短篇小説 毒蛾
何だか無性に気が急いていけない・・。この焦りは一体?
ロバートは考えた。彼はプロテスタントに属する教会の牧師である。
若き頃から彼の信条は厳しい自制と激しい学問だ。彼にとって怠惰は敵であった。
「どうしたのロバート?最近あなた、顔色が悪いわ」
妻のキャサリンが心配げに脇へ歩み寄って彼の顔色を見ながら彼の額に手を当てた。
「熱は無いようだけど、あなたこの何日間かずうっと顔色が悪いから心配なのよ。きっとあなた、教会に献身し過ぎよ。だってこの二年間と言うもの、あなたは、私と結婚してからまだ一度も、長いお休みをいただいていないのよ、どこかへ行って静養なされば?教会のみんなだって心配しているわ」
「怠惰は敵なりと言うよ、キャサリン。僕の心の中にはね、それで無くとも休みたいと言う、怠惰への強い欲求があるんだ。だからそれを克服しない内は、長い休暇を取るだなんてとんでもない!それは悪魔への敗北宣言を出しているも同じだよ。それどころか、悪魔への降伏も同じだ。いいや!僕は休みなんて要らない。たゆまぬ献身と学問、そして禁欲こそが悪から身を護る唯一の術なんだ」
「だって、あなた。身体を壊してしまったらそれこそ、あなたが言う悪魔への敗北じゃない?あなたにしっかりと休養を取るよう言いなさいって、エドウィン大佐やサー・エドワードからだって、あたしそう言われてるのよ。
みんな、あなたが大事なのよ、ロバート?!」
「それはそれでともかく、僕自身が休暇を取るべきなのだと納得してからだよ!自分の納得も無しに、今までの教会に対する献身や、築き上げて来た信頼を台無しに出来るもんか!僕なら平気だよ、キャサリン。さあ、朝のお茶でも飲んで、そして今日一日を大事に生きなければ。
この身は神に捧げるんだと、僕は若い頃からそう決めて生きて来たんだ、
心配無いからダイニングへ行こう・・」
まだ、年齢は若いがロバートは、悪い意味で頑固者であった。
こう言った性向は宗教者、聖職者と言われる者にしばしば見られる傾向だが、ロバートもまた周囲の意見は全く容れず、自分の信念のみを押し通そうとする、宗教家に共通した性向があった。
キャサリンはそれ以上もう何も言えず、ロバートが言うようにダイニングへ立ってお茶の準備をした。
この教会では一切合切なにもかもが、ロバートが言う事に従って決められた。
それは例えば、彼らが個人的に食すクラッカーの一枚からしてそうだった。
添加物が無く、最も素朴で古風かつ、教会のお金を無駄に使わぬ様にとの心遣いから、味や見かけよりもいちばん廉価で、シンプルなものを用いていた。
それはなにも、クラッカーだけに限った事では無く、衣食住の全てがそうだった。
寄付を受けたからと言っても、それはこの教会が豊かにさえなれば良いのであって、牧師夫妻の生活などは二の次三の次なのだ。
物価が如何に高騰しても、ロバートは逆にそれを、神からのありがたい試練と受け止めて、逆に牧師夫妻の生活費は多すぎだと言い、彼らのお金をメンバーシップへと返上した。
そのお金の一部を、自分の任された教会から、世の中へと還元してもらうためである。
だからそのお金は、教会としての出費にはなるのだが、夫妻の消費になるものでは無い。
こうして夫妻の個人的な支出は戦時にも似て、出来る限り抑えられた。
無論こうした牧師夫妻の生活ぶりそれ自体は、何人もが手本とすべき徳行
善行なのだが・・。
「このお金を、なお救いを求めている全ての人へ届ける事は無理でも、これが、一人でも多くの人たちへと向かへばそれで良いんだよ。君も僕のこう言う方針を受け容れて僕と結婚してくれたのだし、それで良いだろうキャサリン?」
こうして二人が結婚して以来、夫妻の年収はむしろ年々下がっていった。
然し夫妻にはそれを十分に、美徳だと思って受け容れていた。
結婚以来、二人がその絆を深めるに従って、金銭的な欲望は逆に抑えられて行くのだから、これを人としての最も高邁なる美しい美徳だと見ない人はいない。
あらゆる物質的な欲望は、二人が互いに支え合う事でなおさら抑えられたが、その生活は二人にとって全く苦しいものではない。
ロバートはヒューマニズムをこそ求めれど、物質的な欲望など少しも良いものだとは考えない。
彼にとって物質的な否、あらゆる欲望は悪魔の企てに嵌められる罠でしかないのだ。
このように、ロバートにとっては悪魔との戦いに打ち勝つだけが、その人生の目的だ。
欲望を受け容れる事は世俗の生き方に外ならない。自分はそんな生き方をしたくはない。
ロバートは、若くして神学の分野でも、その恩師たちからの称賛と期待とを集めるだけの努力を惜しまなかった。
だが、自分が神学者への道を選ばずに一介の牧師となった事には、恩師たちも内心でがっかりしていたのをロバートは知っていた。それは然し内面で、彼の自負心を煽る事にもなっていた。
ロバートがこの教会に赴任してから彼はすぐ、牧師の公用車も廃棄した。
例えそれが、古式ゆかしく地味なものでも、公用車などは経費が掛かり過ぎて最も無駄なものだ。その経費は節約して教会の発展に使ってもらいたい。
自動車を廃した彼は、普段の移動には自転車を用いた。
自動車を廃止して間もなくロバートは、代わりに自転車を探して教会の物置小屋を漁った。
すると驚くべき事に、ロバートの思惑通り、古くて到底走れない様な錆びた自転車を物置小屋の片隅に発見するに至り、彼は「これで良いんです。これが一番だ!」と、我が意を得たりとばかりにこれを喜び、そして叫んだ。
すると、物置で共に立ち働いてくれた信者の村人の一人が、喜んでいる ロバートの声を聞き、そんな彼にこう言った。
「牧師さん。こいつあ、良い品ですよ~お!いまこれを骨董屋に持ってさえ行けばカネになりますぜ!あんたツイてらあ!良かったねえ牧師さん!」
村人は飽くまで善意からこう言ったに過ぎなかった。ロバートが素直にこれを受け止め、喜んでくれるだろうと・・。
だが彼は村人に、彼の予測とは違う反応を見せた。
「え?!そんな、お金になるほど骨董的な価値がある品なのですか、これが?」
「ええ!そうですとも。骨董屋のキングを呼んで聞いて御覧なさいな、高い値で売れますぜ!あんた、儲けたねえ!牧師さん」
「そうでしたか!有難う。では、これは今日の御礼です、教会からの御礼のお金です。どうぞ受け取って下さい」
「いやあ!済まないねえ!こちらこそ、ありがとうございました、牧師さん!」
ロバートは埃にまみれたままの姿で牧師館へ戻り、シャワーも浴びずに
骨董屋のキングに、すぐに牧師館へ来て欲しいと電話を入れた。
「見てもらいたいものが出て来たんです・・」
骨董屋のキングはすぐやって来た。
ロバートは、お茶を淹れてもてなした後にキングを誘い、共に物置小屋へと入って先ほどこの小屋の中から掘り出されたばかりの、古くて今やある種の威厳をさえ感じさせるあの自転車を、キングに見せた。
その自転車は、確かにさっきの村人が言ったように、まだロバートが生まれるずっと以前に作られた、今や高価な骨董的価値が付くほどの、頑丈で然し珍しい一件だった。
自転車の、上から下まで舐めるように見て、その値踏みを終えたキングは最後に顎を撫でながらこう言った。
「牧師さんこれはですね、若干の傷みはありますが、お高い値が付く品ですよ。戦前に製造された、今探してもなかなか見つける事が難しい品です。
この種の自転車独特の気品と歴史とを考慮すると、そうですな・・」
キングの提示したその自転車の値は、未だそうは使われていない中古の
自動車が、優に買えてしまうほどの値であった。
「そうなると逆に、お譲りは出来ません。そんなにも高い値の付く品となれば、これをあなたへお譲りするには信者たちの許諾を得ませんと。少々お待ちいただきたい」
ロバートはすぐさまキングと二人、牧師館へ取って返し、サー・エドワードとエドウィン大佐とへ電話をかけて、恐縮でもいますぐに牧師館までご足労戴けないかと尋ねた。
骨董屋の主、キングはこの教会の信者の代表者と監査役とも言うべきこの村の有力者二人を見て驚き、一体これから何事が始るのかと思ったが、キングが依頼された事は、さっきの古い自転車の骨董的な価値について説明するだけの事だったので、少しだけ安堵した。
序でに物置小屋から、他に何か価値ある品が無いかどうかざっと見積もれないかとまで言われ、キングとしては内心、ほくほくする話を貰った様なものだと思っていた。
「牧師さんの生真面目さには頭が下がりますよ。我々二人にご相談下さってありがとうございます。この教会の補修にもたしかに毎年相当な経費が掛かりますので。でも、こう言う骨董品に目をお付けになられるとは、流石に知恵者ですなあ!」
その晩、キングも交えた三人は、牧師館で晩餐をしてから帰る事となり、
牧師館では久しぶりに、夫妻や身近なその関係者以外との間の話に花が咲いた。
この日、骨董屋の主キングの見積もった、骨董的価値のある品々の値は、相当な額に達し、その金額で今年度の教会に掛る補修費用が全て賄えるほどにもなった。
ロバートは、その売り上げからごく僅かの金子を預かり、今後自分用に使う、最も廉価な部類の自転車の代金に充てる事とした。
この夜、ダイニングに小さな蛾が一匹飛んでいるのを彼は、生命ある者を損なってはならないと言って構わず放置した。
「あんなに博識で、かつ高潔なお人柄は、誠に我ら騎士の鏡にもしたい人物でした」
「如何にも。軍人になれば大佐どころか将軍にもなったお人だ・・」
「こんな突然の死だなんて・・!彼ならきっと、悪魔の企てだと言うでしょうに・・」
キャサリンがその頬に、そっとハンカチを当てた。
『悪魔の企てに嵌まりし者は、あらゆる希望を捨てよ』
門の上には、大きくこう浮き彫りにされた、分厚い銅板が飾られている。
「祷り過てる者よ。汝こそがわが餌食と知れ。過てる祈りの前に神の兆しも救いもありはしない・・。汝は我が下僕となりて永遠に、我に敵せるあの世界をたぶらかすのだ!」
「ふ・ふ・ふ・・。油断と言うものさ、お前はお前自身を誇った。その挙句、全ての人の苦しみと悩みとを、うぬのその身ひとつに背負い込めると錯覚し、神学の知識の深さまでを内心で自慢していたでは無いか。それこそが我が格好の餌食だと知れ」
ロバートは一人、真っ暗い空間に浮かんでいた。
さっき見たあの門は?あれが地獄への入り口だと言うのか?
「まさか、そんな!」
ロバートはこう、一人ごちた。
「ああ、そうさ。お前がこれから降るのは、地獄さ。そこで少しだけ寛いだら、あの敵なる人間の世界へと赴き、一匹の強力な毒蛾となって、また新たな我が下僕どもを、幾度もここに連れて返るのだ‥。お前の新しい役目はそれだ・・」
「な!なっ!何故だっ!悪魔奴がっ!わっ、私はひたすら真面目にこの身を神へと捧げて来たと言うのにっ!」
「理由か?理由はうぬで、知るが良い。うぬのその博識さと、そして神学に対する深い造詣とでなっ!」
悪魔の口元が、憎しみと怒りとで醜く歪んで見えた。
ロバートがはっ!と気が付くと、そこは自分の教会の中にある牧師館だった。
「あっ!キャサリンっ!ぼ・僕は、ゆ!夢を見ていたのか・・!」
彼はほっと安堵し、深く吐息をついた。
彼が呼んだキャサリンは、まだ喪服を着たままだ。
然も不可解な事に、キャサリンはいま、自分がいる視点よりも下にいる。彼女が頭に付けている髪飾りがロバートの目線の下に見えていた。
どうして?
ここは確かに牧師館。それに、キャサリンはどうして喪服なんかを着ているんだろう?
そのままひらひらと舞いながらロバートは、牧師館から表へと出ると教会のホールの内へと入って行った。
風景の全ては揺れている・・。
自分はまだ、夢の中にいるんだろうか?
ホールの祭壇のすぐ下、ホールの中央よりもやや前方には、棺が置かれていた。
おや、信者の誰か死んだのだろうか?
ロバートは空を舞いながらその棺の上に至り、そこから下を見た。
そこに安置されていたのは紛れもなく、自分自身の遺骸が横に臥している、銀色の十字架が浮き彫りにされた、牧師を葬るための棺であった・・。
「かっ!神よ!どうして私をっ!わたしをお見捨てになったのですかっ!」
然し、誰もそれに答える者は無かった。
(完)
