「たそがれ」、夕闇が教えてくれる緩さの作法 - - 言葉遊びの遊悠エッセイ
夕日に背中を押されるようにして家路を急いでいると、ふと、世界の解像度が落ちる瞬間があります。
さっきまであんなに鋭利だったビルのエッジや、信号機の無機質な赤が、まるで水彩画に一滴の水を落としたように、じわりと滲み始める。
あの、何とも言えない心細さと、それでいてどこか解放感のある時間。
私たちはそれを「たそがれ」と呼びます。
この「たそがれ」という言葉、実はなかなかに「緩い」感じのルーツを持っていることを知っていますか。
それは、平安時代まで遡ります。
まだ街灯などというものがない時代、薄暗がりのなかで向こうから歩いてくる人の顔がよく見えない。
「おい、そこにいるのは誰だ?」
と尋ねる必要があったのです。
つまり「誰そ、彼(だれだ、あれは)」という問いかけそのものが、言葉の正体なのです。
今なら、スマホのライトを照らすか、高性能な防犯カメラが瞬時に個人の識別を終えてしまうことでしょう。
しかし、昔の人たちはもっとのんびりとしていました。
「誰だか分からない」という事態を、そのまま言葉にして定着させてしまったのです。
相手が誰だか特定できない不便さを、風雅な響きへと昇華させてしまう。
ここには、現代人が忘れかけている「不明瞭さを受け入れる余裕」が隠れているような気がします。
歴史を紐解けば、この言葉の変遷も面白い。
万葉の時代からしばらくの間、たそがれはもっと切実で、少し不気味なものでもありました。
現世(うつしよ)と異界との境界が曖昧になる「逢魔が時(おうまがとき)」。魔物に食われないように、あるいは神隠しに遭わないように、人々は互いに声を掛け合って身を守ったのです。
それが江戸時代あたりからでしょうか、もう少し情緒的な、あるいは感傷的なニュアンスを帯び始めます。
そして現代。
今の私たちが「たそがれる」と言うとき、そこには「一人でぼんやりと、物思いに耽る」という、どこか自虐的なニュアンスが混じります。
対象はいつの間にか、外側にいる「誰か」から、自分の「内面」へと移り変わってきたわけです。
面白いのは、この言葉が「衰退」の比喩としても使われるようになったことでしょうか。
「人生のたそがれ」とか「たそがれ時の産業」なんて具合に。
今の世の中、私たちは正解を求めすぎているのかもしれません。
誰が、何を、いつ、どこで。すべてを特定して、白日の下に晒さなければ気が済まない。
しかし、人生には「誰そ彼」と首を傾げているくらいの時間が、きっと必要なのです。
たそがれが持つ「緩さの効用」が役に立つときかもしれません。
たそがれ時は、世界が私たちに
「もう、頑張らなくていいよ。適当でいいよ」
と許可を出してくれる時間。
すべてが曖昧になるからこそ、私たちは自分という殻を脱ぎ捨てて、ただの風景の一部になれる。
そこには勝ちも負けも、正解も不正解もありません。
もしあなたが、日々の暮らしに少し息苦しさを感じているのなら、一度「たそがれて」みてください。
ぼんやりと沈みゆく光の色を眺める。
向こうから来る影が誰かなんて、気にしなくていい。
自分が誰であるかさえも、忘れてしまっていい。
夕闇がすべてを優しく包み込んでくれるとき、自身の「緩さ」を愛せるようになるのです。
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