「抜けている」からこそ、風が通る - - 言葉遊びの遊悠エッセイ
「抜けている」とは、一体何が脱落した状態なのでしょうか。注意でしょうか、意識でしょうか、それとも張り詰めた緊張感でしょうか。
失われたものに目を向けるのか、それによってできた「空洞」に目を向けるのかで、この言葉の表情はガラリと変わります。
送ったはずのメールにファイルを添付し忘れていたり、カレーを作ろうとスーパーへ向かったのにカレールーだけを買い忘れて帰ってきたり。
どうして人間という生き物は、ここぞという場面でうっかりポンコツを発揮してしまうのでしょう。
私たちは日頃、自分が「抜けている」とひどく落ち込み、他人の「抜け」にヒヤヒヤしながら生きています。
しかし、少し考えてみてください。この「抜けている」という表現、一体いつから私たちのうっかりした性格や失敗を指すようになったのでしょうか。
言葉の歴史を少しだけ遡ってみると、そこには案外、完璧主義の現代社会を救うヒントが隠されているのです。
そもそも「抜ける」という言葉は、きわめて物理的な現象を指すものでした。
刃物の切れ味が落ちることを「刃が抜ける」と言ったり、瓶の栓が抜ける、歯が抜ける、毛が抜ける。全体というひとつの構造体から、特定のパーツが外れて落ちてしまう状態のことです。
これが時代を下るにつれて、次第に人間の内面や精神状態へと転用されていきます。
「気が抜ける」「油が抜ける」といった具合に、本来そこにあるべき緊張感や必須の成分が外部へ漏れ出し、中身がすかすかになった状態を指すようになりました。
対義語を考えるとわかりやすいかもしれません。
「抜かりがない」という言葉があります。準備に手落ちがなく、警戒の網が完璧に張り巡らされている様子です。
つまり「抜け」とは本来、ガードの隙間を潜り抜けてしまった不注意そのものであり、基本的には減点対象の言葉でした。
では、いつからこの「抜け」に愛嬌が混ざり始めたのでしょうか。
大きな転換期は、江戸時代の庶民文化にあります。
落語や歌舞伎の世界に登場する「間(ま)が抜けた」人々です。長屋の八五郎のように、どこかおっちょこちょいで頼りないけれど、憎めないキャラクターたち。完璧で隙のないお上よりも、どこか抜けた「抜け作」の方が、圧倒的に親しまれ、愛された。
日本人は昔から、他人の完璧さよりも、ポロリとこぼれ落ちた「抜け」の部分に人間味や温もりを感じ取ってきた歴史があるわけです。
ここで少し、視点をガラリと変えてみましょう。
「抜け」という言葉は、何も人間の失敗だけに使うものではありません。美術や建築、あるいはファッションの世界に目を向けてみると、全く違う景色が見えてきます。
例えば、空間デザインの世界では「抜け感」という言葉がよく使われます。
部屋の中に家具をギチギチに敷き詰めると、息が詰まるような圧迫感が生まれてしまう。けれども、あえて空間を一角空けておくと、そこに視線が抜け、心地よい「風の通り道」ができる。
茶道の「すき(隙)」の美学や、水墨画における広大な余白も同じ思想です。
ファッションでもそうです。
全身をブランド品やキッチリしたスーツで固めるより、足元を少し崩したり、首元を見せたりする「抜け感」がある方が、洗練されて見える。
そう考えると、不思議なことに気づきます。
物理的にも精神的にも、私たちは「抜けている部分」がないと、息が詰まって生きていけないのかもしれません。
昭和から平成にかけてのビジネス社会は、効率と正確さを追求するあまり、この「抜け」を徹底的に排除しようとしてきました。
チェックリストを何重にも重ね、ミスをゼロにすることを求めた。もちろん、実務としての間違いを防ぐことは大切です。
しかし、人間そのものから「抜け」を完全に消し去ろうとすると、そこは風の通らない、息苦しい空間になってしまいます。
AIや機械が完璧な仕事をこなす時代だからこそ、人間がふと見せる「抜け」の価値が、巡り巡って再評価されているような気がしてなりません。
完璧すぎる上司よりも、たまに添付ファイルを忘れて「やっちゃいました」と頭をかく上司の方が、部下としてはなんだかホッとするものです。
緊張で固まった場に、柔らかな風を吹き込むのは、いつだって誰かの「抜け」なのですから。
人間は機械ではありません。どれほど推敲したところでメールのミスは起きるし、完璧なスーツの足元で靴下は左右違ったりします。
でも、それでいいのかもしれません。
語源が教えてくれる通り、「抜けている」とは「どこかが解放されている」ということでもあるのです。
完璧な「抜かりのない人間」を目指して息を詰まらせるよりも、ほんの少し抜けているくらいが丁度いい。
自分のポンコツさに頭を抱えたときは、心の中でそっと呟いてみてください。
「まあ、抜けているからこそ、
いい風が通っているんだ」
と。
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