大晦日、神様は「日没」とともにやってくる - - 歳時記の遊悠エッセイ
窓を叩く風の音が、昨日よりも少しだけ強くなったような気がします。
街の空気はどこかせわしなく、スーパーの棚には、鏡餅やしめ飾りが誇らしげに並んでいます。
私たちは、カレンダーの最後の一枚をめくる時期になると、なぜこれほどまでに「終わり」と「始まり」の境界線に敏感になるのでしょうか。
ただの二十四時間、ただの日付の更新。それなのに、大晦日という日だけは、特別な重力を持っているように思えるのです。
そもそも「大晦日」という言葉の響きには、どこか古い家屋の奥座敷のような、ひんやりとした静けさと奥行きが宿っています。
この「みそか」という言葉、もとは「三十日」と書きました。
月の満ち欠けを頼りに生きていた時代、月がすっかり隠れてしまう「月隠(つきごもり)」が転じて「つごもり」となり、一ヶ月の終わりを指すようになったのです。
そう思うと、大晦日とは「一年のうちで最も深い闇に包まれる夜」のことだったのでしょう。
電気のない時代の真っ暗な夜、人々はそこで何を待っていたのか。
それは、一年の福を司る「年神様」でした。
かつての日本において、一日の始まりは「夜」にありました。
現代の私たちは午前零時に新年を感じますが、民俗学的な感性でいえば、大晦日の日が沈んだその瞬間、もう新しい年は始まっているのです。
つまり、大晦日の晩餐は「去りゆく年を惜しむ会」ではなく、すでに到着している神様と一緒に囲む「新年最初の食事」だったわけです。
年末の行事といえば、真っ先に思い浮かぶのが大掃除でしょう。
かつては「煤払い」と呼ばれ、単なる衛生的な掃除というよりは、宗教的な儀式に近いものでした。
この煤払いは「神様を迎えるための準備」なのです。
年神様という目に見えない貴客が、迷わずに我が家へ降りてきてくれるように、一年間の埃を落として家を清める。
もし家中が散らかったままなら、神様は「この家はやめておこうかな」と、隣の家へ行ってしまうかもしれません。
そう考えると、面倒な換気扇の掃除も、なんだか重要な接待準備のように思えてきませんか。
江戸時代になると、この年末の風景はさらに賑やかさを増していきます。
商家にとっては借金を清算する死活問題の時期でもあったのですが、庶民にとっては「年越しそば」を食べる楽しみがありました。
なぜ蕎麦なのか。
細く長く生きるためという説が一般的ですが、金細工師が飛び散った金粉を集めるのにそば粉の団子を使ったことから「金を集める縁起物」とされたという話もあります。
庶民の願い事はいつの世も、健康と、そして少しばかりの豊かさなのです。
時代は流れて、私たちのライフスタイルは劇的に変わりました。
除夜の鐘の音は騒音問題として議論されることもあり、年越しそばはカップ麺に代わり、家族揃ってテレビを囲む光景も、それぞれのスマホ画面へと分散されつつあります。
それでも、大晦日の夜に流れるあの独特の空気感だけは、変わらずに残っている気がします。
それは、一年に一度、自分の人生のページをめくる音が聞こえるような、静かな緊張感なのです。
未来の大晦日はどうなっているのでしょう。
メタバースの中で初詣を済ませる人が増えて、神様もデジタルな空間に降臨するようになるのかもしれません。
しかし、どんなに形が変わっても、「自分よりも大きな存在を迎え入れるために、場を清め、心を整える」という行為の根底にある祈りは、消えないはずです。
私たちは、終わらせることでしか、新しく始めることができません。
大晦日は、その潔い断絶のための装置なのです。
今夜、太陽が沈んだら、窓の外の暗闇にそっと意識を向けてみてください。
冷たい夜気の中に、もう新しい年が静かに忍び込んでいるはずです。
掃除しきれなかった部屋の隅っこには目をつむり、温かい蕎麦をすすりながら、その見えない来訪者を迎え入れる。
それだけで、私たちは千年以上続く日本人のリズムの中に、ちゃんと参加できているのです。
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