「サラリーマン」、平日の羊、あるいは週末のライオン - - 言葉遊びの遊悠エッセイ
朝、駅のホームに立つと、そこには見事なまでの「記号」が並んでいます。
紺やグレーの薄い外殻をまとい、耳には白いうどんのようなワイヤレスイヤホンを差し、視線は手元の光る板に固定されている。
彼ら、あるいは私たちは、いつからか「サラリーマン」という不思議な生き物として分類されるようになりました。
そもそも、このサラリーマンという言葉、どこか間の抜けた響きがしませんか。
英語の「サラリー」に「マン」をくっつけただけの、いかにも明治・大正期の日本人が急造したようなツギハギ感。
実際、これは立派な和製英語なのです。
海外で「I am a salaryman.」と胸を張っても、相手は
「給料・・・男?」
と首を傾げるか、あるいは日本の過酷な労働文化を象徴するディストピア的な用語として、憐れみの視線を向けてくるかもしれません。
語源を辿れば、サラリーの正体は「塩(Salt)」に行き着きます。
古代ローマの兵士たちが、給与として塩を受け取っていた時代の名残。ラテン語の「サラリウム」がその起源です。
つまり、私たちは本質的に「塩をもらうために戦う兵士」のはずでした。
現代のオフィスで、カタカタとキーボードを叩き、Excelのセルを埋めている作業が、かつての塩の争奪戦と繋がっていると思うと、少しだけデスクワークに野性味が加わる気がしませんか。
大正時代、この言葉が流行りだした頃の「サラリーマン」は、一種の憧れの対象だったようです。
泥にまみれず、決まった時間に白いシャツを着て、毎月決まった額の現金を受け取る。
それは不安定な社会における「勝利の形」でした。
それがいつの間にか、自嘲気味に語られるようになり、昭和の高度経済成長期には「社畜」という、これまた強烈な言葉まで派生してしまいました。
定義の変遷も面白いものです。
かつては「組織に骨を埋める者」だったのが、今やIT界隈では「リソースを切り売りするベンダー」のような扱い。
Slackのステータスを「離席中」にするか「会議中」にするかという小さな駆け引きに命を懸けて、Zoomの背景に映り込む生活感を消し去ることに心血を注ぐ。
もはや職業というよりも、一つの高度な「演技」に近い生態を私たちは持っています。
面白いのは、サラリーマンという言葉に含まれる「余白」です。
自称するときには「しがないサラリーマンですが」と謙遜の道具になり、誰かを批判するときには「サラリーマン根性だ」と揶揄に使われる。
その一方で、金曜日の夜の居酒屋では、この言葉は一種の免罪符になります。
「まあ、お互いサラリーマンだしな」という一言で、理不尽な上司の小言も、報われないプロジェクトの愚痴も、すべてが共有の財産として浄化されていく。
これほど便利な連帯の合言葉は、他に類を見ません。
最近のサラリーマンの生態系を見ていると、さらに興味深い現象が起きています。
副業が解禁され、リモートワークが当たり前になり、物理的な「オフィス」という檻が消えかけたことで、サラリーマンというアイデンティティが、かえって純粋培養されているように感じるのです。
例えば、平日は冷徹にロジックを積み上げるエンジニアが、週末にはスパイスを調合してカレーの沼に沈んでいたり、あるいはサウナの中で「ととのう」ことを至上の命題として、デジタルデトックスに励んでいたり。
組織の一部でありながら、その内側に誰にも侵されない「個」の領土を必死に守り抜こうとする。その必死さが、かつての兵士たちが塩を守った姿と重なって見えてくるのは、考えすぎでしょうか。
サラリーマンという言葉は、これからも形を変えて生き残るでことしょう。
たとえAIがコードを書き、文章を生成するようになっても、「組織というフィクションの中で、折り合いをつけて生きる」という、この人間臭い営み自体はなくならない気がします。
明日の朝、また駅のホームで、同じ記号をまとった隣人とすれ違います。
そのとき、相手のネクタイやイヤホンの奥に、それぞれの「塩」を見出してみる。そうすれば、あの無機質な通勤電車の風景も、少しだけ物語に満ちたものに変わるかもしれません。
結局のところ、私たちは「給料をもらう男」である以上に、言葉という遊び場を彷徨う旅人なのですから。
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