
駐在は少し考える。
「ありますね」
刑事が顔を上げる。
「頻度は?」
「頻度……」
駐在は首をひねる。
「頻度ってほどじゃないですが」
少し考えて、言う。
「もらうときは、もらいます」
沈黙。
刑事が手帳に書く。
「対価は?」
「対価?」
「何か便宜を図ったりは」
駐在は考える。
「いや、別に」
間。
「でも」
刑事が顔を上げる。
「たまに、見逃すことはありますね」
「何をですか」
「細かいことです」
沈黙。
ペンの音だけがする。
同じころ。
鬼死骸食堂では、大将が腕を組んでいた。
「贈賄って何だ」
刑事が説明する。
「金品を渡して、便宜を図ってもらうことです」
大将はうなずく。
「酒は渡したな」
「理由は」
「来たからだ」
沈黙。
「なぜ渡したんですか」
「あるからだ」
沈黙。
「見返りは?」
「ないな」
少し考えて、付け足す。
「でも、遅くまでやっても、何も言われなかったな」
刑事が顔を上げる。
「遅くまで?」
「ああ」
「営業は何時までですか」
大将は天井を見る。
「決めてないな」
駐在所の机の上には、メモが並んでいた。
同じ内容のはずの聞き取り。
だが、微妙に違う。
「紙?」
最初の男は、首をかしげた。
「いや、見てねえな」
少し考えて、
「ああ……でも、なんか落ちてたかもしれんな」
その日の午後。
村の男性AとBが呼ばれた。
「昨晩、食堂にいましたね」
「いたな」
「何時までですか」
「遅くまでだな」
「何をしていたんですか」
二人は顔を見合わせる。
「話してたな」
「何の話ですか」
少し間がある。
Aが言う。
「薬の話だな」
刑事の手が止まる。
「薬?」
Bが慌てて言う。
「いや、違う違う」
「どう違うんですか」
「違うんだ」
「何がですか」
沈黙。
Aが言う。
「薬じゃない」
Bが強くうなずく。
「薬じゃない」
「では何ですか」
二人は黙る。
その沈黙が、長い。
その夜。
別の資料に、一行が追加された。
・薬物に関する可能性
翌日。
スーパーの女性が呼ばれた。
「薬、扱ってますよね」
女性はうなずく。
「扱ってます」
刑事が顔を上げる。
「どのような薬ですか」
「どのような、って」
女性は少し笑う。
「薬ですよ」
「具体的には」
「風邪薬とか」
沈黙。
「それ以外は?」
「それ以外?」
女性は首をかしげる。
「売ってませんよ」
刑事が資料を見る。
「“薬”という発言がありまして」
女性は少し考える。
「ああ」
「何ですか」
「うち、薬売ってますけど」
沈黙。
その頃、沢渡は呼び出されていた。
「私有地に入ったそうですね」
「入ったな」
「なぜですか」
「そこにあるからだ」
沈黙。
「許可は?」
「取ってないな」
「違法だと認識していますか」
沢渡は考える。
「どうだろうな」
間。
「山だからな」
刑事が顔を上げる。
「山でも私有地です」
沢渡はうなずく。
「そうかもしれないな」
「何をしていたんですか」
「調べてた」
「何を」
「大武丸」
沈黙。
刑事がゆっくり聞く。
「誰ですか」
「昔のやつだ」
「何を調べていたんですか」
沢渡は窓の外を見る。
七つ盛り。
「死体だな」
沈黙。
その夜。
別の資料に、さらに一行が追加された。
・過去の事件との関連の可能性
メモには、三つの時間が並ぶ。
前から。
昨日。
分からない。
駐在は、ペンを止める。
どれも、否定できない。
どれも、肯定できない。
「音は?」
「聞いてない」
「夜、鳴いてるだろ」
「いや、風だ」
「三回だ」
「二回じゃなかったか」
数が合わない。
駐在は、窓の外を見る。
昼。
静かだ。
メモに、書き足す。
「回数:不明」
そのとき、電話が鳴る。
県警からだった。
「五線譜の件ですが」
駐在は、視線を落とす。
机の上のコピー。
二小節。
「それ、誰のものですか」
「分かりません」
「現物は?」
「……今は、ありません」
間。
「さっきまで、あった気がするんですが」
電話の向こうで、沈黙。
「“気がする”とは?」
駐在は答えない。
「確認してください」
通話が切れる。
駐在は、机を見る。
何もない。
だが、ほんの少しだけ、
紙のあった場所だけが、“空いている”ように見える。
数日後。
呼ばれていない人間が、いなくなった。
村のほとんど全員が、一度は話を聞かれた。
誰かが言った。
「これ、全員じゃないか」
別の誰かが答えた。
「最初からそうだろ」
県警の会議室。
机の上に並ぶ資料。
酒。
深夜営業。
騒音。
薬。
不法侵入。
死体。
それぞれは小さい。
しかし並べると、違う形になる。
若い刑事が言う。
「これ、つながってないですよね」
沈黙。
上司が言う。
「つながるかもしれないだろ」
部屋は静かになる。
誰も否定しない。
第三章:収束
鬼死骸村の集会場は、相変わらず静かだった。
午前。
窓は開いている。
風が入る。
紙が一枚、わずかに揺れる。
映美は机に向かっていた。
書類を整える。
印を押す。
順番に重ねる。
その動きは、昨日と同じだった。
入口に、影が差す。
「失礼します」
昨日と同じ刑事だった。
映美は顔を上げる。
「どうぞ」
刑事は中に入る。
周囲を一度、見渡す。
机。
椅子。
黒板。
何も変わっていない。
「何か、分かりましたか」
映美が先に聞いた。
刑事は少し驚いた顔をする。
「いえ……まだ」
映美はうなずく。
「そうですか」
間。
刑事が言う。
「少し、追加で確認を」
「はい」
映美は手を止める。
完全に止まる。
刑事は手帳を開く。
「この集会場、普段どれくらい人が来ますか」
「日によります」
「多い日は」
「それなりに」
「少ない日は」
「少ないです」
沈黙。
刑事はうなずく。
「この机ですが」
机を指す。
「誰でも使えますか」
「はい」
「自由に?」
「はい」
「管理は?」
映美は少し考える。
「特には」
刑事は、別の紙を取り出す。
例のメモ。
二小節の五線譜。
机の上に置く。
「これですが」
映美は視線を落とす。
ほんのわずかに、呼吸が止まる。
しかし、それだけだった。
「見覚え、ありませんか」
映美は首をかしげる。
昨日と同じ角度。
「……さあ」
沈黙。
刑事は紙を指で押さえる。
「ここで見つかっています」
「そうなんですね」
「誰かが書いたものです」
「でしょうね」
「思い当たる人は?」
映美は少し考える。
窓の外を見る。
七つ盛り。
その視線が、少し長い。
「特には」
刑事はメモを裏返す。
何も書かれていない。
「音楽、やらないんですよね」
「ええ」
「本当に?」
映美は、ほんの少しだけ笑う。
「疑ってます?」
刑事は言葉に詰まる。
「いえ、そういうわけでは」
映美はうなずく。
「やりませんよ」
間。
「昔は?」
刑事の口から、予定にない言葉が出る。
映美は、少し考える。
本当に、少しだけ。
「……どうでしょうね」
それだけ言う。
沈黙。
部屋の中で、風が動く。
机の端に置かれた紙が、わずかにずれる。
刑事の視線がそこに向く。
白い紙。
何も書かれていない。
ただ、端が少し折れている。
まるで、一度丸められたように。
刑事が手を伸ばす。
その瞬間。
映美が言う。
「それ、ただの紙ですよ」
刑事の手が止まる。
「何ですか」
「いえ、触らなくていいかと思って」
少し笑う。
「散らかってて」
刑事は紙を手に取る。
開く。
何も書かれていない。
「メモですか」
「ただの紙です」
映美は答える。
迷いがない。
刑事はその紙を見ている。
そして、机の上の五線譜を見る。
二つの紙。
似ている。
大きさも、折り方も。
「これと、同じですね」
女性は答えない。
窓の外を見ている。
七つ盛り。
風が少し強くなる。
刑事が言う。
「このメモ、誰かがここで書いた可能性が高いです」
映美はうなずく。
「そうでしょうね」
「そして、その人物は——」
言いかけて、止まる。
映美が、ゆっくりとこちらを見る。
視線が合う。
逃げ場がない。
「——この場所に、よくいる人間です」
沈黙。
映美は、何も言わない。
ただ、見ている。
そのとき。
外から、声が聞こえた。
「開いてるかー?」
村の老人だった。
映美は視線を外す。
「どうぞー」
老人が入ってくる。
刑事を見る。
「ああ、警察の人か」
映美は立ち上がる。
「今日は何ですか」
「集会の予約な」
いつもの会話。
いつもの空気。
刑事だけが、取り残される。
数分後。
刑事は集会場を出た。
手帳には、こう書かれていた。
・集会場スタッフ
関与の可能性あり
鬼死骸村の中で、初めて、線が引かれた。
集会場には、人が集まっていた。
いつもの顔。
いつもの距離。
机の上に、紙がある。
丸まっている。
誰も触れない。
「それ、誰のだ」
誰も答えない。
「さっきからあったぞ」
「いや、今置いたんじゃないのか」
「誰が」
沈黙。
映美が、紙を見る。
ほんの一瞬だけ。
視線を外す。
別の男が言う。
「見たことある気がするな」
「どこで」
「いや……分からん」
笑いが、少しだけ起きる。
「こういうのはな、似たようなのがあるから」
誰かがうなずく。
映美は、何も言わない。
そのとき、外で音がする。
小さな音。
全員が、少しだけ顔を上げる。
「今の、何だ」
「風だろ」
「いや、違うな」
「二回だな」
「一回しか聞こえなかった」
また、数がずれる。
誰も確かめに行かない。
しばらくして、映美が立ち上がる。
紙に近づく。
拾う。
開く。
二小節。
指で、軽くなぞる。
誰かが言う。
「読めるのか」
映美は答える。
「いえ」
紙を、軽く叩く。
「でも、どこかで見たことがある気がしますね」
その言い方が、さっきの男と、少しだけ似ている。
映美は、紙を丸める。
少し考える。
ゴミ箱を見る。
入れない。
ポケットに入れる。
その動きを、誰も止めない。
第四章:接続
夕方。
村のあちこちで、同じ話がされている。
「もう全員、呼ばれたらしい」
「いや、まだ一人いたはずだ」
人数は合わない。
名前も出ない。
「誰だっけ」
誰も答えない。
鬼死骸食堂。
「線は、全部つながってる」
誰かが言う。
大将は何も言わない。
包丁の音が続く。
駐在所。
机の上は空だ。
あった気がするものは、ない。
電話は鳴らない。
受話器は、少しだけずれている。
沢渡は立っている。
「つながっている、ように見えるだけだ」
誰に言うでもない。
夜。
村は暗い。
灯りは点いているが、光は広がらない。
翌朝、鬼死骸村では。
映美が、沢渡と歩いていた。
山の道。
落ち葉が踏まれる音。
沢渡が言う。
「警察、来てるな」
映美はうなずく。
「来てますね」
「何か聞かれたか」
「いろいろ」
「何て答えた」
映美は少し考える。
「普通に。でも」
少し前を歩く。
「面白かったですよ」
沢渡は、少し遅れる。
「面白い?」
「ああいう人たち、どう見てるんだろうって」
少しだけ前を歩く。
道の途中で、女性が立ち止まる。
地面を見る。
何かを見つけたような顔。
しゃがむ。
指で土を払う。
小さな紙片。
丸められている。
それを開く。
二小節。
同じ五線譜。
(前と同じかは、分からない)
沢渡が覗き込む。
「何だそれ」
映美は紙を見る。
ほんの少しだけ、長く。
「さあ」
そう言って、立ち上がる。
紙を軽く叩く。
「誰かのだね」
ポケットに入れる。
沢渡が言う。
「捨てないのか」
映美は歩き出す。
「どうせまた落ちてるから」
と、映美は言った。
沢渡は、少しだけ振り返った。
その言葉の意味を、沢渡は考えなかった。
県警本部 鬼死骸村未解決事件 調書一覧
以下は、県警本部に残された記録の一部とされる。
No.01
日時:○月○日(午前)
対象者:女性(集会場勤務)
内容:当該紙片を「誰かの落とし物じゃないですか」と発言
音楽の経験はないと証言
備考:記録に残ることを気にしていた。引き続き要監視
No.02
日時:不明(午前)
対象者:不明
内容:呼集の有無について言及。「揺らした」とも発言
備考:対象人数の一致を確認できず
No.03
日時:○月○日(午前)
対象者:警察官(駐在所勤務)
内容:個人的に酒を受け取ったと証言
備考:職務との関係、および便宜については不明
No.04
日時:○月○日
対象者:男性B
内容:紙片について「誰かが持っていた」と証言
備考:当該人物の特定に至らず(存在確認できず)
No.06
日時:不明(午後)
対象者:男性(食堂経営)
内容:「酒は渡したな」と証言
理由は、来たから(呼んではいない)
便宜については不明
備考:深夜営業の件は、「決めてないな」と発言
No.07
日時:不明(午後)
対象者:男性A
内容:夜間、食堂にいたことは認める
薬物については不明、しかし、関与の可能性はある
備考:後半より、黙秘権の行使
No.08
日時:不明
対象者:男性
内容:スーパー勤務女性に関する過去の言及あり
備考:関連性不明
No.10
日時:不明(午後)
対象者:男性B
内容:薬物について強く否定するが、関与の可能性はある
備考:途中より、黙秘権の行使
No.11
日時:○月○日
対象者:女性
内容:薬物について「ええ、ずっと前」と証言
備考:中毒症状の可能性も考慮して対応すること
No.12
日時:○月△日
対象者:不明
内容:写真内の人物に関する証言
写真の前では、特定の人物が決まって「美人」と言う証言
組織の隠語の可能性あり、要捜査
備考:当該写真の所在確認できず(存在確認できず)
No.13
日時:○月○日
対象者:女性(スーパー勤務)
内容:薬物を扱ったことは認める。風邪薬だと言い張る
当該紙片を「いつでも見られる状態」と証言。「いつでも」の定義不明
備考:照合対象の定義不明
No.14
日時:○月○日
対象者:男性(職業不詳)
内容:紙片について「そうだ。昨日、初めて見た」と証言
また、「あれは、わしが書いたものじゃ」とも証言。証言が一致せず
備考:目撃の状況については、不明
No.15
日時:未記載
対象者:複数
内容:呼集の有無についての認識不一致
備考:対象人数不明(前項と一致せず)
No.16
日時:○月○日
対象者:男性(自称:探検隊長)
内容:私有地の不法侵入について認める。違法行為と認識してない
備考:場所・時間の特定不可
「大武丸」「死体だな」との証言があり、殺人事件に関与している疑いあり
また、豊吉の冤罪事件の関与についても捜査すること
No.17
日時:不明
対象者:不明
内容:当該紙片とは別件の可能性
備考:同一案件として処理されている
No.18
日時:不明(午前)
対象者:女性(集会場勤務)
内容:当該紙片に見覚えあるかの問いに「……さあ」と発言
備考:何か隠蔽してる可能性あり(前項と一致せず)
職場の勤務状況については、極めて良好、不審点無し
No.19
日時:同上
対象者:同上
内容:上記内容を否定
備考:理由の記録なし
No.20
日時:○月○日
対象者:男性C(農家)
内容:上記内容を否定
関係者の証言によると、「明日は来るかな」と言ったらしい
備考:取引日時の会話の可能性あり
No.21
日時:○月○日
対象者:女性(スーパー勤務)
内容:深夜の飲酒運転について、「自転車はひいて歩いて帰宅した」と証言
備考:「歩いていた」「明日も来るかな」などの目撃証言あり。
No.23
日時:○月○日
対象者:男性(役場勤務)
内容:私有地の不法侵入について認める
同行者に強制させられたと証言
備考:役場の出勤記録を調査すること
No.24
日時:○月○日
対象者:女性(自称:研究者)
内容:道路運送車両法および道路交通法に基づく不正改造の件、
事情聴取中に、「ロータリー」と言う言葉を発言
「それ、説明の難しいやつ」と証言。今後、黙秘権行使の可能性あり
備考:所有する車両に関して、エンジン周りを重点的に調査すること
また、過去の危険運転の犯罪歴を要調査
No.25
日時:数日後
対象者:不明
内容:未呼集者の消失を示唆
備考:当該人物の特定に至らず(存在確認できず)
No.26
日時:○月○日
対象者:少女A
内容:未成年夜間外出については、保護者同伴だと証言
薬物の使用については、強く否定する
夜間の騒音については「夜、唄ったかもしれない」と証言し、一部認める
備考:児童相談所、および保護者への通知
No.32
日時:不明
対象者:坂上田村麻呂
内容:大武丸の殺害、および死体遺棄に関する事件、被疑者死亡
備考:本記録の作成者不明
No.33
日時:不明
対象者:豊吉
内容:豊吉による強盗殺人の冤罪の件、証拠不十分(存在確認できず)
備考:本記録の作成者不明
——以上、抜粋
第五章:静けさ
朝。
鬼死骸村は、いつも通りだった。
霧が、低く流れている。
山の輪郭が、やわらかく溶けている。
音は、ほとんどない。
遠くで、軽トラックが一度だけ通る。
それきり、何も続かない。
集会場。
扉は開いている。
中では、机が並べられている。
昨日と同じ位置。
椅子も同じ。
黒板には、何も書かれていない。
消した跡だけが、うっすら残っている。
映美は、ほうきを持っていた。
床を掃く。
紙くずは、ほとんどない。
それでも、掃く。
同じ場所を、もう一度。
隅に、小さな紙がある。
一通り掃き終わってから、近づく。
しゃがむ。
指でつまむ。
丸まっている。
開く。
二小節。
映美は、それを見ている。
ほんの少しだけ、長く。
昨日と同じくらいの時間。
もしくは、違うかもしれない。
足音。
外から、人が来る。
女性は、紙を折る。
ポケットに入れる。
振り返る。
入ってきたのは、年配の男だった。
「ああ、やってるね」
「ええ」
「警察、また来てるらしいな」
「そうみたいですね」
男は、椅子に座る。
少しして、言う。
「昨日の紙な」
映美は答えない。
男が続ける。
「見たことある気がするんだよ」
間。
「昔、どこかで」
映美は、ほうきを立てかける。
「そうですか」
それだけ。
男は笑う。
「いや、気のせいだな」
立ち上がる。
「こういうのはな、似たようなのがいっぱいあるから」
映美はうなずく。
「そうですね」
男は出ていく。
扉が閉まる。
音が、すぐに消える。
映美は、ポケットに手を入れる。
紙を取り出す。
開く。
二小節。
指で、空中をなぞる。
音は出ない。
でも、何かを確かめるように。
しばらくして、紙を折る。
今度は、机の上に置く。
少し考える。
裏返す。
そのままにする。
外では、霧が少しだけ薄くなっている。
山の形が、少しだけはっきりする。
でも、すぐに戻る。
県警の車が、一台、村に入る。
ゆっくり。
音を立てないように。
誰も、それを見ていない。
もしくは、見ても気にしない。
集会場の机の上。
裏返された紙。
誰も触れない。
その裏には、何も書かれていない。
少なくとも、今は。
夜は深い。
村は静かだ。
沢渡は歩いている。
どこへ向かっているのか、自分でも分からない。
足は止まらない。
「呼ばれたのか」
声がする。
振り向いても、誰もいない。
「呼ばれていないのか」
別の声。
同じ場所から聞こえる。
沢渡は、何も答えない。
頭の中で、線がつながる。
食堂。
集会場。
駐在所。
会議室。
人物。
証言。
時間。
すべてが、一つの形になる。
「そういうことか」
どこかで、聞いたことがある。
そんな気がした。
思い出せそうで、思い出せない。
その瞬間。
自分で否定する。
線は、まだつながっている。
だが、
何をつないでいるのかが、分からない。
遠くで、音がする。
一回。
間。
二回。
三回目は、鳴らない。
第六章:増幅
県警本部。
解析室の空気は、張りつめていた。
画面には、五線譜。
二小節。
ただの記号。
だが、それを前に、人間は沈黙している。
「音に起こしました」
音響分析官が言う。
スピーカーから、短い旋律が流れる。
数秒。
それで終わる。
誰かが言う。
「……短いな」
別の誰かが言う。
「短すぎる」
分析官はうなずく。
「はい。ただ——」
間。
「繰り返しを前提とすると、意味が変わります」
再生。
今度は、何度も繰り返される。
同じ二小節。
何度も。
空気が、少し変わる。
最初はただの音だったものが、だんだん“意図”を持ち始める。
若い刑事が言う。
「これ、歌だな」
別の刑事が首を振る。
「いや、違う」
「信号だ」
沈黙。
別の部署。
同じ音が、別の形で解析されていた。
「周波数パターンに、規則があります」
「どんな」
「一定の間隔で、強調される音がある」
「モールス信号に近い」
「……七つ盛りだな」
紙に変換された記号。
・-・ -- ・
意味を当てはめようとする。
英字。
数字。
座標。
誰かが言う。
「場所を示してる可能性は?」
地図が広げられる。
鬼死骸村。
山。
川。
集会場。
食堂。
点が打たれる。
仮の点。
でも、一度打たれると、そこは“意味を持つ”。
「ここか?」
「いや、こっちだ」
「この間隔なら——」
線が引かれる。
また線。
また線。
別の会議室。
「これは歌です」
音楽担当の外部協力者が言う。
「旋律として成立しています」
「どんな歌だ」
「民謡に近い構造です」
「つまり?」
「地域固有の音階の可能性があります」
誰かが言う。
「鬼死骸村の、固有の音?」
別の資料が出る。
録音。
環境音。
風。
水。
鳥。
「一致します」
「何と」
「完全ではありませんが、パターンが近い」
誰かが小さく笑う。
「村そのものが、歌ってるってか」
誰も、何も言わない。
さらに別の仮説。
「これはトリガーです」
「トリガー?」
「特定の対象に、反応を起こさせる」
「対象とは」
間。
「七つ盛り」
空気が、重くなる。
「音で、鳴かせる?」
「可能性としては」
誰かが言う。
「動物実験か何かか」
「あるいは——」
言葉が止まる。
「人間」
沈黙。
同じ頃。
鬼死骸村。
沢渡は、山の方を見ていた。
風はない。
音もない。
隣に、映美がいる。
沢渡が言う。
「変な話になってるな」
映美は答える。
「そうですね」
「音で、何かを動かすってよ」
映美は少し考える。
「ありますよね、そういうの」
「あるか?」
「ほら、チャイムで動くとか」
沢渡は笑う。
「それは犬だ」
映美は首をかしげる。
「人間も、似たようなものじゃないですか」
沢渡は、何も言わない。
少しして、女性がポケットに手を入れる。
紙を出す。
開く。
沢渡が見る。
「それ、何回目だ」
映美は答えない。
指でなぞる。
空中に、音を描く。
そのとき。
遠くで、音がした。
小さな音。
沢渡が顔を上げる。
「今の、何だ」
映美は、紙を見たまま言う。
「さあ」
間を置いて、もう一度。
同じかどうかは、分からない。
風ではない。
動物でもない。
間を置いて、三回目。
沢渡が言う。
「……鳴いたな」
映美は、ゆっくり紙を折る。
「そうですね」
県警本部。
報告が上がる。
「現地で、音の発生を確認」
会議室がざわつく。
「タイミングは」
「五線譜の再生と、近い時間帯です」
「繋がったな」
誰かがそう言った気がした。
その言葉が、決定的だった。
線が、完全に閉じる。
駐在。
食堂。
薬。
侵入。
伝承。
音。
五線譜。
すべてが、一つになる。
「これは、偶然じゃない」
誰も、もう疑わない。
「結論として」
一人が言う。
「線は、全部つながっている」
それが、正しい形かどうかは別として。
別の誰かが、少し言い換える。
「関係性は、成立しています」
頷き。
「ただ——」
誰かが言う。
全員がそちらを見る。
「何を説明しているのかが、分からない」
沈黙。
誰も否定しない。
鬼死骸村。
沢渡が言う。
「何もない村じゃなかったな」
映美は、少しだけ笑う。
「最初から、何もないとは言ってませんよ」
その言葉の意味を、沢渡は考えない。
空は、変わらない。
山も、動かない。
世界はすでに、手遅れなほど満ちている。
第七章:崩壊
朝。
県警本部。
会議室には、まだ資料が並んでいる。
線は消えていない。
むしろ、昨日より増えている。
完璧な構造。
誰もが、一度は納得した構造。
若い分析官が、資料を見ている。
じっと。
長く。
「……これ」
小さな声。
誰も反応しない。
「この音なんですが」
少しだけ、声が大きくなる。
「再現できません」
沈黙。
「いや、これは再現できるはずだ」
「同じ条件で再生しても、現地で報告された音が出ません」
空気が止まる。
「誤差じゃないのか」
「誤差の範囲を超えています」
別の資料がめくられる。
現地報告。
時間。
位置。
条件。
「一致しません」
誰かが言う。
「……偶然か?」
「いや、それでも——」
誰も、すぐに肯定しない。
別の部署。
「この座標ですが」
地図を指す。
「何もありません」
「何も?」
「はい。調査しましたが、地形的にも不自然です」
「じゃあ、この点は?」
「仮定です」
「この線は?」
「仮定です」
「……いや。違うな」
静かに、線が消えていく。
別の会議室。
「民謡の件ですが」
「どうだった」
「一致しません」
「近いと言ってなかったか」
「“近いように聞こえる”だけでした」
言葉が、少しだけ軽くなる。
さらに別の報告。
「薬の件ですが」
「何か出たか」
「通常の市販薬です」
「違法性は?」
「確認できません」
「じゃあ、会話は?」
「文脈が不明です」
沈黙。
一つずつ、崩れる。
音もなく。
机の上の五線譜。
二小節。
誰かが言う。
「……これ、どこから出てきた?」
誰も答えない。
最初から、答えはなかった。
県警本部。
資料が、箱に入れられていく。
五線譜のコピー。
「これ、どうします?」
上司が言う。
「保留だ」
「理由は?」
少し考える。
「分からないからだ」
それが、最後の記録になる。
朝。村は、いつも通りだ。
集会場。
机は整っている。
紙は揃っている。
机の上には、何もない。
映美が、ほうきを動かしている。
同じ動き。
同じ場所。
床には、何も落ちていない。
一度、止まる。
何かを探すように、視線だけが動く。
でも、見つからない。
再び、掃く。
外。
風が、少しだけ吹く。
音がする。
ただの風の音。
沢渡が、外に出る。
耳をすます。
何もない。
「……」
振り返ると、映美が立っている。
「今、何か聞こえました?」
沢渡は答える。
「いや」
映美は、少しだけ笑う。
「そうですか」
間。
映美が、ポケットに手を入れる。
何もない。
少しだけ、首をかしげる。
「……あれ」
でも、それ以上は何も言わない。
手を出す。
空っぽ。
そのまま、下ろす。
沢渡は、それを見ていない。
空は、昨日と同じ。
山も、同じ。
村も、同じ。
ただ、何かが“あった気がする”だけが残る。
駐在所。
机の上は空だ。
電話は鳴らない。
鬼死骸食堂。
暖簾が揺れる。
「いらっしゃい」
声がする。
沢渡は座る。
湯気が上がる。
匂いがある。
「紙のこと、分かりました?」
誰かが聞く。
沢渡は、少し考える。
「最初から、なかったのかもしれない」
沈黙。
「でも」
誰かが言う。
「見たよな」
頷きがある。
「じゃあ、あれは何だったんだ」
誰も答えない。
壁の隅。
何もない場所。
しばらくして、
誰かが言う。
「記録って、残ると思います?」
誰も答えない。
湯気が、ゆっくり消える。
音は、しない。
何もなかったような気がして、
誰も、その先は言わない。
終章:鬼死骸食堂
夕暮れ。
山の影が、村の屋根をゆっくり飲み込んでいく。
沢渡は、いつものように暖簾をくぐった。
「いらっしゃい」
娘の声は軽い。
油と出汁の匂い。
少し焦げた醤油の気配。
どれも、変わらない。
カウンターに座る。
手を置く。
木の感触。
前と同じ。
店の奥に、客が一人いる。
女性。
背中だけが見える。
沢渡は、少しだけ視線を向ける。
それだけで、やめる。
「今日は、静かだな」
娘が答える。
「いつも通りですよ」
沢渡は、少し笑う。
「そうかもな」
しばらくして、女性が立ち上がる。
カウンターに来る。
沢渡の隣。
「定食、お願いします」
映美の声は、普通だった。
特別な響きはない。
どこにでもある声。
娘がうなずく。
「はい」
映美は、席に座る。
少しだけ、間がある。
ふと、上着のポケットに手を入れる。
何かに触れる。
取り出す。
小さなメモ。
丸めた紙。
広げる。
二小節。
五線譜。
映美は、それを見ている。
長くもなく、短くもない時間。
沢渡が声をかける。
「どうかしましたか」
映美は、少し首をかしげる。
「……いえ」
紙を指で軽く叩く。
「誰のだろうね」
少し笑う。
「これ、誰のだろうね」
沢渡は、その紙を見る。
ただの線。
ただの点。
でも、目を離さない。
ほんの少しだけ。
「落ちてたのか」
映美は答える。
「ええ」
間。
「よく、落ちてますよ」
沢渡は、何も言わない。
娘が、定食を置く。
湯気が上がる。
まっすぐ。
揺れない。
映美は、紙をポケットに戻す。
何事もなかったように、箸を取る。
沢渡も、箸を取る。
同じ動き。
同じ時間。
店の外で、何かが鳴いた。
小さな音。
沢渡は、顔を上げる。
映美は、上げない。
娘も、何も言わない。
もう一度。
同じ音。
沢渡は、耳をすます。
風かもしれない。
動物かもしれない。
三度目は、来ない。
「……今の、聞こえたか」
娘は首をかしげる。
「何がですか」
映美は、何も言わない。
味噌汁を飲む。
湯気が、少しだけ揺れる。
沢渡は、もう一度だけ外を見る。
何もない。
山があるだけ。
店の中に戻る。
食べる。
味は、同じ。
同じかどうかは、分からない。
でも、違うとも言えない。
しばらくして、映美が席を立つ。
「ごちそうさまでした」
娘が答える。
「ありがとうございました」
映美は、店を出る。
暖簾が、少しだけ揺れる。
風は、ほとんどない。
沢渡は、その揺れを見ている。
ほんの少しだけ。
視線を戻す。
カウンターの上。
何もない。
さっきまで、何かがあった気がする。
でも、思い出せない。
沢渡は、箸を置く。
「……さっきの人」
娘が顔を上げる。
「はい」
沢渡は、言葉を探す。
「いや、なんでもない」
娘はうなずく。
それ以上、何も聞かない。
外は、もう暗い。
山は見えない。
音もない。
鬼死骸村は、いつも通りだった。
ただ、
何かが“あった気がする”だけが、どこにも残らずに残っている。
この物語は、実在する岩手県一関市・旧鬼死骸村を舞台にした、
記録・神話・現代が織りなす物語の一編です。
この村には、フィクションでは作れない地形と歴史があります。
鬼死骸村の全体像は、【鬼死骸村探検隊】(ポータルページ)にて。
地図・動画・神話・怪異記録が重なっています。
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