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【IT現場の生態系】現場を蝕む「開発者バイアス/甘い見積もり」の正体


「あと微調整だけです」という言葉の重み

 金曜日の夕方、オフィスに軽快なキーボードの音が響いています。進捗を確認すると、彼は笑顔でこう答えました。
  「ほぼ出来上がってます。あとは微調整だけなので、月曜の朝には確認できるようにしておきますね」。

 しかし月曜の朝、デスクにいたのは目が血走った彼でした。画面には無数のエラーログ。
  「いや、思っていたよりちょっと手強くて……」。

 ITの現場で、私たちはこの映画のワンシーンのような出来事を何度も繰り返し見てきました。
  「進捗80%です」
と言われてから完成するまでに、なぜか全体の半分以上の時間がかかる。これは決して、彼らがサボっているからでも、能力が足りないからでもありません。

 人間の脳が仕掛ける巧妙な罠、「開発者バイアス」のせいなのです。


エンジニアの脳内で起きている「楽観という名の麻薬」

 見積もりが甘くなる背景には、大きく分けて三つの勘違いが潜んでいます。

 一番大きいのは、無意識に「ハッピーパス」だけを思い描いてしまうことでしょう。
 ハッピーパスとは、エラーも起きず、仕様変更もなく、すべてが理想通りに進むルートのことです。旅行に例えるなら、赤信号にも一度もかからず、渋滞もゼロという前提で到着時間を計算するようなもの。そんなドライブ、現実にはあり得ないのに、コードを書く前の脳内ではなぜかそれが「標準」になってしまうのです。

 二つ目は、「コードを書いている時間だけが開発である」という錯覚です。
 実際の仕事には、過去のコードを解読したり、やり方を調べたり、レビューを待ったりする時間が山のように含まれています。キーボードを叩いているのは全体のほんの数割に過ぎないのに、見積もりの瞬間、私たちは「キーボードを打っている時間」しか頭に浮かびません。

 そして三つ目が、周りからのプレッシャーや「デキる奴と思われたい」という見栄です。
 「どれくらいでできそう?」と聞かれたとき、断れずに「頑張れば2日です!」と答えてしまう。その瞬間の場の空気は和らぎますが、未来の自分に巨大な借金を背負わせているだけだったりします。


根性論を捨てて、仕組みで殴る

 では、この脳の癖にどう立ち向かえばいいのでしょうか。
 気合で「もっと慎重に見積もろう」と思っても、バイアスは消えてくれません。必要なのは、自分を最初から疑っておく仕組みです。

 まず試してほしいのが、自分が「これくらいでできる」と思った時間の1.5倍を、機械的に提出するルールを作ることです。「3日で終わる」と感じたら、脳内で勝手に「4.5日」に変換して伝える。自分の直感を一切信用しないという、少し寂しいくらいの割り切りが効果を発揮します。

 もう一つは、タスクをとことん細かく切り刻むことです。「問い合わせフォームを作る」という大きな塊のままだと、どうしても大雑把な見積もりになります。これを「画面のレイアウト」「入力チェック」「メール送信処理」「エラーが出たときの表示」と、1時間から数時間単位で終わるレベルまで分解してみる。細かく分解すればするほど、隠れていた「あれ、ここどうやるんだっけ?」という謎の時間が浮かび上がってきます。

 作業に入る前に「もしこの作業が遅れるとしたら、原因は何だろう?」と1分だけ妄想してみるのもおすすめです。「あ、あの外部サービスの仕様書、まだちゃんと読んでなかったな」といった小さな落とし穴に、事前に気づくことができるようになります。


「早く終わる」より「約束通り終わる」ほうがずっといい

 エンジニアにとって大切なのは、「早くできます」と調子のいいことを言うことではなく、「言った通りの日に届ける」ことのはずです。予備の時間(バッファ)を積むことは、ずるでもサボりでもありません。予期せぬトラブルからプロジェクトを守るための、立派な品質管理なのです。

 そして、周りのビジネスマンやマネージャーにも知っておいてほしいことがあります。エンジニアに「これ、どれくらいでできる?」と一発の数字で聞くのは、少し酷かもしれません。「一番うまくいった場合と、何かハマった場合で、それぞれどれくらい?」と、幅を持たせて聞いてあげるだけで、お互いのストレスは一気に減ります。

 予備日をたっぷり含んだ見積もりが出てきたとき、「もっと早くできないの?」と詰め寄らないでください。それは彼らが真剣にリスクと向き合った、誠実さのあらわれなのですから。

 完璧な未来予知なんて、誰にもできません。
 だからこそ、自分の脳の「甘さ」をあらかじめ計算に入れながら、お互いにクスッと笑ってフォローし合えるような現場でありたいものです。



【徒然メモ】「開発者バイアス」と 「その克服方法」

1. 「開発者バイアス」とは何か

 開発者が見積もりを立てる際、無意識に楽観的になったり現実と乖離したりする心理的・環境的要因の分類です。

 (1)心理的・認知バイアス(脳の癖)

 ・計画の誤謬(Planning Fallacy)
  過去に似た作業で遅延した経験があっても、「今回はスムーズにいく」と思い込んでしまう傾向。

 ・自己奉仕バイアス/過信効果
  自分の技術力やトラブル対応能力を過大評価し、エラーや詰まりが発生しない前提でスケジューリングする。

 ・楽観主義バイアス
  ネットワーク障害、APIの仕様変更、急な仕様変更などの「外部要因による障害」を考慮外にしてしまう。

 ・トンネル視点(ハッピーパス指向)
  「正常系(すべてが正しく動く流れ)」のコード量だけを計算し、例外処理やテスト、リファクタリングの時間を計算に入れない。


 (2)技術的・業務構造の理解不足

 ・「コードを書く時間」=「開発時間」という錯覚
  調査、設計、ビルド、動作確認、コードレビュー、ドキュメント作成、デプロイ準備などの周辺作業時間を失念する。

 ・未知の領域(Unkown-Unknowns)の軽視
  新規技術や外部ライブラリを導入する際、「調べればすぐできるだろう」と調査・検証時間を数時間程度に見積もってしまう。

 ・技術的負債の無視
  既存コードの読み解きや、改修に伴う影響範囲の調査時間を計算に入れない。


 (3)組織・人間関係の圧力(環境的バイアス)

 ・「早く見せたい・認められたい」欲求
  優秀に見られたい、あるいはクライアントや上司を喜ばせたい心理から、希望的観測のスケジュールを提示してしまう。

 ・「プレッシャーへの忖度」バイアス
  営業や PM から「〇日までにできる?」と聞かれた際、断れずに「頑張ればできる」ギリギリの日数を言ってしまう。


2. 開発者バイアスを克服する方法

 バイアスは根性論では解決しないため、「仕組み」「手法」「コミュニケーション」の観点から対策を分類します。

 (1)見積もり手法・計算ルールの仕組み化

 ・作業の細分化(WBSの徹底)
  1つのタスクが半日〜1日(例:4時間〜8時間以内)で終わるレベルまで分解する。小さく分解するほど認知の漏れが減る。

 ・バッファの定型ルール化(「3点見積もり」など)
   ・最良シナリオ・標準シナリオ・最悪シナリオの3パターンを出して加重平均を取る(PERT手法)。
   ・「算出した見積もり×1.3〜1.5」を標準バッファとして組織的にルール化する。

 ・「過去の実績値」との比較(類推見積もり)
  自分の感覚ではなく、類似タスクの「過去の実際の消化時間」をログ(JiraやTrello等)から引っ張り出して適用する。


 (2)レビューと組織的プロセス(他者目線の導入)

 ・ピア・見積もり(相見積もり・ポーカー見積もり)
  1人の感覚に依存せず、チームの複数人で見積もりを出し合い、乖離がある部分の認識を合わせる。

 ・「悪魔の代弁者(Pre-mortem)」セッション
  見積もり決定前に「このプロジェクトが計画通りに終わらなかったと仮定したら、理由は何か?」をあらかじめ出し合い、リスク時間を事前組み込みする。


 (3)マインドセットとコミュニケーションの改善

 ・「開発時間」と「作業時間」の区別
  1日8時間労働でも、会議やチャット返信、レビュー等で集中できるコード執筆時間は「実質4〜5時間」であることを前提に計算する。

 ・バッファ提示の心理的ハードルを下げる
  上司や顧客に対して「早く出す見積もり」ではなく「確実に守れる見積もり」こそが価値であるという文化を作る。


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プロジェクトマネジメントの小径


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