【IT現場の生態系】 「仕様確定」と「手戻り」、日本語が通じない異文化コミュニケーション
金曜日の夕方、新しく導入される業務管理システムの試作画面を見つめて、ビジネスマンが軽やかに呟きます。
「ねえ、この社員検索の画面に、ついでに『過去の所属部署履歴』も表示できるようにしてよ。ボタン一個増やすだけでしょ? 簡単、簡単」。
その言葉を聞いたエンジニアの顔から、すうっと血の気が引いていく。
「えっと、今からそれを追加するとなると、仕様確定の後ですし、データ構造から見直す必要が……」
「そんなのプロなんだから、いい感じにやっといてよ!」
これが、ITの現場で日常的に繰り返される、悲劇の幕開けの瞬間です。
なぜ、このような悲しいすれ違いが絶えないのでしょうか。同じ日本語を話し、同じ会議室で頷き合っているはずの私たちが、実はまったく違う景色を見ている構造を、少し紐解いてみましょう。
物理法則のロックと、とりあえずの判子
ITの世界において「仕様確定」という言葉は、プロジェクトの生存線そのものです。しかし、この言葉の解釈が、ビジネス側とエンジニア側とで致命的なほどズレているのです。
発注側のビジネスマンにとって、仕様確定とは「とりあえずのスタートライン」に近い感覚ではないでしょうか。服を買いに行って「ひとまずこのサイズで試着してみよう」とするような、走りながら変えればいいという気軽さです。後から気が変わったら、微調整すればいいじゃないか、と。
一方で、受注側のエンジニアにとっての仕様確定は、建築で言えば「コンクリートを流し込んで基礎を固める瞬間」です。これ以降の変更は、物理法則をひっくり返すほどのエネルギーを必要とするのです。
データが複雑に絡み合う基幹システムであればなおさらです。画面に項目を一つ増やすということは、裏側のデータベースの形を変え、関係する過去のデータとの整合性を保ち、セキュリティの穴がないかを検証する、果てしないパズルを引き起こすことを意味するのです。
それなのに現場では、「よくわからないけれど、期日だからとりあえず判子を押した」という合意なき確定が、今日もどこかで執行されています。
ジェンガの最下層を抜く絶望
そうして生み出されるのが、現場における最大の環境破壊、すなわち「手戻り」という魔物です。
ビジネスの現場からすれば、手戻りは「ちょっとした修正」に見えるかもしれません。Excelのセルを一行付け足すような感覚です。「なぜ、あんなに簡単な変更に何週間もかかるんだ?」「まだ完成していないのに、なぜ追加費用が発生するんだ?」と、不信感を募らせることもあるでしょう。
ですが、エンジニアの視点に立つと、その「ちょっとした修正」は、完成間近のジェンガの最下層を「やっぱりここ、別のパーツに変えて」と引き抜かれるような絶望を伴います。
地味で複雑な業務システムほど、一つの変更がドミノ倒しのように全体のバランスを崩します。良かれと思って直した一箇所が原因で、全く関係のない別の機能が動かなくなる「デグレード」という連鎖バグ。これが、エンジニアの精神をガリガリと削りとっていきます。苦労して積み上げた成果物が一瞬でゴミになる。「手戻り」とは、ただの作業のやり直しではなく、現場のモチベーションを根こそぎ破壊する災害なのです。
丸投げと営業スマイルの共犯関係
この終わらない戦いを引き起こしている主犯は、実は双方の陣営に潜んでいます。
一人は、自分の業務を言語化することをサボり、「プロなんだから言わなくてもいい感じにしてよ」と丸投げする発注者です。自分がどんなシステムを欲しているのか、自社の業務がどう回っているのかを、エンジニアに翻訳して伝える努力を放棄したとき、時限爆弾のタイマーが回ります。
そしてもう一人の主犯は、心の中で「無理に決まっているだろう!」と叫びながら、営業スマイルで「持ち帰って前向きに検討します」と言ってしまう、ノーと言えないSIerやベンダーの上司です。できないことを「できない」と言えず、持ち帰った結果として現場のエンジニアにデスマーチを強いる。
この「丸投げする発注者」と「ノーと言えないベンダー」との不幸な掛け算が、現場に未確定の手戻り爆弾を降らせ続ける構造を作っています。どちらか片方だけが悪者なのではありません。この二者の共犯関係こそが、生態系を歪めている真因なのです。
同じ子供を育てる共同親権者のように
この泥沼から抜け出すために、私たちは普段から何を心がければよいのでしょうか。
まず発注側のビジネスマンに必要なのは、「仕様確定」の判子の重さを知ることです。
画面のイメージが湧かないなら、わからないまま進めてはいけません。エンジニアに「これ、実際に使うとどういう画面遷移になるの?」と、絵やプロトタイプを見せてもらうまで、しつこく食い下がる執着心が必要です。言葉の丸投げをやめ、自分の業務に向き合うことが、巡り巡って自分たちの未来を救います。
一方で、受注側のエンジニアも、ただ「できません」と壁を作るのをやめるべきでしょう。
ビジネスの言語でトレードオフを提示するのです。「その項目を追加するなら、全体の納期が2週間伸びます。あるいは、こちらの別の機能を諦めるなら今からでも入りますが、どちらが事業にとって優先度が高いですか?」と。
システム開発とは、発注元と下請けの上下関係ではありません。一つのシステムという子供を、知恵を出し合って育てる「共同親権者」のような関係であるはずです。
仕様確定を慎重に行うことは、決して相手を突き放す冷たさではありません。むしろ、限られた時間と予算の中で、最高のプロダクトを無事に世に送り出すための、お互いに対する「最大の優しさ」なのです。
【徒然メモ】「仕様確定」と「手戻り」の本質
1. 「仕様確定」とは何か
IT現場における「仕様確定」は、単なる「書類へのサイン」ではなく、プロジェクトの生存線(ライフライン)です。
(1) 発注側のビジネスマンから見た「仕様確定」
・「とりあえずのスタートライン」
「走りながら変えればいい」と思われがち。
・「予算と納期のロック」
これ以上お金と時間をかけないための「約束」という認識。
・「欲しいものが言語化された状態」
業務要件が画面イメージや機能一覧に落とし込まれた状態。
(2) 受注側のエンジニアから見た「仕様確定」
・「設計・実装へのGOサイン」
建築で言えば「基礎工事を始めて良い」という絶対的な境界線。
・「変更管理の基準点」
これ以降の変更は「追加料金・納期延長の対象(変更リクエスト)」になるという防衛線。
・「予測可能性の担保」
データ構造やアーキテクチャを決定するための、不確実性の排除。
(3)「仕様確定」の理想と現実
・理想
全員が同じ完成形をイメージし、合意できている状態。
・現実
発注側は「よくわからないけど判子を押した」、受注側は「判子をもらったからこれで進める」という、「合意なき確定」が多発する場所。
2. 「手戻り」とは何か
「手戻り」は、IT現場における最大の環境破壊(デスマーチの引き金)です。
(1) 発注側のビジネスマンから見た「手戻り」
・「ちょっとした修正・変更」
「ボタンの位置を変えるだけ」「項目を1つ増やすだけ」という軽い認識。
・「スケジュールの遅延」
なぜそんなに時間がかかるのか直感的に理解しにくい「ブラックボックスな時間」。
・「追加費用の発生」
「まだ完成していないのに、なぜ追加でお金がかかるのか」という疑問の種。
(2) 受注側のエンジニアから見た「手戻り」
・「ジェンガの最下層の抜き差し」
完成間近のビルを「やっぱり地下室を作って」と言われて基礎から壊すような絶望感。
・「モチベーションの破壊」
苦労して書いたコード、テストした成果物が一瞬でゴミになる精神的ダメージ。
・「ドミノ倒し的なバグの誘発」
急な修正により、関係ない別の場所に未知のバグ(デグレード)が埋め込まれるリスク。
(3)「手戻り」の発生メカニズム
・要件定義の甘さ
「言った・言わない」のコミュニケーションギャップ。
・見切り発車
仕様が確定していないのに、納期に間に合わせるために開発をスタートしてしまう構造的欠陥。
・認知のズレ
発注側が「動くもの(プロトタイプ)」を見て初めて「思っていたのと違う」と気づくタイムラグ。
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