パソコン以前・初期メインフレームの世界とその熱量 - - パソコン黎明期の記憶
コンピュータの歴史は、進化の歴史だと思われがちです。しかし本当は、「標準化」の歴史でした。
どんなに優れた計算機を作っても、使い回しができなければ意味がない。この当たり前の事実に世界で最初に気づき、市場の7割を支配した巨人と、それに絶望しながらも牙を剥いた日本の技術者たちの、知られざる戦いの跡を追いかけてみましょう。
巨大な恐竜たちが闊歩した時代
今でこそコンピュータはパーソナルな存在ですが、1950年代から60年代にかけては、まさに「恐竜」のような存在でした。国勢調査や巨大企業の会計処理を一身に背負う大型計算機、いわゆるメインフレームの時代です。
当時は、真空管からトランジスタへと部品が進化し、計算スピードが劇的に上がっていく過渡期でした。しかし、当時のエンジニアや経営者たちを悩ませていたのは、速度よりも「互換性がない」という頭の痛い問題だったのです。
新しい機種が出ると、それまで使っていたプログラムも、周辺機器も、すべてゴミ箱行き。一から作り直さなければなりませんでした。コンピュータは、一物一価の「特注品」だったのです。使う側にとっては、あまりにもコストがかかる不条理な世界でした。
会社を賭けた「50億ドル」の決断
この状況をガラリと変えたのが、1964年にIBMが発表した「System/360」というシリーズです。50億ドルの大博打でした。
IBMが提示したアイデアは、今では当たり前の「アーキテクチャ(共通の設計思想)」という概念です。小型機から大型機まで、すべての機種で同じプログラムがそのまま動く。つまり、会社が大きくなってコンピュータを買い替えても、ソフトという資産が無駄にならない仕組みを作ったわけです。
この「互換性」という発明は、世界中のビジネスマンを熱狂させました。結果として、IBMは世界のメインフレーム市場の7割以上を独占する絶対王者へと登り詰めます。ライバル企業たちは連合を組んで対抗しますが、巨人の圧倒的なプラットフォーム戦略の前に、次々と撤退を余儀なくされていきました。

黒船の襲来と、通産省の焦燥
この「System/360」の衝撃は、太平洋を渡って日本にも届きます。当時の日本のIT産業にとって、それはまさに黒船の襲来でした。
当時の通産省(現在の経済産業省)は、強烈な危機感を抱きます。このままでは日本の情報インフラがすべてアメリカの巨人に支配されてしまう。日本の産業の未来を守るためには、何としてでもコンピュータを国産化しなければならない。そう考えたのです。
しかし、当時の日本の電機メーカーは小粒で、個別で戦ってもIBMの資金力と技術力には逆立ちしても敵いません。そこで通産省は、国内の主要メーカーを3つのグループに再編するという大胆な政策に打って出ます。お互いの技術を持ち寄り、国からの補助金も投入して、一丸となって巨人を追いかける体制を作ったのです。

天才・池田敏雄と、エンジニアたちの意地
この国家プロジェクトの最前線で、文字通り命を削って戦ったエンジニアたちがいました。その代表格が、富士通の池田敏雄氏です。
池田氏は「コンピュータの鬼」と呼ばれるような人物でした。彼は、ただIBMの真似をするだけでは勝てないことを見抜いていました。IBMと同じ「互換性」を持たせつつ、本家を超える処理速度と、日本製品ならではの圧倒的な信頼性を実現しなければ、未来はない。寝食を忘れた開発の末に、彼らはついにIBMと互角に渡り合える国産メインフレームを完成させます。
日本のエンジニアたちの底力と意地が、アメリカの一極集中にストップをかけた瞬間でした。彼らがこのときに培った緻密な半導体技術やシステム構築のノウハウが、巡り巡って、その後の日本のモノづくりやデジタル社会の土台になっていくのです。
遺伝子は、手のひらのなかに
メインフレームの歴史を振り返ると、それは単なる昔の機械の思い出話ではないことに気づかされます。
IBMが命がけで証明した「互換性やプラットフォームの重要性」は、現代のWindowsやMac、iOSの仕組みそのものです。そして、巨大な壁に挑んだ日本のエンジニアたちの情熱がなければ、今の私たちのデジタルライフはもう少し退屈なものになっていたかもしれません。
スマートフォンを開くとき、ほんの少しだけ、かつてビルを埋め尽くしていた巨大な計算機と、それに人生を賭けた人たちの熱量に思いを馳せてみてください。
私たちのポケットのなかには、確かに彼らの遺伝子が生きているのです。
【徒然メモ】初期のメインフレームコンピュータの歴史
1. 時代背景と技術的パラダイム
(標準化と商用化への足がかり)
真空管からトランジスタ、そして集積回路(IC)へと進化し、計算機が「科学計算用の1点モノ」から「ビジネス用の量産品」へと変貌した時代です。
(1)「商用計算機」の誕生(1950年代前半)
UNIVAC-I(1951年)
→世界初の商用デジタル計算機。米国国勢調査や大統領選挙の予測で活躍し、「コンピュータ」の代名詞に。
(2)真空管からトランジスタへの移行(1950年代後半)
信頼性が飛躍的に向上し、巨大な「発熱する機械」から、オフィスに設置できるシステムへ。
(3)「アーキテクチャ」の確立と互換性革命(1964年)
IBM System/360の登場
→それまで機種ごとにバラバラだったソフトや周辺機器を共通化。「買い替え可能なシステム」という現代のITビジネスモデルを確立。
2. 海外の覇権争い
(IBMと「BUNCH」の激突)
ビジネスマンが最も興奮する、巨額の投資とシェアを巡る企業戦争の歴史です。
(1)IBMの一強体制(「IBMと7人の小人」)
System/360の成功により、IBMが市場の7割以上のシェアを独占。
(2)ライバル連合「BUNCH(バンチ)」の形成
・IBMに対抗した主要5社(Burroughs, Univac, NCR, Control Data Corporation [CDC], Honeywell)の頭文字。
・CDC 6600(1964年)
→「スーパーコンピュータの父」シーモア・クレイが設計。IBMを凌駕する超高速計算に特化し、科学技術分野でIBMを脅かした。
(3)GE(ゼネラル・エレクトリック)とRCAの撤退
巨万の富を持つ大企業さえも、メインフレームの開発競争(巨額の設備投資とソフトウェア開発の泥沼)に耐えきれず撤退。
3. 日本の黎明期と追撃(官民一体の技術国産化)
通産省(当時)の指導のもと、海外勢(特にIBM)の脅威に対抗するため、日本の電機メーカーが必死に技術を磨いた時代です。国内IT技術者の「プロジェクトX」的な熱い歴史が詰まっています。
(1)日本初のデジタル計算機開発(1950年代)
・FUJIC(1956年)
→富士写真フイルムの岡崎文次氏がほぼ独力で完成させた日本初の真空管式デジタル計算機。
・ETL Mark III(1956年)
→電子技術総合研究所が開発した、世界初クラスのトランジスタ式計算機。
(2)国産メーカーの台頭(6社体制の確立)
富士通(FACOM)、日立(HITAC)、日本電気(NEAC)、東芝(TOSBAC)、沖電気(OKITAC)、三菱電機(MELCOM)が競い合い、技術を蓄積。
(3)IBM System/360の衝撃と「三大グループ」への再編(1970年代初頭)
・IBMの圧倒的破壊力に対抗するため、通産省の主導で国内メーカーが3グループ(富士通・日立、NEC・東芝、三菱・沖)に合流。
・「フォン・ノイマン・ショック」と関税自由化への危機感
→後の「超LSI技術研究組合」へと繋がり、日本の半導体・コンピュータ産業が世界トップレベルへ躍進する起爆剤となった。
【写真の元情報】
・IBM01-IBM System/360 Model 40
・IBM02-IBM System/360 Model 40
書籍の紹介
・僕らのパソコン 30年史 ニッポン パソコンクロニクル Kindle版
SE編集部 編集
翔泳社(2012/12/20)
写真で振り返る、ニッポンのパソコン歴史教科書。30年以上を通して変化したパソコンを2部構成で、写真を多用し世相にも触れながら、時間の流れの中で大きな変化をわかりやすく解説。第1部を年代ごとのトピックの解説にあて、当時の開発者や関係者への「証言(ターニングポイント)」を盛り込み、開発秘話などを明らかにしている。第2部では、PCアーキテクチャなどをテーマごとにまとめている。
( ※ 書籍の解説等は原則としてリンク先(Amazon)における解説をベースに記載しています。詳細内容はリンク先を参照願います。)
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