この小説を読んでいる間、私は女になっていた――別々の幻想を生きる男女を描く『ダブル・ファンタジー』
ずいぶん前に、村上由佳が官能的な小説を書いたと何かで読んだ。私は、むかし村上由佳がデビューした作品『天使の卵~エンジェルス・エッグ』を読んでいる。ミリオンセラーになり、ドラマ化もされた作品だが、淡い恋愛小説という印象だけしかなく、そのあと私は、なんとなく村上由佳を読まなかった。それが、『下ネタの品格』で、村上由佳と石田衣良の対談が呼び水になった。『ダブル・ファンタジー』は、恋愛を追求してきた村上のひとつの通過点として、官能あふれる物語を描き出す必然があったというのだ。その言葉が気になった。
そして‥‥「官能あふれる物語」だった。欲情ではなく、心と体の両方に体の芯からじわーんとくる。ウィスキーで喉が焼けるような感じとでもいえばいいのだろうか。なんだかこちらまで人の肌が恋しくなる。そんな動物的な衝動が生じた。淡い恋愛小説とは違うおとなの物語だった。私は自分の性を忘れ、高遠奈津になりきり性をむさぼっていた。そう、わたしはこの物語を読んでいるときは、女になっていた。そして、男を求めていた。私はときどき恋愛小説を読むが、主人公の女性にこんなに同化したものははじめてかもしれない。
物語の主人公は、35歳の脚本家、高遠ナツメ(本名:高遠奈津)である。人気脚本家であるが、自分の殻をなんとか破りたい、破らないと職業人としての将来がないという危機感を持っている。そんな奈津が、不倫をきっかけに、夫とわかれてひとりの女性として強く成長してゆく物語といえるだろう。
私が強烈に感じたのは、奈津に夫と別れて生きていくことをすすめた、演出家の志澤一浪太の存在である。名前から想像できるようなワイルドな人物である。天才肌の演出家は、無責任な道楽的な嗜好もあわせもっているようだ。最初にさんざんと奈津をかまっておきながら、そのあとは知らん顔に近い。そんな中、奈津は、いちずに志澤をもとめ、狂おしく恋慕の情に翻弄され、色魔の夢にさまよいつづける。私がいきなりこの物語にわし掴みにされたのは、奈津と志澤の情事を見せつけられたからだろう。そして、かれらが肌で確かめ合ったことは、すぐさま仕事である劇やドラマの中の官能にもつながってくる。
志澤が奈津によせたメールを少し読んでみようー「官能というものの扱い方、な。これを芝居でどう描いてみせるかが難しいところだな。舞台の上で延々キスやセックスをしてみせても意味はない。いたずらに扇情的な台詞を並べるのも安直に過ぎる。官能とはもともと、ふとした瞬間に別の何かのあわいから立ちのぼるものであって、それそのものをはっきり描いたのでは、もう色っぽくも何ともないんだ」。
なるほど、思う点である。以前、読んだ宮崎駿と養老孟司の対談のなかで、宮崎が官能というものは、裸を見せればいいんじゃないと怒っているところがある。
「走る少年を描くときにですね、足の裏に食い込む石の痛さとか、まとわりつく服の裾とか、そういうものを感じながら、走るっていうことを何とか表現したいって机にかじりつくのが、ぼくらにとっての官能性です」
「官能」とは何かという問いかけももらった気がした。
奈津が志澤との関係に疲れ、傷心したとき、身も心もあずけられたのが、昔つきあったこともあった、岩井良介である。志澤のような激しく気持ちがゆさぶられるのではなく、「いちばん暖かに満たされる」存在である。岩井その人は、セックスの技能も巧みである。けっしてさっさと自分だけ‥なんてことはなく、献身的に相手を包んでいく。そんな岩井を奈津自身がこう表現している。
「燃えあがるような激しい恋には発展しないだろうが、かわりに日だまりでつくろぐような安らぎは約束されている。互いに自分だけのものにならないけれど、そのぶん責任を負わずに済むし、自由でいられる。人生における愉しい寄り道のような、秘密の隠れ家のような関係。口で言うのはたやすいが、得るのは奇跡のように難しい、そんな関係」
奈津の岩井との関係をみながら、私が思っていたのは、「友情のセックスはありえるか?」ということだった。この二人は、それこそ友達以上恋人未満のような関係か、あるいは友達と恋人の間をたゆとうている。そのどきどきによって、友達の方へ近づいたり、恋人の方へ寄ったりする。そんなゆれうごく関係性をみた気がする。岩井の立場からすれば、けっして奈津は友達ではなく、恋人という位置付けだったのかもしれない。岩井自身も妻子がいる立場だから、奈津を恋人と呼ぶよりも愛人という捉え方だっただろうがが、そこには友達という位置付けではなかったはずだ。男が女とずっと友達でいられると思えないからだ。
奈津はそんな岩井との関係を終えて、大林一也と関係する。はた目には、奈津は人気売れっ子シナリオライターで、男をむさぼり食う、肉食系女子だ。浮名をながそうが、写真雑誌にキャプチャーされようが、わが恋路を驀進していくたくましい女性である。しかし、それは淫乱でもなく男狂いでもなく、むしろ自然な性の発露ではないかと思えてくる。
「‥すべては『浮気』が始まりだったのだ。夫の省吾と暮らしながら志澤と『浮気』をし、志澤に突き放され岩井と『浮気』をし、岩井では満たされない寂しさに大林と『浮気』をした。そうではない、自分にとってはどれもが『恋』だったなどと言い張っても、誰が信じてくれるだろう」
私は信じる。そのどれもが「恋」であることも、これからも「恋」が起こるのも信じるし、その考えや行いを支持したい。奈津はいつだって、浮ついてなんかない。むしろ、純愛といえるような一途な思いと行いは、なんら矛盾することなく成立している。そして、最後には達観の境地にたどりついたようだ。
「‥女としてまだ間に合う間に、この先どれだけ、身も心も燃やし尽くせる相手に出会えるだろう。何回、脳みそまで蕩けるセックスができるだろう。そのためならーそのためだけにでも、誰を裏切ろうが、傷つけようがかまわない。そのかわり、結果はすべて自分で引き受けてみせる」
この時、奈津はベッドの中で大林の太い腕を抱かれながら、その太い寝息をきいて目を閉じているのだ。そして、その状態に満足げでありながら、岩井のことも考えている。そんなラストだ。
そして、私はこの物語の中の奈津に大きく共感していた。生きていくとは、そんなことではないだろうか。人は仕事を行い、その目的を追求していく。高い理想をかかげれば、それだけ苦しむだろう。人は人を求めていく。男は女を、女は男を、いや同性でも同じである。人は人を求めているし、人には人が必要だ。しかし、その気持ちが通じるのはむづかしいし、たとえひととき通じたとしても、その状態がつづく保証などない。それでも、人は求める。いや、それだからこそ、相手を求めるのだろう。生きるとは、まさに人を求愛することなのだろう。
表題の「ダブル・ファンタジー」の意味とは何かをこう語っている。奈津が、岩井と昔つきあっていことを思い出している場面だ。
「そういえば昔、岩井をほんの一時期つき合っていた頃だ。彼の部屋で、レノンとヨーコが一緒に出したというアルバムを聴かせてもらったことがある。奇妙なアルバムだった。二人の作った曲が交互に入っているのだが、レノンが息子への愛情をせつせつと歌いあげたかと思えば、そのあとにヨーコが、男に対するあからさまな欲望を喘ぎ声混じりで歌いだすといった具合だ。当時はあきれて二度と聴く気になれなかったが、今になってみると思う。どれほど愛し合っても男と女はじつはまったく別の幻想(ファンタジー)を見ているのだという真実を、あんなにもくっきり浮き彫りにしてみせたアルバムはなかったのではないかー」
あのジョンとヨーコというほとんど一心同体を思えるようなふたりでさえ、実は世界の違うところを見ていた。それならば、かれらほど強く引き合っていない男女はどうすればよいのか。私たちはダブル・ファンタジーを見るのを受け入れるのか。相手が自分ではなく、どこか遠くのファンタジーの国の誰かに心を飛ばしているのを見逃すべきなのか。男と女はわかりあえない。だからこそ、肌をむさぼりそのふたりの空隙をうめるといった学者がいた。そんなファンタジーと向きあい、見ることをやめず生きて行く奈津はつよい。そんな奈津の生き方にあこがれながら、二つのファンタジーを、少しでも重なりあるようにできないだろうか、と私は考えていた。

