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人の内なる運動理論27

注)これは何の根拠もない、AIと会話してできた想像物語です

懐中電灯は自分で向きを決めない

意識を懐中電灯にたとえたことがある。

今見ているもの、考えていることに光が当たり、それ以外は暗がりに沈んでいる。 このたとえは多くの人に伝わりやすかった。初期の記事で一番反応があったのも、この表現だった。

ただ、最近ふと気づいた。

懐中電灯は、自分で向きを決めない。

光は光でしかなく、どこを照らすかは持ち手が決める。 光源と、その向きを決めるものは別の存在だ。

このことを意識に当てはめると、整理がつく。

私の理論では、意識は4層の構造の上にある。 身体、クオリア、構造化、記憶。 この4層がそれぞれの役割で動いていて、意識そのものが何かを選んだり決めたりしているわけではない。

では、意識は何をしているのか。

4層のどこかで誤差や変化が起きると、そこにリソースを集める必要が出てくる。 そのとき同期が発生する。

意識は、その同期状態を維持する。

さらに、そのときの内部状態を言語や行動の出力系へ渡す。

つまり、こうなる。

4層が決める。意識が維持する。

向きを決めるのは持ち手であり、光はそこに焦点が合った状態を保つだけだ。 決定権は持っていない。

この構造なら、「意識が焦点を当てる」という言い方は避けた方がいい。 そう書くと、意識という主体がいて、何かを選んでいるように見えてしまう。 主体を置いた瞬間、「では、その主体は誰が動かしているのか」という無限後退が始まる。 哲学でいうホムンクルス問題だ。

私はそこに踏み込みたくない。

だから私は、「焦点を当てる」とは書かず、「同期が維持される」と書く。

懐中電灯のたとえは、思ったより正確だったのかもしれない。

どこを照らすかを決めるのは持ち手であって、光そのものではない。 意識もまた、選ぶのではなく、選ばれた状態を保つものなのだと思う。

意識は、選ばない。維持するだけだ。


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