第一話「止木港の小さな家」
止木港(とまりぎこう)の名前を聞いたのは、観光課に配属されて二日目のことだった。
「港の遊歩道に、古い休憩所があるんだ。
月に一度でいいから、様子を見てきてくれ」
上司はそう言って、地図を一枚渡してきた。
地図の端に、小さく丸がついている。
そこに「止まり木」と書かれていた。
休憩所といっても、詳しい説明はなかった。
壊れていないか確認するだけでいい、とだけ。
正直、港の仕事をするつもりで就職したわけではない。
でも、断る理由もない。
その日の午後、地図を片手に一人で止木港へ向かった。
港に着くと、潮の匂いが強くなった。
漁船がゆっくり揺れていて、
遠くでカモメの声が聞こえる。
地図にある遊歩道は、港の端から伸びていた。
観光客向けというより、地元の人が散歩に使うような、
素朴な道だ。
歩き始めてすぐ、風の音が変わった。
港のざわめきが遠ざかり、
波の音が近くなる。
道はやがて細くなり、
視界の先に、小さな木の家が見えてきた。
「あれか……?」
思わず声に出していた。
近づくと、家は思ったより古かった。
外壁は潮風で白く褪せ、
屋根の端には少し苔がついている。
玄関の横に、手書きの木の板が立てかけられていた。
「止まり木」
地図にあった名前と同じだ。
扉には鍵がかかっていない。
取っ手の横に、紙が一枚貼られている。
「ご自由にお使いください。
持ち込んだものはお持ち帰りください。
電気を使ったら、帰るときに消してください。
困ったことがあれば、こちらへ。」
休憩所というより、
誰かの家をそのまま開放しているような雰囲気だった。
恐る恐る扉を押すと、
木の匂いがふわりと広がった。
中は静かで、明るい。
窓から差し込む光が、床に柔らかい影を落としている。
ソファとクッションがひとつ。
小さなテーブル。
その上に、一冊のノート。
ひもで繋がれたペンが、かすかに揺れていた。
「……ノート?」
開いてみると、
知らない誰かの短い言葉が並んでいた。
「海がきれいでした」
「また来ます」
「ここにいると落ち着きます」
誰が書いたのかはわからない。
でも、どれも丁寧な字だった。
ページの端に、
小さな押し花が挟まっている。
それを見た瞬間、
胸の奥が少しだけ温かくなった。
仕事で来ているはずなのに、
なぜか足が止まる。
波の音が遠くで響く。
風がカーテンを揺らす。
誰もいないのに、
誰かの気配だけが残っているような場所だった。
――ここは、なんなんだろう。
そんな疑問が、静かに胸に浮かんだ。
扉を閉めると、
潮風が頬を撫でた。
初めての見回りは、
思っていたよりずっと静かで、
そして、少しだけ心に残るものがあった。
