「フライパン」、空を飛ばないパンのゆくえ - - 言葉遊びの遊悠エッセイ
「空を飛ぶ食パン」の姿を思い浮かべていました。マントを翻して大空を滑空する、こんがり焼けた6枚切り。
あるいはピーターパンの遠い親戚のような、不思議な妖精。
なぜならその道具の名前が、「フライ・パン(Flying Pan)」だと耳が信じ込んでいたからです。
みなさんには、そんな根拠のない思い込みの記憶はありませんか。なぜ私たちは、あの浅くて重い金属の道具を、わざわざそんな浮遊感のある名前で呼ぶのでしょう。
種明かしをすれば、英語の「fry(炒める・揚げる)」と「pan(皿・鍋)」がくっついたものです。なんだ、飛ぶ(Fly)ではなくて炒める(Fry)だったのか、と大半の人はここで納得して通り過ぎてしまいます。
でも、言葉の裏街道はもう少しだけ深いのです。さらに古いラテン語まで時間を巻き戻してみると、炒めるの語源は「焙る」を意味する言葉に、パンの語源は「皿」を意味する言葉に行き着きます。
つまり、本来の意味を忠実に日本語にするなら「炒めるための平皿」となるわけです。深さのある「鍋(ポット)」としてのプライドを捨てて、あえて「俺は皿だからね」と言い張るその境界線の緩やかさが、なんだか妙に愛らしく思えてきます。
この言葉が日本の台所にやってきたのは、明治時代のことです。西洋料理のきらびやかな波と一緒に、ハイカラな響きをまとって上陸しました。
とはいえ、一般の家庭にまでその居場所を広げたのは、戦後も少し落ち着いた昭和24年頃だと言われています。それまでの日本の食卓といえば、煮物やお吸い物、あるいは蒸し料理が主役でした。つまり「水」の文化だったのです。
そこへ、油を敷いてジューッとダイナミックに焼く、という未知の調理法を引っ提げて現れたのが彼らでした。日本の食文化をガラリと変えた、いわば革命児です。
「ちびくろサンボ」の絵本で、トラがバターになってホットケーキを焼くあの場面。黄金色の情景に胸を躍らせた記憶が、フライパンという言葉の原風景になっている人もいるのではないでしょうか。
どこの家でも見かけない日はないほどの万能選手。ですが、現代のカルチャーに目を向けると、彼は料理以外のちょっと物騒な場所でも大活躍しています。
アニメやゲームの世界を覗いてみると、なぜかフライパンは「最強の防具であり、最強の打撃武器」として描かれることが多いのです。背中に背負っておけば後ろからの銃弾をカンカンと弾き返し、いざとなれば悪党をなぎ倒す鈍器になる。フライパンを叩いたような安っぽい金属音を響かせながら、画面の中を無双する姿。
炒めるための皿として生まれたはずの彼らが、21世紀のデジタル空間でまさか盾や武器として愛されているなんて、明治の料理人たちが見たら目を丸くすることでしょう。
銃弾を弾くというのはさすがにフィクションの誇張だとしても、フライパンが私たちの日常を守る「盾」のような存在であることは、あながち間違いではない気がします。
クタクタに疲れて帰宅した夜。冷蔵庫を開けても、大したものは残っていない。そんなとき、とりあえず彼をコンロに載せて、卵を落としたり、昨日の残りの冷やご飯を放り込んで煽ってみる。ジューッという小気味よい音が静かな部屋に響き、香ばしい匂いが立ち上る瞬間、私たちは今日一日のトゲトゲした疲れから、少しだけ守られているような気持ちになります。
英語圏には「フライパンから飛び出して、火の中に落ちる」という慣用句があります。一難去ってまた一難、という意味だそうです。せっかく熱い場所から逃げ出したのに、もっと熱い火の中に飛び込むなんて、なんとも手厳しい比喩ですね。
でも、私たちの暮らす現実の台所では、フライパンはいつも火の真上で、美味しいものを約束して待ってくれています。
今夜も我が家の定位置で、使い込まれた「飛ばない食パン」が、静かにその出番を待っています。
傷だらけの丸い背中を愛おしく眺めながら、さて、今夜は何を炒めようかと冷蔵庫に手を伸ばすのです。
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