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鬼死骸|五月十四日の余白

この物語は、実在の土地・史跡を基にした
フィクションであり、神話であり、記録である。
一つの語りとしての記録である。
(鬼死骸村探検隊|実在する旧鬼死骸村を舞台にした物語)


<あらすじ>
元禄二年、奥州を旅した二人の旅人。
平泉で夏草を見た翌朝、道の脇の石の前で黙って立ち、何も言わずに歩き始めた。従者には、聞こえた。聞こえたふりを、しなかった。
その旅の記録に、この場所は書かれなかった。
330年後、集会場で古い五線譜を弾いた映美は、ある紀行文の余白に気づく。一ノ関から岩出山まで、記述がない。
「書かなかったから」——それが、確信の根拠だった。
二つの時間が、一つの石の前で重なる。

本編:約3,900文字


元禄二年 五月十二日 黄昏

雨は、昼過ぎから降り続けていた。

山道を抜けてきた二人の旅人が、
一ノ関の屋敷の門をくぐったのは、
空がすでに暗くなりかけた頃だった。
合羽はもう役目を終えていた。

主人が、土間で待っていた。
「湯を用意しております」
それだけ言って、奥へ案内した。


夕餉が運ばれた。

二人は黙って食べた。
長い一日だった。

安久津から馬に乗ったとはいえ、
山坂ばかりの十里余を、
雨の中歩き続けた体は、
温かいものを受け取るだけで精一杯だった。

主人は、酌をしながら、ぽつりぽつりと話した。
この地のこと。
明日の平泉への道のこと。

「高館は、この季節が一番よろしゅうございます。
夏草が、よく茂っておりますので」

俳人は、静かに盃を受けた。

しばらくして、主人が言った。
「この辺りには、古い地名が多うございて」

「古い地名」
と俳人が繰り返した。
問いではなく、ただ声に出したように。

「南へ一里ほど行きますと、鬼死骸おにしがいという村がございます」
主人は、特に何の含みもなく続けた。
「鬼の死骸、と書きまして。
昔、蝦夷えみしの長がこの地で討たれたと。
そういう言い伝えでございます。
この辺りには、そういう話が多うございますので」

それだけ言って、主人は徳利を置いた。


二人は、顔を見合わせなかった。


夜が更けた。

主人が床を整えて引き取ると、
部屋は静かになった。
雨は、まだ降っていた。

従者は、手控えを閉じた。

俳人は、行燈の火を見ていた。

蝦夷の長が、この地で討たれた。
平泉より、古い話だった。
しかし、同じ話だった。

明日、その土地に立つ。

行燈の火が、揺れた。
俳人は小さく息をついた。

「休みましょう」

その声が、従者に向けられたのか、
自分に向けられたのか、
自分でも分からなかった。


揺れる休符

天井から吊るされた蛍光灯が、
古びたピアノを揺らしている。

閉館の後の、集会場は静かだ。

映美は、時々触っていた。
誰もいない時間に、少しだけ。

映美は、五線譜を譜面台に置く。
どこで拾ったのか、誰が書いたのか、もう覚えていない。
音符は、ところどころ不確かだった。

この音で合っているのか。
自信が持てない箇所がいくつかある。

それでも、弾いた。

数小節のフレーズが流れる。
ピアノの音がふっと途切れる。

休符だった。

鍵盤の前で指が止まる。
楽譜の休符よりも、
ほんの少しだけ長く、沈黙が伸びる。

「そこで終わりじゃないよ」

振り返ると、あかりが立っていた。

「いつからいたの」

「揺れていたから」
あかりは、説明しなかった。

「休符も音だよ」
それだけ言って、あかりは行ってしまった。

映美はしばらく、鍵盤の前に座っていた。

休符も音だよ。

鍵盤を、もう一度見た。

指を、そっと置いた。

やがて、立ち上がった。


映美は事務室に戻る。

棚から、一冊のコピーを取り出す。

以前、調べものをした時に、
印刷したままになっていたもの。

机に広げる。
ページをめくる。

手が止まる。

ある章と、次の章の間。
その区間に、記述がない。

地名も、里程も、何も書かれていない。

映美は、地図を引き寄せる。
一ノ関から岩出山まで、指でなぞる。

途中で、指が止まる。

ホールの奥で、ピアノの影が揺れている。


元禄二年 五月十三日 巳の刻

夜はまだ明けきらなかった。

俳人は目を開けたまま、
暗がりの中で静かに座していた。

昨夜、主人が口にした言葉が、
頭の中で静かに繰り返していた。

鬼死骸おにしがい
蝦夷えみしの長。
討たれた地。

平泉より、古い話だった。
しかし同じ話だった。

そう気づいた瞬間、平泉が遠くなった。

近いのに、遠い。
二里半しかないのに、遠い。

隣で、従者が静かに息をしていた。
眠っているのか、起きているのか、分からなかった。
声をかけなかった。

ただ暗がりを見つめていた。

空が白み始め、鳥が鳴いた。

俳人は、まだ起き上がらなかった。


朝餉あさげが運ばれた。

主人が、昨夜の話の続きをするでもなく、
ただ、今日の天気のことを告げた。

雨は上がった。
道は多少ぬかるんでいるかもしれない。
それだけ言って、主人は下がった。

二人は黙って食べた。

身支度を整えた。
従者が手控えを帯に挟んだ。

それでも、二人はすぐに立たなかった。


巳の刻。
「参りましょう」
従者が言った。

俳人は、一度だけ頷いた。


一ノ関を出ると、空は高く晴れていた。
北へ向かう道は、昨日の雨で土が湿っているが、歩くのに支障はなかった。

二人は、ほとんど言葉を交わさなかった。

田が広がる道を進んだ。
遠くに山が見え、道は緩やかに続いた。

やがて、平泉が近づいた。


高館に登った。

夏草が、風に揺れていた。

眼下に北上川が光り、衣川がその先に見えた。

義経が最後に立った場所。
藤原の栄華が灰となった跡。
青く茂る草の上に、
過去の層が重なっていた。

俳人は長く黙っていた。

昨夜の主人の言葉が、また頭の中を巡っていた。

蝦夷の長が討たれた、平泉より古い話。

その上に、夏草が茂った。

夏草が、また揺れた。

しばらくして、俳人が小さく呟いた。

従者には、聞こえた。

聞こえたふりを、しなかった。


中尊寺を詣でた。
光堂の扉が開かれた。
泉城の跡を見た。
秀衡の屋敷の跡を見た。

従者は一つひとつを手控えに記した。

俳人は、それを見ていた。


申の上刻。

二人は来た道を戻った。

一ノ関が近づくと、
主人が門のところに立っているのが見えた。

「お帰りなさいませ」
湯を用意して、待っていた。

俳人は、礼を返した。
それ以上の言葉は交わさなかった。


夜、従者は手控えを開いた。

今日見たものを、記した。
高館。
衣川。
光堂。
泉城。
秀衡屋敷。
金鶏山。

ひとつだけ、書かれなかった。


揺れる余白

数日後の夜、沢渡がまだ集会場に残っている。

珍しいことだ。

資料を広げたまま、何かを考えているようだ。
映美は、湯を二つ淹れて、一つを沢渡の前に置く。

「ありがとう」
沢渡は、資料から目を離さずに言った。

映美は、自分の机に戻った。
地図と、あのコピーが、広げたままになっていた。

しばらく、二人とも黙っていた。
紙の擦れる音だけが小さく響いた。


「何を調べてるんですか」
沢渡が言った。
資料から顔を上げて、映美の机を見ていた。

「古い紀行文です」

「何の」

映美は少し考えた。
「一ノ関から岩出山まで、記述がないんです」

沢渡は、眉を動かした。
「ルートが分からないだけじゃないのか」

「ここを通ったと思うのですけど」
映美は、地図を指で示した。

鬼死骸村。

沢渡は、地図を見た。
「根拠は」

「ないです」
映美は答えた。
間を置かずに。
「でも、通ったと思う」

沢渡は、湯を一口飲んだ。
地図を、もう少し眺めた。

「なぜそう思う」

映美は、鍵盤の前で止まった自分の指を、思い出した。

「書かなかったから」

「書かなかったことが、根拠になるのか」

「……休符みたいなものだと思う」

沢渡は、その言葉の意味を、すぐには掴めなかった。

映美も、それ以上説明しなかった。


しばらく、また黙っていた。

沢渡が、資料を閉じた。
「行ってみないか」

映美は、沢渡を見た。

「鬼石」

沢渡は、地図を見たまま言った。

自分でも、なぜそう言ったのか、
うまく説明できなかった。

映美は、少し間を置いた。

「うん」


元禄二年 五月十四日 夜明け前

夜が明ける前に、二人は宿を出た。

天気が良かった。

主人が門のところまで見送った。
昨日と同じように、ただそこに立っていた。

俳人は一度振り返って、軽く頭を下げた。
それだけだった。


奥州街道を、南へ向かった。
昨日とは逆の方向だ。

空が白んでいた。
道は乾いていた。
昨日の雨が、嘘のように晴れていた。
鳥の声だけが、あちこちから聞こえた。

二人はほとんど言葉を交わさず歩いた。


しばらく歩くと、道標が現れた。

従者が、立ち止まった。
「こちらが、迫街道でございます」

俳人は、その道を見た。

二人は歩みを変えず、
奥州街道をさらに南へ進んだ。

従者は、黙ってついていった。


少し歩いたところ。
道の脇に、石があった。

特別大きくはなかった。
特別な場所でもなかった。
ただそこに、置かれている石。

二人は立ち止まった。

朝日が、石を横から照らしていた。
二人の影が、石に重なった。

誰も、何も言わなかった。

夏草が、石の根元で揺れていた。


しばらくして、二人は歩き始めた。

脇道に逸れ、迫街道に入った。

岩出山へ向けて、歩いた。

道は続いた。
空は高かった。

風が、後ろから吹いていた。


後日 推敲

旅から戻って、幾年か過ぎた。

俳人は夜ごと、稿を広げ、
書いては書き直し、また書き直した。
少しずつ、形になっていた。

ある夜、筆が止まった。

一ノ関を出て、岩出山に至る
――その間が、白いままだった。

筆を持ったまま、
しばらく動かなかった。

やがて、筆を置いた。

白いままにした。

庭の芭蕉が、風に揺れていた。


揺れる夏草

朝だった。

鬼石は、国道のすぐ脇にある。

車が、時折通り過ぎる。
誰も気に留めない。
特別な場所ではない。
置かれている。

二人は、石の前に立った。

夏草が、石の根元で揺れていた。


沢渡は、石を見ていた。

証拠は、ない。
この石の前を、あの旅人が通ったという記録は、どこにもない。
通ったとしても、何を見たかは、誰も知らない。

それでも。

この石は、ずっとここにあった。
誰かが通るたびに、ただそこにあった。
記録されても、されなくても。
ただそこにあった。

風が吹いた。

夏草が、また揺れた。


映美は、石を見ていた。

元禄二年の五月、
夜明け前に一ノ関を出た二人が、
この石の前で立ち止まった。

しばらく、黙って立っていた。
それから、歩き始めた。

証拠は、ない。

でも、そういうことだと思った。

映美は、小さく言った。

「兵どもが夢のあと」

沢渡には、聞こえなかった。

聞こえたふりを、しなかった。


夏草が、揺れていた。


* この物語の史実に基づいた解説記事はこちらにあります。
書かれなかった一里——曽良旅日記と鬼死骸村


この物語は、実在する岩手県一関市・旧鬼死骸村を舞台にした、
記録・神話・現代が織りなす物語の一編です。
この村には、フィクションでは作れない地形と歴史があります。
鬼死骸村の全体像は、【鬼死骸村探検隊】(ポータルページ)にて。
地図・動画・神話・怪異記録が重なっています。



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