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ブランド化した「渡来系」[ト説]

 現在、移民問題は日に日に大きくなりつつありますが、移民にしっかり日本のルールを指導し、逸脱しないよう監督してくれる人が必要だと思いませんか?

 古代には、それらしき家筋があったのです。秦氏です。

 秦氏には渡来系というイメージが強いですが、聖徳太子の時代に活動した秦河勝でさえ、先祖の弓月君が渡来してから二百年が経過していました。
 
弓月君からすれば、河勝は孫の孫の子ども。秦河勝から見れば、弓月君は祖父の祖父の父です。「いつまで渡来系と云うとるんじゃ!」という話。

 つまり、秦氏が渡来系だったのはせいぜい500年ごろまでの話で、それ以降は日本人なんです。

どうして秦氏はいつまでたっても渡来系と見なされてきたのか?

 答えは、渡来系を統べる立場だったから

 渡来人が少人数で日本社会に飛び込めば、ひ孫の代にはほぼ区別がつかなくなるわけですが、渡来人が集住して渡来人村を作り、そこで暮らした場合には、もっと長く母国の文化、生活習慣が温存されます。渡来人同士で婚姻を続ければ、なおさらのこと。

 とはいえ、独立国家ではないのですから、渡来人村自体が日本に同化していくのは時間の問題です。たとえクダラ村という名前であっても、百数十年も経てば、その実態はほとんど日本と変わらないということになります。

 ところが、そうはならない渡来人村がいくつもあった。
 理由は、たえず新しい渡来人を受け入れたから。

 渡来人は、弓月君に率いられた大集団や、百済滅亡時の大量の避難民だけではありません。それこそ弥生時代の昔から、少人数での渡来が断続的に続いていたのです。

 少人数で日本に到着した渡来人たちはどうしたか?
 これが時代によって大きく分かれるのです。
 渡来人村など無かった時代には、漂着地の近辺の村に頭を下げて、受け入れてもらうしかありませんでした。
 しかし、各地に渡来人村が誕生するようになってからは、渡来人村に向かった
と思われます。

 つまり、二百年前に誕生した渡来人村であっても、中には渡来してきたばかりの人もいた。そうなると、その都度、母国の文化、生活習慣などはリフレッシュされますね。 

問題は、その渡来人村の支配者です。

 上の例でいえば、二百年前に最初に渡来人村を作った時のリーダーが、村長の家柄となったことでしょう。百年も経てば、日本人なんですが、しかし渡来人村の村長であり続けた。それが秦氏の実態だと思います。
 もちろん、秦氏は一つの渡来人村の長ではなく、ヤマト朝廷の勢力範囲内の渡来人村の大半の長。渡来系勢力の元締めです。

 秦氏自身は、とっくの昔に日本人になっていますし、渡来系勢力の大半も渡来してから百年以上経つような日本人でした。しかし、彼らは「渡来系」を称し続けた。そこがポイントです。

 どうしてだと思います?

 そのほうが「食べて行けた」からです。
 要するに「渡来系の職人」のほうがステータスが高かった。
これは現代でも同様ですね。フランス人やフランスで修業したシェフがやってるフランス料理レストランのほうが、ありがたい感じがする。

 とはいえ、自称は弱いです。そこで秦氏が「彼は間違いなく渡来系であり、腕は確かだ」と何らかの形で信用保証をしたのでしょう。当然、タダではありません。
 ま、その程度のことでは巨大な財力は築けなかったでしょうから、メインは灌漑などの土木工事。「○○建設なら間違いない」とゼネコンが選ばれるように、古代においては「秦氏に発注すれば間違いない」となっていたと思われます。 

 こうなると、渡来系であるかどうかは二の次になるんです。

 生粋の日本人の職人、土木技術者であっても、秦氏の傘下に入ったほうが、仕事がしやすくなる。すなわち「渡来系」がブランド化していった。

 古代史においては「○○は渡来系で進んだ技術をもっていた」というのが常套文句ですが、それこそ秦氏の思うつぼ。「秦氏」の実態は「渡来系」というブランドの管理者だったと思います。

 しかしこの「ブランド」なるもの…… 好きな人、信奉者もいれば、アンチもいる。ブランドじゃない紙袋など絶対に持ちたくないという人もいれば、ブランドのバッグなんか絶対嫌だという人もいるわけです。前者は少数派。後者が多数派です。だから、ブランド商売はおいしいわけですが、この構造が「渡来人・渡来系」にもあった。
 渡来系の人々の多くは秦氏傘下に入りましたが、一部の者たちは秦氏の傘下には入らなかった。

 その理由は? 渡来人村に入らず、どこで生きたの?

 ここからがロマンあふれるお話になるのですが、
 長くなりますので、次の記事にて、

 一言だけ、さわりを云わせていただきますと

そこに日本のルーツに関わる重大事があった…


 つづく

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