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「さようなら」。過去を引きずる日本語、未来を夢見る英語 - - 言葉遊びの遊悠エッセイ

 世界広しといえども、別れ際に「接続詞」を叫んで去っていく民族は、私たち日本人くらいのものでしょう。

 学校のチャイムとともに口にしていた「さようなら」というあの言葉。元を正せば、江戸時代の武士たちが使っていた「然様ならば(そうであるならば)」という、ただの接続詞です。
 「そうであるならば、これにて失礼いたします」
の後半がいつの間にかすっぽりと脱落し、接続詞だけがポツンと取り残されてしまいました。

 もしも、あらゆる挨拶が接続詞で代用され始めたら、私たちの日常はどうなってしまうのか。
 朝起きて、家族に向かって「したがって!」。
 久しぶりに会った友人に「しかしながら!」。
 お礼を言う代わりに「ゆえに!」。
 シュール極まりない光景ですが、私たちは「さようなら」においては、これと同じ大真面目なユーモアを何百年も続けているわけです。


 他国の言葉に目を向けると、別れの風景はまったく違った色彩を帯びてきます。

 英語の「Goodbye」は、もともと「God be with ye(神があなたと共にありますように)」が縮まったもの。旅立つ者の無事を祈る、宗教的な祝福が根底にあります。
 「Farewell」にしても、「健やかに行け」という能動的な意志が込められています。
 あるいは、カジュアルな「See you」は、明確に「また会う未来」を指し示しています。


 こうして比較してみると、ひとつの面白い輪郭が浮かび上がってきます。
 日本語の別れは、過去を引きずり、英語の別れは未来を夢見る。

 英語の別れが「これからの時間」を祝福するのに対して、日本語の「さようなら」は、それまでの時間、つまり「過去」をじっと見つめています。
 私たちは別れ際に、未来を無理に約束しようとはしません。「これまで一緒に過ごした時間があった、そういう事実がある。そうであるならば、私たちはここでお別れですね」と、流れる時間に身を委ねるのです。

 それなのに、現代の私たちはこの言葉を少し怖がりすぎてはいないでしょうか。恋人からのメールの末尾にこの四文字を見つければ、関係の修復不可能さを悟って絶望します。
 「バイバイ」や「じゃあね」という、未来を安易に担保してくれる便利な言葉たちに席巻されて、本家の「さようなら」は、いつしかどこか冷ややかで、よそよそしい記号にされてしまいました。


 振り返れば、私たちがこの言葉に覚えるかすかな冷たさは、子どもの頃の記憶に原因があるのかもしれません。
 小学校の帰りの会、起立の合図とともに全員で唱和させられた、あの儀式的な挨拶。個人の感情を挟む余地のない、集団行動のルールとしての「さようなら」です。
 言葉そのものが冷酷だったのではなく、私たちはあの記号化された空間の肌寒さを、言葉のせいにしているだけのような気がします。

 かつて、太宰治は小説『惜別』の中で、この言葉の持つ二面性を鋭く見抜いていました。世界中にこれほど悲しく、またこれほど美しい別れの言葉はない、と。


 「そうであるならば」という諦念。
 それは、決して冷たい突き放しではありません。自分の力ではどうしようもない現実や、過ぎ去ってしまった愛しい時間を、まずは丸ごと肯定して受け入れる。その上で、「さて、これから」とそれぞれの足で歩き出すための、静かな決意の表明なのです。

 別れを暴力的にコントロールしようとはせず、大いなる時の流れに委ねる姿勢。これほど優しい人間関係の結び方が、他に群を抜いて存在するでしょうか。

 次に誰かと別れるとき。それがほんの数日の別れであっても、あるいはもう二度と会えない旅立ちであっても。心の中で、あるいはあえて小さな声に出して、「さようなら」と呟いてみてほしいのです。

 それは相手の胸を刺す刃などではなく、お互いが過ごした過去を優しく包み込み、これからの現実を温めるための、一番ふっくらとした毛布になってくれるはずですから。

 然様ならば、また。

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