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鬼死骸|さくらの

この物語は、実在の土地・史跡を基にした
フィクションであり、神話であり、記録である。
一つの語りとしての記録である。
(鬼死骸村探検隊|実在する旧鬼死骸村を舞台にした物語)


<あらすじ>
集会場の壁に掲示された絵図に、描かれていないものがある。
処刑場がない。蝦夷塚がない。あるのに、ない。
沢渡たちは、その欠落を手がかりに、この土地の時間を遡り始める。
江戸、戦国、平安、そして文字のない時代へ。
残るものと、消えたもの。描かれたものと、描かれなかったもの。
上書きされた層を一枚ずつ剥いでいくと、最後に残るのは——
地形と、水と、消えた名前だけだった。

本編:約4,700文字


絵図

集会場の会議室。
壁に、古い絵図が掲示してある。

鬼死骸村絵図。
1818年のもの。

紙はわずかに波打ち、
蛍光灯の光を鈍く反射している。

映美は、その前を通り過ぎる。

いつも通り、視線は止まらない。
——その日だけ、違った。

沢渡が、立っている。
動かない。
見ているのに、見ていないように。

「先生、何か見えましたか」

沢渡の返事はない。

中央を指す。
「鬼石が、真ん中にある」
「ずれてない」

映美は足を止める。
一歩、近づく。

絵図に小さく描かれた、巨石。

「測量したわけじゃないから、正確ではないと思いますが」

「それは分かってる」
沢渡の声は低い。

「描いた人間にとって、ここが中心だった」

沈黙。

蛍光灯の音だけが、かすかに鳴る。

視線を滑らせる。

神社。
寺院。
屋敷。
街道。
一里塚。
古舘。
湧水。
全部、ある。

——何かが、足りない。

そのとき、沢渡が言った。
「処刑場が、ない」

「……ない」
映美は絵図を改めて見た。

橋田原処刑場が、ない。
「豊吉が処刑されて、33年後ですよね。場所を知らないわけがない」

「でも、描かれていない」

「それと——」
沢渡は別の箇所を指した。
「蝦夷塚がない。でも、蝦夷塚御林はある」

林は、ある。
塚は、ない。

「描けなかったのか、描かなかったのか」
と映美は言った。

誰も答えない。

絵図は、答えない。


外。

夕方。
集会場の壁の外側。

薄暗い。

あかりが、立っている。
壁に背を向けて。

沢渡が出てくる。

足音で、あかりが振り返る。

「何をしている」

「ここ」
短い返事。

沢渡は、壁を見る。
そこに、絵図。

「何を」

あかりは、少し考える。
すぐには答えない。

風が吹く。

「ここ、好きで」

沢渡は、視線をずらす。

あかりの立っている位置。

鬼石の位置。
——同じだった。

何も言わない。


水音。

ぽたり、と落ちる。

岩の隙間。
透明な水が、静かに湧いている。

手が、触れる。
冷たい。

口に運ぶ。

音はない。
風もない。

ただ、水だけがある。

名前も、ない。

それでも、ここに来る。

水があるから。


石が消えた

三人は要害城跡の近くを歩いていた。

映美が、大正時代の記録を持ってきていた。
「明治の頃まで、大きな石が多数あったと書いてあります」

「今は」
ケンジが周囲を見渡した。
「ないですね」

「移動されたようです。重宝されて、どこかへ」

「重宝って、石を?」

「土台、石垣、道普請——明治には石が要る」
沢渡が言った。
「この辺の石が、どこかの建物の中にあるかもしれない」

「どこかの、って」
ケンジは少し考えた。
「名前も変わって、どこにいるか分からないですね」

誰も返事をしなかった。

鬼石だけが、残っている。
動かなかった。

「なぜ鬼石だけが残ったんでしょう」
映美が言った。

「大きすぎて動かせなかったのか」
沢渡が言った。

「それとも」
と映美が続けた。
「鬼の死骸を封じた石、という伝説が——人を遠ざけたのか」

ケンジが言った。
「怖い話にしておいたから、残った」

「皮肉ですね」
と映美が言った。

「皮肉かな」
ケンジは、特に深刻な顔をしていなかった。
「守られた、ってことじゃないですか」

誰も、否定しなかった。


運ばれた石は、どこかにある。

土台になり、
石垣になり、
別の名を持ち、
別の場所に。

残ったのは、一つだけだ。

動かなかった。


帰り道。
あかりがいた。

道の端に、小さな石が一つ。

それを拾って、また置いた。

「どこかから来た石かな」
と映美が言った。

「ここにいた石です」

「ここの石?」

「なんとなく」
それだけだった。

あかりは、また歩き始めた。

沢渡は石を見た。

石は、ただの石。

でも、しばらく、動けなかった。


描かなかった

食堂の昼過ぎは、いつも静かだ。

カウンターに三人が並ぶ。
湯気が立っている。
大将が奥で何かをかき混ぜる音だけが、続いている。

「処刑場を描かなかった理由」
ケンジが、湯のみを持ったまま言った。
「単純に、描く必要がなかっただけじゃないですか」

沢渡は、湯のみを口に運んだ。
それから、置いた。

「絵図の目的が何かによる。
村の全体を記録するためなら、処刑場も描くはずだ」

「目的が違ったんですかね」

映美が、静かに言った。
「描けなかった、という可能性もあります」

「描けなかったと、描かなかったと——どう違うんですか」

沢渡は、少し考えた。

「描かないのは、選択だ。意思がある」
それから続けた。
「描けないのは——そうさせられている。ということになる」

食堂の音が続いた。
鍋の音。
遠くで、誰かが笑った。

「蝦夷塚も、同じですか」
ケンジが聞いた。

「林は描いた。塚は描かなかった」
沢渡が言った。
「描いた人間は、林の中に何があるか、知っていたはずだ」

映美は、湯のみを両手で包んだ。
「描いてはいけないものが、あったのかもしれない。それとも——」

言葉が止まった。

窓の外で、風が動いた。

しばらく、誰も話さなかった。

やがて、ケンジが言った。
湯のみを見たまま、静かに。

「どっちにしても」

少し間を置いた。

「描かれなかったものが、ある。それは確かですよね」

誰も答えなかった。

答えなくて、よかった。

それで、十分だった。

窓の外で、乾いた風が吹いた。


筆を持つ。

紙の上。

神社。
屋敷。
街道。

描く。

手が止まる。

その場所を、知っている。

触れない。

筆は、次へ進む。


水の話

三人で、現地を歩いた。

鹿島神社の近く。
江戸時代の記録に「金魚水」「的場清水」と記されていた場所のあたり。

今は、何もない。

圃場整備と道路工事で、地表の様子は大きく変わっている。
湧水の気配はない。

ケンジが地面を踏んだ。
乾いた、鈍い音がした。

「埋まってるんですかね。水が」

「流れが変わったか、塞がれたか」
沢渡が言った。

しゃがんで、手を地面に当てた。
冷たくはない。

遠くで、水の音がした。
川の音。

「水って、なくなりませんよね」
映美が言った。
「流れが変わるだけで」

沢渡は立ち上がった。
足元の地面を見たまま、少し考えた。

「水が、最初だったかもしれない」

「最初?」
ケンジが聞いた。

「この場所の、一番古いものが水だとすれば」

ケンジは少し考えてから言った。
「じゃあ、鬼とか蝦夷とか、そういう話じゃなくて」

「そういう話じゃないかもしれない」

「ただ、水が良かっただけ」

誰も否定しなかった。
でも誰も、それだけだとも言わなかった。

川の音が、また聞こえた。


南から、人が来る。

水を飲む。
石を踏む。

塚の前で、少しだけ速度が落ちる。

それだけで、通り過ぎる。

水は、また静かになる。


塚の下

蝦夷塚の前に、三人は立っていた。

風が草を揺らしている。
塚は、静かにそこにある。

「財宝、本当にあるんかな」
ケンジが言った。

「あったとしても、もうないと思う」
沢渡が言った。
「四百年経てば、誰かが見つけている」

「じゃあ、なぜ蝦夷塚に隠したんですか」

映美が、塚を見たまま答えた。
「塚に近づきたくない、という気持ちを利用したんじゃないですか。
死者が眠っている場所は、掘り返されにくい」

「恐怖を、盾にした」

「でも」
映美は続けた。
「塚が、すでにそこにあったということは——
戦国期より前から、誰かがここを守ってきた、ということになる」

沢渡は、塚の輪郭を目で辿った。

塚には、重なりがある。

戦死者が眠っているかもしれない。
堺の印だったかもしれない。

どれも、分からない。

「絵図も、塚を描かなかった」
沢渡が言った。
「戦国の豪族も、塚を利用した。
みんな、塚を『見えないもの』として扱っている」

「でも、塚は残った」
ケンジが言った。
「意図せず、守られた」

誰も返事をしなかった。

風が止んだ。
草が、ゆっくりと戻った。

意図せず守られてきたものが、ここにある。
それだけは、確かだった。


塚がある。

近づかない。

理由は知らない。

ただ、そこにある。

それで十分だった。


「ここから先は、違う」

地図を広げて、沢渡が言った。
「前九年の役で、朝廷側はここに関所を設けた。
一関、二関、三関。
磐井川沿いに、順番に」

「一関という地名の由来ですね」
と映美が言った。

「ここが、境だった。
記録に残る、最も古い『意図的な境界設定』がここだ」

ケンジが地図を覗き込んだ。
「でも、関所を設ける前から、ここが境だったんじゃないですか。
だから、ここに設けた」

沢渡は、ケンジを見た。
「そうだな」

「誰かが境と決める前から、境だったのかもしれない」
映美が言った。
「地形が、境を作っていた」


南から来ると、
ただ、変わる。

水の匂いが、する。
石が、大きくなる。

ここから先は、違う場所だ。


さくらの

夕方の食堂に、三人が戻ってきた。

映美が、資料を一枚、テーブルに置いた。

「江戸時代の文献に、記述があります」

沢渡が、紙を手に取った。

その昔、鬼死骸と呼ばれる前は、「吾勝郷桜野荘」と呼ばれたと、ある。

「さくらの」
沢渡が声に出した。

「この言葉に」
映美は言葉を探すように宙を見た。
「古い言葉で、境界とか、水が湧く場所とか、
そういう意味があった可能性があるそうで」

「誰の説ですか」
沢渡が顔を上げた。

「確かな根拠のある説では、ないんですが」
映美は、紙を見たまま言った。
「ただ、この土地の条件と——合いすぎる」

水が湧く。
堺の地。

「朝廷サイドが、漢字を当てたんでしょうね」
映美は続けた。
「音は残したけど、意味は変えた。
桜野は、美しい野原のイメージだ。元の意味とは、違う」

沢渡は、紙を置いた。

「鬼死骸という名がつく前から」
静かに言った。
「ここは、さくらのだった」

「水が湧く、境界の地」

「それが、最初の名前かもしれない」

ケンジは、湯のみを持ったまま、窓の外を見た。
「上書きされたんですね。名前も」

誰も答えなかった。

しばらくして、沢渡が言った。
「名前を変えることで、記憶を変えようとした」

「でも」
映美が言った。
「水は、変えられなかった」

娘が盆を持って通り過ぎた。
食堂の音が、また戻ってきた。


帰り道だった。
あかりが、道の端に立っていた。

「さくらの、という地名があったらしい」
映美が、通りすがりに言った。

特に理由はなかった。
ただ、言いたくなっただけだった。

あかりは足を止めた。

「さくらの」
繰り返した。

「昔の名前だよ」
ケンジが補足した。

あかりは少し考えた。
それから言った。

「今でも、そっちの方が合ってる気がする」

「なんで」

あかりは答えなかった。
また歩き始めた。

三人は、しばらく黙って歩いた。

夕方の風が、磐井川の方から来ていた。


この土地の、最初の姿

沢渡は、重ねた地図をもう一度見た。

蝦夷塚の位置、旧八幡神社、要害城跡、一里塚、湧水、旧奥州街道。

これらを時代ごとのレイヤーとして重ねると、
ある範囲が常に「中心」に浮かび上がる。

完全に一致するわけではない。
ずれながらも、常に同じ範囲に収まっている。

江戸の人間は、ここに湧水を記録した。
戦国の人間は、ここに城を構えた。
平安の人間は、ここに関所を置いた。
もっと前の人間は、ここに塚を作り、巨石を置いた。

選ばれているのは、常に同じ場所だ。

「この土地が、引き寄せたのか」
沢渡は、独り言のように言った。

映美が聞いた。
「それとも、人間が選び続けたのか」
「どちらだと思いますか」

沢渡は、しばらく黙っていた。
「分からない」

それだけだった。

沢渡は、地図を閉じた。


情報工学者として、
データとして処理できるものと、できないものがある。

この土地は、後者だ。

それは分かっていた。
分かっていて、それでも重ねていた。
重ねることで、何かが見えると思っていた。

見えなかった。

ただ——
見えなかった、ということが、見えた。


鬼石の近く

鬼石。

あかりが立っている。
沢渡が並ぶ。

風が通り過ぎる。

草が揺れる。
遠く、水の音。

「さくらの、って」

あかりは答えない。

地面の下。
水は流れている。

昔から。
ずっと。

それでも、ここにある。


※ 鬼死骸村絵図(1818年)のレプリカは、
真柴市民センターおよび鬼死骸停留所に掲示されています。


この物語は、実在する岩手県一関市・旧鬼死骸村を舞台にした、
記録・神話・現代が織りなす物語の一編です。
この村には、フィクションでは作れない地形と歴史があります。
鬼死骸村の全体像は、【鬼死骸村探検隊】(ポータルページ)にて。
地図・動画・神話・怪異記録が重なっています。



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