『日本国憲法』よりも人権保障を徹底!生命尊重・積極的是正措置・スラップ訴訟対策を明記 ―― 【逐条解説】正統憲法復原・改正草案 第二章 国民の権利
正統憲法復原・改正草案第二章の逐条解説です。
草案全体はこちらをご覧ください。
第18条 【国民たる要件】
第18条 日本国民たる要件は、法律でこれを定める。
『日本国憲法』をそのまま維持
この規定は『大日本帝国憲法』でも『日本国憲法』でもほぼ同じですので、強いて変更する理由は見当たりません。
一部の憲法改正草案では帰化の制限を憲法に書き込むべきと言うものもありますが、帰化の資格についてはそれこそ政策的に立法府が責任を持って判断すべきものです。また「帰化した後も三世代は参政権を与えない」というような憲法草案を公表している国政政党もありますが、そのような事実上の民族差別につながるような規定を憲法に書き込むべきではありません。
第19条 【個人主義、生命尊重主義】
第19条 すべて国民は、受精の刹那より死後に至るまで、個人として尊重される。その生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利は、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
人命に勝る人権無し
胎児を含むすべての国民を個人として尊重することを明記しました。「生命」なくして「自由」も「幸福追求」もあり得ません。また死後であってもその人格権は保障されるようにしています。
プロチョイスという、女性の権利を名目に堕胎を自由化したい思想においては、胎児に生命はないだの胎児には生命はあっても人格はないだのと言った屁理屈を掲げていますが、どんな屁理屈をこねても人命に勝る人権はありません。堕胎罪が女性への権利侵害だというのであれば、堕胎罪で罰せられるのを妊娠させた男性にすればよいのです。もちろん、彼らは罰せられるのが男性になると今度は「男性の権利」を掲げて堕胎罪廃止を主張するのが目に見えていますが、そのような生命軽視思想はこの憲法草案において明確に否定されます。
なお、念のために言いますが「最大限の尊重」というのはあらゆる例外を認めない趣旨ではありません。緊急避妊や性暴力の場合における堕胎等を禁止するべきと言っている生命尊重(プロライフ)活動家はこの国には少なくとも政治家や著名人レベルにはいませんし、この憲法草案の条文上もそうはなっていないので、藁人形論法によるデマには注意していただきたいものです。プロチョイスという人種は平気で藁人形論法による印象操作をして恥じない人たちです。
第20条 【公共の福祉】
第20条 この憲法の保障する基本的人権はすべて公共の福祉及び公共の秩序に遵う。公共の福祉及び秩序に関する事項については法律でこれを定める。
小沢一郎試案に基づき「公共の福祉」一本化
小沢一郎先生の「日本国憲法改正試案」では、占領憲法無効論や参議院の「権力無き貴族院」化、国連中心主義等が注目されていますが、同草案で小沢一郎先生は「特に目につくのは「公共の福祉」という言葉だ。第十二条と第十三条に出てくる。さらに第二十二条、第二十九条と、頻繁に出てくる。「公共」という言葉は乱用の域に達しているのに、「公共の福祉」という言葉が何を意味するのか、憲法にはまったく定義されていない」「憲法には「公共の福祉」の規定が独立していなくて、条文に埋もれさせているから抽象的で意味不明になる」と指摘されてもいます。
それは全く的を射た批判であり、それにともない、小沢一郎先生が提言した文言を一言一句違わず使って公共の福祉を一本化する条項を書いています。
なお小沢一郎先生の草案では公共の福祉に加えて公共の秩序も加えられており、これもそのまま記しています。これまであらゆる規制を「公共の福祉」の拡大解釈で行ってきた結果、中小企業や自営業者を守るための出店制限が、薬事法のように明確に違憲とされたり、大店法のように裁判が起きる前から違憲論者の主張を受けて国会が規制緩和をしたり、といった事態も発生していました。そのような事態は完全に防がれることとなります。
第21条 【幸福追求権】
第21条 この憲法が保障する生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならない。
小沢一郎先生の試案をそのまま採用
幸福追求権については人権の総則的な規定です。ここでは小沢一郎先生の試案がもっとも完成度が高いのでそのまま使用させていただきました。
第22条 【平等原則、積極的是正措置】
第22条 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、民族、信条、性別、性自認、性的指向、恋愛指向、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
2 前項の規定は、貴族、国民宗教教師、国民宗教教学者、神職及び巫覡並びに位階を有する者に対して、公共の福祉及び公共の秩序に貢献させるための特別な権利及び義務を附与することを禁ずるものではない。
3 特定の同一性を有する国民の集団の、歴史的に形成された権利及び良心の表現のために要求される権利並びに政治的、経済的又は社会的地位を向上させる目的で法律により認められた権利は、他の同一性を有する国民の集団又は特定の分野において支配的若しくは標準的な人種、民族、信条、性別、性自認、性的指向、恋愛指向、社会的身分若しくは門地の国民と政治的、経済的又は社会的関係において対等となることを目的に行使される限りにおいて、尊重されなければならない。
民族差別やSRGM差別の禁止を明記
『日本国憲法』の平等権の規定をおおむね踏襲はしましたが、『日本国憲法』には明記されておらず類推解釈がなされていただけの「民族」「性自認」「性的指向」「恋愛指向」を明記しました。なお「性別」と「性自認」を区別していることでも分かるように、ここでは性別が身体性別のことであることを前提としており、性自認至上主義(トランスジェンダリズム)を採用しているわけではありません。むしろ憲法で性別を性自認と区別している以上、公衆浴場等に関する法律の性別の規定が新体制別のことであるという解釈が、この条文で確定することとなります。
性的指向と恋愛指向についても現行の「LGBT理解増進法」では混同されて「性的指向」に一本化されてしまっています。性愛と恋愛が異なることは言うまでもありません。アロマンティック・セクシャルやロマンティック・アセクシャル、クロスオリエンテーション等の権利を明確に守るため、この憲法の下では性的指向と恋愛指向を混同する法律はすべて無効となり、改正されることとなります。
目指すは「実質的平等」
貴族や宗教家については、形式的平等を決めても社会的には有利な地位になります。それは収入等の意味では無く、名声や影響力の意味合いで、です。明治天皇の(女系の)玄孫が、右派に対しては「憲法無効論批判」を、左派に対しては「女系天皇・女性天皇批判」を、それぞれ行い一定の層に影響力を抱いている事例もあります。彼が発言をすること自体は自由ですが、すでに報道されているような二股交際等は、彼の言動の影響力を鑑みるに一般人よりも厳しい制裁を加えた方が、より公共の秩序に適います。彼の父親によるオリンピックでの不正疑惑も同様です。
また第3項の「特定の同一性を有する国民の集団」としては、具体的には、女性や少数民族等を想定しています。過去には国立大学で女子大があるのは男性差別だ、などという中二病患者が訴訟を起こした例もありました。この憲法が成立すると選挙や入試での女性枠を設置することは明確に合憲となります。
ちなみに、離婚訴訟における親権の「母性優位の原則」という慣習法は「特定の同一性を有する国民の集団の、歴史的に形成された権利」に該当することとなります。
第23条 【輔翼表現人、良心的兵役拒否】
第23条 国民は個人として国家を表現する。
2 前項の規定を全うするため、国民は国防及び納税の権利を有する。
3 国民は自らの良心によって前項の権利を行使し、また、自らの良心に基づいて兵役を拒否する権利を絶対に侵されない。
国民の「義務」の憲法明記は不要
第2章の表題を「国民の権利」として「義務」の二文字を削除したのは誤植では無く、憲法典に国民の「義務」を明記する必要性がないからです。そもそも法律においては「Aの義務はBの権利」という関係が成り立ちます。つまり憲法においては「国民の権利は国家の義務、国家の義務は国民の権利」ということです。すると憲法上の義務は国家の権利と云うことになりますが、『日本国憲法』における納税・勤労・教育も何がどう国家の権利なのか、明確ではありません。
本条に関係のある所で言うと、『大日本帝国憲法』でも『日本国憲法』でも明記されていた「納税の義務」ですが、これは国家の徴税の権利と対を為すものと言いたのかもしれませんが、外国人でも脱税をすれば罰せられるように、わざわざ憲法典に明記するほどのものではありません。憲法に義務と明記しないと徴税できないのであれば、外国人への課税が出来なくなってしますが、そんな馬鹿なことはありません。念のために言うと、、納税の義務を削除した本草案でも、脱税は第20条の公共の秩序の規定を基に取り締まれます。
本草案では国民と国家が表現関係にあることを前提に、納税と国防と権利として位置付けています。国防については、志願兵の時代においては、まさに祖国を防衛する権利としての位置づけが適切です。
第24条 【公務員就任権】
第24条 日本国民は法律および命令の定めるところにより官吏、吏員及びその他の公務員に就任することが出来る。
2 すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。
公務員就任権を大幅に強化
『日本国憲法』では削除された『大日本帝国憲法』第19条の「日本臣民ハ法律命令ノ定ムル所ノ資格ニ応シ均ク文武官ニ任セラレ及其ノ他ノ公務ニ就クコトヲ得」の規定を大幅に強化した上で復活させました。
広義での公務員には、裁判員や検察審査員のように、資格では無く抽選で選ばれる人もいるので、「資格に応じ」の部分は削除しました。なお、このように抽選で公務員になることは憲法に明記されていない『日本国憲法』下でも起こりうることですので、本草案でも明記してはいませんが、万が一、それが理由で事実上の国民改正兵が復活することが無いように、第23条では良心的兵役拒否の権利を定めています。
第25条 【公務員選定権】
第25条 公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。
2 公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する。
3 すべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。選挙人は、その選択に関して公的にも私的にも責任を問われない。
『日本国憲法』そのままの規定
これは『日本国憲法』第15条の1項、3項、4項の文言を現代仮名遣いに直しただけの内容です。第2項についても第24条第2項にそのまま書いています。
つまり『日本国憲法』からの大きな変更点はありません。ただ、敢えて言うならば、第22条の規定により選挙の女性枠等の設置は可能になっているので、本草案の他の条項を理由に実務上の変化が起こることは有り得ます。
第26条 【氏族と家族の表現普遍人性】
第26条 国民は氏及び家によって自らの良心に基づき国家を表現する。
2 前項の規定を全うするため、国民は祭祀及び教育の自由を有する。
3 国民は未成年の家族を監護し養育する権利を有する。
良心に基づく家庭の尊重を規定
氏も家も法人ではありません。ただ、筧克彦先生が家を「起源は役所」として国家の表現人(広義での機関)としていたように、氏や家を国の一種の機関のようなものとするのがこの規定です。とはいえ、氏族や家族の保護を名目に国が抑圧的な法律を制定しないように「良心に基づき」の一節を入れています。
氏(clan)と家(family)を区別しているのは、行政上「氏=名字」となっている現状ではやや混乱が想像できます。本来、名字(氏)は家名(family name)であり、氏の名称(clan name)は本姓です。この憲法が施行されると明治4年の「姓尸不称令」は撤回されて「藤原朝臣」や「源朝臣」と言った本姓が復活することが期待されます。
教育は家庭教育が本で学校教育は末に
祭祀の自由は信教の自由(45条)に、教育の自由は学問の自由(47条)に、それぞれ被るように見えるかもしれませんが、「前項の規定を全うするため」とあるように、これは信教の自由や学問の自由とは別方面からの権利規定です。ある意味、補完的な規定であると言えるかもしれません。
祭祀の自由は外見的には信教の自由とは重なることも多いかもしれませんが、信教の自由は個人としての自由であり、これは45条で別に明確に保障されています。ここでは氏や家としての祭祀を行う自由であり、例えば故人の葬儀や祭礼を行いたいと思えば、それを行う自由があるということです。そのために除籍謄本を確認する自由も当然に含まれます。従って、今は合法である各地の役所による除籍謄本の廃棄処分なども出来なくなるように法改正することを促す規定でもあります。
教育の自由は、もちろん学校教育や社会教育における教授の自由も含まれますが、教授の自由自体は学問の自由の制度保障としてこれまで解釈されてきたところでもあります。従って、ここで第一に特に保証している自由と云うのは、家庭教育の自由と云うことになります。学校教育や社会教育は家庭教育を補完するものとして位置付ける、ということで、『日本国憲法』よりも国民教育権説的な立場は明確となります。しかしながら、従来の国民教育権説の論者はしばしば教師の裁量の拡大を主張してきましたが、この憲法ではより家庭教育を重視した運用が期待されます。
第27条 【自治団体における個人主義】
第27条 国民は州及びその他の地方自治体、国民宗教並びにその他の公法人を個人として表現することにより国家を表現する。
個人の尊厳に基づいた自治団体
この規定は次の2つのことを規定しています。第一に、地方自治体や国民宗教と言った公法人を、国家や皇室のような自主団体では無く、自治団体として位置付けることです。第二に、自治団体もあくまでも「個人」である国民によって表現されることです。
第一についてですが、自主団体は別で述べたように自分自身で人格を認定される公法人です。つまり法人格を付与する法律のようなものがなくても、存在していれば当然に人格があると判断されます。対して、自治団体は法律その他で自主団体から人格を認定される必要があります。例えばアメリカやドイツの州は、地方自治体とされることもありますが、一応法的には連邦構成国であって、独立国では無いものの自主団体です。対して日本では明治22年までは都道府県も市町村も人格のない、国の一機関に過ぎませんでした。そして明治22年に一応法律によって人格が与えられましたが、こうして憲法に明記すると「地方自治体の人格を剥奪する」というような法律は違憲となります。
第二についてですが、こうして出来た自治団体は、独立した法人ですから、国家を独立して表現する人格でもあります。筧克彦先生は自然人だけでなく法人も、独立人であると同時に国家の表現人でもある、としていますが、それはここでも当てはまります。同時に、公法人は自分たちが国民によって表現される存在でもあります。国家を表現する国民があくまでも「個人」であることは23条で規定しましたが、他の公法人でも個人主義が適用されることを本条では明記することにより、国民宗教(第11章)や州(第12章)、基礎自治体(第13章)の解釈の指針を「国民の権利」の観点から示しました。
国民宗教の公法人化は信教の自由の制度保障
ここで公法人たる国民宗教が登場しています。国民宗教については第11章で詳しく述べますが、ここでは一部の国民宗教を公法人とすることの意義を述べます。宗教の公法人化はドイツ等で採用されている制度ですが、私は約200ぐらいの包括宗教法人は充分公法人化の資格を備えていると考えています。具体的にどれぐらいの数になるかは置いておくとして、ドイツのように信教の自由の制度保障として宗教の公法人化を定めるのは、多くの宗教法人が主に経済面で存続困難になっている現在、信教の自由(45条)を実質的に保護する上で必要になると考えます。
また、44条で規定した良心の自由が「国家からの自由」なのに対して、国民宗教という公法人の存在はそれを補完する「国家による自由」であるとも言えます。もちろん、国民宗教も「個人」として表現すると本条で明記しているのは、良心の自由と補完的に運用されることを想定しているからです。
なお、国民宗教が個人主体の宗教団体である以上、その運用面では神社神道とそれ以外の国民宗教には、必然的に違いが生まれます(57条、141条、146条、148条等)。神社神道とそれ以外の国民宗教とを形式的に平等に扱うと却って神社神道以外の国民宗教が抑圧されることもあり得ます(或いは、逆に神社神道が存続できなくなってしまうこともあり得ます)。そのために本草案でも扱いの違いは定めていますが、それは各条項で詳しく触れることとします。
第28条 【居住、移転及び職業選択の自由】
第28条 日本国民は居住、移転及び職業選択の自由を有する。
職業選択の自由は維持
『大日本帝国憲法』には「日本臣民ハ法律ノ範囲内ニ於テ居住及移転ノ自由ヲ有ス」とありましたが、この規定の拡大解釈で職業選択の自由をも認めてきたのが、戦前の憲法学者の間では主流でした。しかし、資本主義国家においては職業選択の自由を明記した方がよいということで、『日本国憲法』では「何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する」と記されるようになりました。本条はこの規定を取り入れたものです。
小沢一郎先生の草案の趣旨を取り入れて「公共の福祉に反しない限り」の部分は20条の「この憲法の保障する基本的人権はすべて公共の福祉及び公共の秩序に遵う」に一本化していますが、一般論として職業選択の自由等の制限は「公共の福祉」よりも「公共の秩序」による制限の方が適している場面も多いと考えます。20条の説明でも触れましたが、最高裁に違憲判決を下された「薬事法」に基づく薬局の距離制限や憲法違反の指摘を受けて改正された「大店法」の距離制限の規定は、「公共の福祉」の概念の無秩序な拡大解釈が問題となったのであって、市場原理主義的な動きを是正するという政策目標自体は妥当なものでした。従って、今後は「公共の福祉」の拡大解釈では無く「公共の秩序」に基づいて、より合理的な制限を加えて新自由主義に反対していく、ということになります。
第29条 【勤労の権利】
第29条 日本国民は勤労の権利を有する。公務、家政、事業及び労働を含むあらゆる形態の勤労は、国民の権利である。
2 賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める。
3 未成年の国民は酷使されない。
公務員も主婦も勤労者である!
勤労の権利は『日本国憲法』で定められましたが、政府は(裁判所の判例をも軽視して)これを極めて限定的に解釈してきました。公務員は「全体の奉仕者」であるとして労働法制の適用除外とし、主婦に至っては「勤労者」の枠組みから排除してしまっていました。
一般に、勤労者というと事業者と労働者というように区分されてきましたが、この憲法草案では「公務」と「家政」を明記することにより、勤労者の範囲を拡大しました。従って「未成年の国民は酷使されない」の規定はいわゆるヤングケアラーも対象となります。
なお『日本国憲法』の「勤労の義務」の規定は不労所得で暮らす国民を戒めるためというのが立法者の意図であったと推察しますが、普通誰かの「義務」というのは同時に誰かの「権利」でないと法的には意味がありません。そして、まさにこの規定は一体誰のどのような権利を保障しているのかが不明瞭であり、不労所得者を抑止することには全然ならず、それどころか「資産所得倍増」みたいな不労所得を増やす政策を堂々と政府が推進することを防ぐことすらできていないので、この規定は削除しました。憲法に国民の義務を定めることは慎重であるべき(というよりも、すべきではない)と考えます。
第30条 【勤労者の団結権及び団体行動権】
第30条 勤労者たる日本国民は団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利を冒されない。
2 公務及び事業に従事する者は、公共の安全を保持又は国民の幸福を増進するための法律の定める場合においては、前項の権利を行使できない。但し、前条第2項に基づいて制定された法律により定められた賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準を守らせる目的で前項の権利を行使することは妨げられない。
公務員やフリーランスにも団体行動権を保障
この規定の多くは『日本国憲法』の「勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利は、これを保障する」を踏襲したものですが、「冒されない」とより基本的人権としての地位を明確化しました。また第29条で「公務、家政、事業及び労働を含むあらゆる形態の勤労は、国民の権利」と明記している以上、ここでいう勤労者の地位は拡大しています。
もちろん、公務員や事業者は一般の労働者とは違いますから、第2項でその法に基づく制限は定められてはいますが、その上で立法者の裁量を抑えるために、ブラック労働については公務員や事業者でも団体行動権を行使できるとしています。事業者、つまり経営者に団体行動権は必要なのか、という方もおられるかもしれませんが、自営業者やフリーランスも今の法律では事業者として扱われています。委託業務契約により兼業禁止など労働者と事実上変わらない契約で働いているフリーランスもいます。それについてまだ法の整備が追い付いていないのが現状ですが、この憲法が実現するとそのような法の不備は速やかに是正されることとなります。
従って、現状よりもいわゆる労働三権は大幅に保障されることとなります。
第31条 【生命及び自由の保障と科刑の制約】
第31条 日本国民は法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪われ、又はその他の刑罰を科せられない。
『日本国憲法』の人権規定を踏襲
『日本国憲法』第31条「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない」を踏襲しています。
第32条 【裁判を受ける権利】
第32条 日本国民は裁判所において裁判を受ける権利を奪われない。
『日本国憲法』の人権規定を踏襲
『日本国憲法』第32条「何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪はれない」を踏襲しています。
第33条 【逮捕の制約】
第33条 日本国民は現行犯として逮捕される場合を除いては、権限を有する裁判官が発し、且つ理由となつている犯罪を明示する令状によらなければ、逮捕されない。
『日本国憲法』の人権規定を踏襲
『日本国憲法』第33条「何人も、現行犯として逮捕される場合を除いては、権限を有する司法官憲が発し、且つ理由となつてゐる犯罪を明示する令状によらなければ、逮捕されない」を踏襲しています。
第34条 【抑留及び拘禁の制約】
第34条 日本国民は理由を直ちに告げられ、且つ、直ちに弁護人に依頼する権利を与えられなければ、抑留又は拘禁されない。又その理由は法律に基づいた正当な理由でなければならず、且つ、要求があれば、直ちに本人及びその弁護人の出席する公開の法廷で示されなければならない。
2 抑留又は拘禁された日本国民は、弁護人並びに家族及び自身の信仰する国民宗教の教師若しくは教学者と接見する権利を侵されない。但し、家族及び自身の信仰する国民宗教の教師若しくは教学者との接見に犯罪の捜査における重大な支障があるときは、法律の定めるところにより、権限を有する裁判官が発した令状がある場合に限り、その接見に検察官又は法律の定める公務員を同席させることが出来る。
家族や宗教家との接見を権利に
『大日本帝国憲法』における「日本臣民ハ法律ニ依ルニ非スシテ逮捕監禁審問処罰ヲ受クルコトナシ」の規定を大幅に拡充し、『日本国憲法』の「何人も、理由を直ちに告げられ、且つ、直ちに弁護人に依頼する権利を与へられなければ、抑留又は拘禁されない。又、何人も、正当な理由がなければ、拘禁されず、要求があれば、その理由は、直ちに本人及びその弁護人の出席する公開の法廷で示されなければならない」も参考にした条文です。
しかしながら、第2項で『日本国憲法』で明記はされていないものの「刑事訴訟法」で認められた秘密接見権を憲法レベルで明記するとともに、『日本国憲法』下でも認められていなかった家族や国民宗教との接見権も認めています。国民宗教が公法人である宗教団体であることは27条で触れたとおりですが、政教分離規定が邪魔をして教誨活動活動等で限定的にしか認められていなかった権利を、大幅に拡充したことにより信教の自由の制度保障としての公法人化の具体的な意義を与えています。
第35条【侵入、捜索及び押収の制約】
第35条 日本国民はその住居、書類及び所持品について、侵入、捜索及び押収を受けることのない権利は、第三十三条の場合を除いては、正当な理由に基いて発せられ、且つ捜索する場所及び押収する物を明示する令状がなければ、侵されない。
2 捜索又は押収は、権限を有する司法官憲が発する各別の令状により、これを行う。
『日本国憲法』の人権規定を踏襲
『大日本帝国憲法』の「日本臣民ハ法律ニ定メタル場合ヲ除ク外其ノ許諾ナクシテ住所ニ侵入セラレ及捜索セラルヽコトナシ」を強化し『日本国憲法』の「何人も、その住居、書類及び所持品について、侵入、捜索及び押収を受けることのない権利は、第三十三条の場合を除いては、正当な理由に基いて発せられ、且つ捜索する場所及び押収する物を明示する令状がなければ、侵されない」「捜索又は押収は、権限を有する司法官憲が発する各別の令状により、これを行ふ」の規定をそのまま入れました。
第36条 【拷問及び残虐な刑罰の禁止】
第36条 公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる。
『日本国憲法』の人権規定を一言一句踏襲
『日本国憲法』第36条を仮名遣い以外は一言一句踏襲しています。
第37条 【刑事被告人の権利】
第37条 すべて刑事事件においては、被告人は、公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利を有する。
2 刑事被告人は、すべての証人に対して審問する機会を充分に与えられ、又、公費で自己のために強制的手続により証人を求める権利を有する。
3 刑事被告人は、いかなる場合にも、資格を有する弁護人を依頼することができる。被告人が自らこれを依頼することができないときは、国が公費でこれを附する。
『日本国憲法』の人権規定を一言一句踏襲
『日本国憲法』第37条を仮名遣い以外は一言一句踏襲しています。
第38条 【自白強要の禁止と自白の証拠能力の限界】
第38条 日本国民は自己に不利益な供述を強要されない。
2 強制、拷問若しくは脅迫による自白又は不当に長く抑留若しくは拘禁された後の自白は、これを証拠とすることができない。
3 日本国民は、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、又は刑罰を科せられない。
4 日本国民は、自己に不利益な唯一の証拠又は本人の自白以外において自己に不利益な唯一の証拠が証言のみである場合には、有罪とされ、又は刑罰を科せられない。
第二の「植草事件」「踏み字事件」「陸山会事件」を防げ!
『日本国憲法』38条とほぼ同じ規定ですが、第4項で「日本国民は、自己に不利益な唯一の証拠又は本人の自白以外において自己に不利益な唯一の証拠が証言のみである場合には、有罪とされ、又は刑罰を科せられない」を設けたことにより、被害者の証言や被害の訴えすらなく現場の警察官に「現行犯逮捕」されたことで反政府的な主張をする経済学者が痴漢冤罪で捕まった手鏡事件等の植草事件、警察官が買収の証言をでっちあげた鹿児島県の踏み字事件、そして、脱税で服役中の人物の裏付け証拠のない「証言」を基に捜査が行われた陸山会事件と言った、代表的な冤罪事件を防ぐ効果があります。
第39条 【遡及処罰・二重処罰等の禁止、検察の上訴の制限】
第39条 日本国民は実行の時に適法であつた行為又は既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問われない。又、同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任を問われない。
2 国が無罪の判決の下った日本国民についてその判決の確定前に上訴しようとする時は、検察官が法律の定めるところにより設置された検察審査会の同意を得なければならない。この検察審査会においては、被告人たる日本国民による弁明の機会が充分に与えられなければならない。
リメンバー陸山会冤罪事件!
第39条は『日本国憲法』第39条の「何人も、実行の時に適法であつた行為又は既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問はれない。又、同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任を問はれない」を踏まえたものですが、第2項で検察官の上訴制限を決めています。
言うまでもなく、明らかな国策捜査により強制起訴された小沢一郎先生が、陸山会冤罪事件で第一審で無罪判決が下ったにもかかわらず控訴されたため、『朝日新聞』から社説で「無罪判決が下ったとはいえ刑事被告人」等と扱われるなど、その人権が著しく侵害された件を立法事実として念頭に置いています。なお、陸山会冤罪事件においては控訴の結果、第二審では(第一審のような「秘書が虚偽記載を重大な問題と認識せず報告しなかった可能性がある」というレベルでは無く)「秘書が虚偽記載を故意に行ったとも言えない」というより完全な無罪判決が下っていました。
第40条 【刑事補償】
第40条 日本国民は逮捕、抑留又は拘禁された後、起訴されず又は裁判で無罪の判決を受けたときは、法律の定めるところにより、国にその補償を求めることができる。
不起訴でも刑事補償をせよ
これは今までも一部の憲法学者から指摘されていたことですが、起訴されるぐらいの嫌疑があっても無罪であれば刑事補償がされるのに、誤認逮捕等の「嫌疑なし」「嫌疑不十分」での不起訴では何ら刑事補償がないというのは、合理性を欠く規定ですので、不起訴の場合の刑事補償も明記しました。
第41条 【民事被告人の権利】
第41条 民事事件において被告となった日本国民は、次のいずれかに該当する場合は、国より公費で資格を有する弁護人を附される権利を有する。
一 原告が団体たる法人又は外国若しくは国外の国際法上の主体的実体である場合。
二 法律に基づき保有する資産に依って定められた階級より判断して、原告が被告よりも資産の多い階級である場合。
三 原告が被告よりも低い位階である、又は、被告が位階を有しており原告が位階を有していない場合。
四 原告が官吏又は公職にある者である場合。
五 その他法律で特に定められた場合。
スラップ訴訟を抑止せよ!
シャルル・ド・モンテスキューの格言を踏まえるまでもなく、自由の本質は合法的な行為を制限なく行えることです。スラップ訴訟を逸れて自由に活動できない社会にしてはなりません。
第一号は、法人や外国勢力からの訴えという、被告が不利になりやすい件で国選弁護人を付ける規定です。第二号は、富裕層による原告が貧困層の被告にスラップ訴訟をすると言う、今でもしばしば見られることについてです。第三号は、これまたモンテスキューの格言を踏まえることなく明白な「名誉」こそが君主政体のバネであるということを踏まえた規定です。畏れ多くも陛下から位階を叙位された者がスラップ訴訟を怖れて萎縮していてはなりません。逆に第四号は、名誉ある地位を悪用して公務員がスラップ訴訟を起こすことを抑止するものです。
現にワクチン薬害問題で野党議員に大手製薬会社がスラップ訴訟を仕掛けるような事案も発生しています。それを防ぐのがこの規定です。
第42条 【通信の自由、検閲の禁止】
第42条 日本国民は通信の自由を有し、信書の秘密は侵されない。
2 検閲は、これをしてはならない。
『日本国憲法』の人権規定を踏襲
『大日本帝国憲法』の「日本臣民ハ法律ニ定メタル場合ヲ除ク外信書ノ秘密ヲ侵サルヽコトナシ」の規定を『日本国憲法』の「検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない」を基に強化したものです。
「通信の自由」と書くことで、インターネット時代においてより権利を拡張する根拠となることが期待されますが、現状からの大規模な変化がこれから直ちに導き出せるわけではありません。
第43条 【所有権】
第43条 日本国民は所有権を侵されない。
2 公益のために行われる私有財産の処分は、正当な補償がある限り、法律に基づいて行われる。
正統憲法の規定を踏襲
『大日本帝国憲法』の復原・改正として「日本臣民ハ其ノ所有権ヲ侵サルヽコトナシ」「公益ノ為必要ナル処分ハ法律ノ定ムル所ニ依ル」の規定を踏襲しました。但し、補償については『日本国憲法』の「私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる」を踏まえたものです。
財産権では無く所有権としたことで、正統憲法復原・改正の象徴的な表現としましたが、実務上の変化はありません。
第44条 【思想及び良心の自由】
第44条 日本国民は思想及び良心の自由を侵されない。
信教の自由と別に「良心の自由」の意義
この部分の解説はやや長くなりますが、なぜ『大日本帝国憲法』の復原・改正でありながら『日本国憲法』にきわめて類似した規定を、それも「自民党改憲草案」のような『日本国憲法』改正案よりも『日本国憲法』を踏まえた内容にして置いているのか、その思想的意義はきわめて重要、まさにこの憲法草案の「生命」ともいうべき部分ですので、他の条項と比べて極めて長い解説になりますが、ご了承いただきたいです。
日本思想史学者の古田武彦先生が論文「近代法の論理と宗教の運命」で「日本国新憲法にいささか奇妙な問題を含む箇条があります。"奇妙な"というのは、第一に当の主権者日本国民にはその意味が必ずしも自明でないこと、第二に憲法学者達も日本国民に対する説明に苦しんで種々の興味深い学説をこしらえているからです。無論、あの名高き第九条のことではありません」として、この「第十九条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」を取り上げています。そして古田先生は「よく考えてみればますますはっきりしなくなるような、単語のつらなり方です。「リョウシン」と発音する時、大部分の日本国民の頭に浮かぶ漢字が「両親」であることは無論ですが、「良心」という漢字として日常語に用い馴れているインテレクチュアルな階層にとっても、「心情の中の善なる部分」といった意味で、多くは「良心的」といった風に、「心中の善なる部分に従わんとする傾向」を漠然と軽く(情緒的に)使う場合が多く、「ーーの自由」という風に結びつく用法はきわめて見馴れぬ、シックリしない用例なのです」とした上で、憲法学者による大きく3つの解釈を紹介しています。
第一に、判例でも用いられる有権解釈である「普通の日本文章法にのっとって「思想の自由」と「良心の自由」を圧縮簡略化したものと理解(「及び」の正常の用法ではそうなります)せず、あくまで「思想及び良心」を一団の語とし、しかも「良心」は「思想」の一部分で、思想と良心は程度の差異に過ぎず、右の一団の語は「思想の自由」と同じ意味になると結論する」もの。しかし、それだと「ならば第十九条は『思想の自由は・・・・』と書かれてあった場合と、同一になってしまうではないか」という疑念がわくとします。
第二に、京都学派における「思想とは人があることを思うこと」「良心とは人が是非辮別をなす本性により特定の事実について右の判断をなすこと」とするもの。これについても「はなはだ奇妙な定義」で「そういった良心の意味は少なくとも現在までの日本国民の辞書にはない語意」となる上に「世界法制史上に類を見ない珍奇な立法となる」と指摘しています。
第三に、「英文の方の"conscience"の意味にひきもどされ、逆にもっぱらその語の日本語訳としてのみ「良心」の語を解そうとするもの」。「古典的文献の中で、良心〈conscience〉というのは外形的な宗教行為たる「礼拝」〈worship〉に対立する「内心の信仰」という意味に他なりません」とし、田中耕太郎らの「内心の自由」とする解釈を紹介しています。しかしこれについても「この立場からはむしろこの項は「信仰の自由」と言った方がいいと言われるに至る」「日本国憲法内の整合上から言うと、はなはだ奇妙なことになります。何故なら、第二十条に「信教の自由」の項が出て来て、ここは英文では'Freedom of religion'となっていて、当然「信仰の自由」はその中に含まれるのみか、その中核となるはずだからです」としています。
そして「第一に、日本国憲法は英文の方が原文的意義をもった点が少なくないこと」「第二に、この第十九条、第二十条は当時の占領軍政部G・H・Qにとって特に力点の置かれた部分の一つであると思われること」を踏まえ、「第二十条の「信教の自由」についての述語は「何人に対してもこれを保障する」であるのに対し、第十九条の「思想及び良心の自由」に対する述語は「これを侵してはならない」とある点が重大」とし、「ここで注意すべきは、世界立法史上、基本的人権、つまり自然法としての人間の自由権は、その立法史上の淵源の位置に「良心の自由」を見出す」「新憲法中の「不可侵」性をになう基本的人権中の淵源的中核として、旧憲法の天皇の不可侵性、言いかえれば、天皇信仰(天皇統治の神聖国家帰依)の不可侵性に対決する重大な意義をになっているもので、新憲法の中核的生命と言わねばなりません」と結論付けています。
そして「明治憲法に一応「信教の自由」が認められつつも、“安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル”限りであったこと、そしてその「臣民タルノ義務」の核心が天皇の神聖「不可侵」信仰にあったことを想起し、そのため、旧憲法条文上の「信教の自由承認」が本質的に潰滅に帰した歴史的事実に思い至れば、新憲法が第二十条での「信教の自由の保障」のみに安心できず、第十九条に「良心の自由」の「不可侵」を置いたことの歴史的、心理的理由とその意義はあまりに明瞭であると言わねばなりません」という風に古田先生は論じています。さらにドイツのボン基本法で「信仰、良心の自由、および宗教および世界観の告白の自由は、不可侵である」という規定がありつつ宗教の公法人化の規定もあることに触れ、「イタリア、ドイツ内部の宗教各派にとって、上記の諸項目は決して「信教の自由」の侵害と見えているのではなく、かえってこれらの条項こそ具体的に「信教の自由」を保証しているものと見えていること、もしこれらの条項を国家が抹殺しようとするならば、それらこそ獲得せられきった「信教の自由」への許しがたい「侵害」と見えるだろうと思われる」ともしています。
長々と引用しましたが、自民党憲法草案では「思想及び良心の自由は、保障する」という風に改正をされ、これでは「良心の自由」と「信教の自由」の区別が曖昧になります。「信教の自由」自体は本憲法草案で定めている国民宗教の公法人化(第27条等)と矛盾はしませんが、その国家神道的展開を防ぐためには「良心の自由」の「不可侵」の明記が必要であり、この憲法草案の「生命」ともいうべき規定となります。
第45条 【信教の自由】
第45条 日本国民は信教の自由を有する。
2 日本国民は宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3 日本国民はその信仰の表明及び実践においてなんら不利益を被ることは無い。
イスラム・ヘイトに媚びるな
第1項と第2項は『日本国憲法』の踏襲ですが、第3項は国民宗教の公法人化(27条)と矛盾しかねない政教分離の規定では無く、国民の信仰実践の自由を保障するものとしています。小沢一郎先生の言う「第二十条の信教の自由に基づいて最高裁が憲法違反とした愛媛県の「玉串料判決」は、八百万の神を信じる日本人にはピンとこない」という問題意識も踏まえています。
現代の立法事実として重要なのは、国家が宗教に過度に中立的過ぎて見過ごされがちであったマイノリティ信仰の実践の権利を、明確に認める必要があることです(「第11章 国民宗教」もその制度保障ですが、本条第3項は個人の側面に照射しています)。
例えば、イスラム教徒のハラルフードを食べる権利や土葬をする権利は、公権力も明確に保護しなければなりません。学校給食ではベジタリアンの生徒に無理矢理肉を食わせるようなことが横行していますが、そういう公権力行使が禁止されます。もちろん、イスラム教徒への配慮をやめろというような、イスラム・ヘイトは排除されます。言うまでもなく、フランスのライシテのようにムスリマのスカーフを学校で禁止するような、政教分離を名目とした宗教弾圧は論外です。フランスは反面教師としてのみこの草案では意識されています。
第46条 【表現の自由】
第46条 日本国民は言論、著作、印行、集会、結社及びその他の表現の自由を有する。
『日本国憲法』の人権規定を踏襲
『大日本帝国憲法』の「日本臣民ハ法律ノ範囲内ニ於テ言論著作印行集会及結社ノ自由ヲ有ス」を『日本国憲法』の「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」を踏まえて強化しています。
第47条 【学問の自由】
第47条 日本国民は学問の自由を有する。
『日本国憲法』の人権規定を踏襲
『日本国憲法』の「学問の自由は、これを保障する」の規定を踏襲しています。もちろん大学の自治等についての解釈にも変更はありません。
なお、本草案第50条第3項の「公共の運営する高等教育及び専門教育を無償で受ける権利」を踏まえると、大学の自治(教授の自治)だけでなく学生の自治についても強化傾向に解釈される可能性はありますが、具体的なことは立法府の裁量によるでしょう。もちろん、私は学生自治も拡大すべきという立場ですから、そういう解釈の余地のある構成にしているわけですが。
第48条 【婚姻の自由】
第48条 日本国民は婚姻の自由を有する。
2 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。
「男女平等=家庭解体」ではないことを明確に
『日本国憲法』第24条では「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」とあります。私からすると「両性の合意のみ」という表現は同性婚を明らかに排除するものですし、私自身大学でそう習ったのですが、昨今の「解釈改憲」についての批判はここでは置いておきます。
ここはシンプルに「婚姻の自由」として、余計な要素を排除しました。これにより、婚姻が専ら夫婦の利益のための制度という誤解も避け、男女平等が家庭解体に繋がるという懸念を払拭します。第2項は『日本国憲法』そのままであり、個人の尊厳と両性の本質的平等は維持します。
第49条 【生存権、国富配当】
第49条 日本国民は、国家の隆昌又は自身の幸福の増進を図る基盤となる、健康で文化的な生活を営むことが出来る。
2 前項の目的を達成するため、日本国民は、その必要又は勤労に応じて、法律の定める国富の配当を受ける権利を有する。
「最低限度」では裁量が大きすぎる
『日本国憲法』の「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」の規定は、条文自体には何の問題もありませんが、いざ実務となるとプログラム規定説が判例で採用され、結局「最低限度」が何かは立法・行政の裁量にゆだねられてしまいました。
この草案では「国家の隆昌又は自身の幸福の増進を図る基盤となる」という文言を入れることにより、公民権や幸福追求権の行使が実質的に出来ない水準の補償であれば違憲である、という風にしています。これは生活保護の基準を定めたというよりも、ホームレスからの公民権剥奪と言った措置をも禁ずる意図もあります。
第2項はベーシックインカム的な国民配当制度を構想しており、水際作戦の余地がない点で、生活保護よりも合理的であると自負しております。「勤労に応じて」の部分ですが、本草案では家政も勤労に含めてますから(29条)、家事労働等も正当に評価した形の国民配当制度を設けるということになります。
第50条 【教育を受ける権利】
第50条 日本国民は、法律の定めるところにより、その能力又は必要に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。
2 未成年の国民は、普通教育を無償で受ける権利を有する。
3 日本国民は、その能力又は必要に応じて、公共の運営する高等教育及び専門教育を無償で受ける権利を有する。
「義務教育」といういい方は避ける
『日本国憲法』の「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する」は踏襲しましたが、「すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ」という言い方だと子供を無理矢理でも学校に連れていかなければならない、現に子供が不登校であるのを放置すると児童相談所が子供を「保護」して保護者から隔離するという運用が行われていることも報告されていますし、世間一般でも「不登校は問題である」という認識で語られており、子供にとって「権利」であるはずの教育が「強制」になりつつあることは問題であると考え、改めています。
そもそも本来「子女に普通教育を受けさせる義務」というのは、保護者では無く国のはずです。保護者の義務としてしまうと、一体誰のどういう権利を履行するための義務なのか、不明瞭になります。
なお高等教育無償化だけでなく専門教育無償化も明記することや「その能力又は必要に応じて」という書き方により、より多様な教育の在り方を明記しました。高等教育無償化や専門教育無償化を公立に限定したのは、私立教育無償化はそれを名目に文部科学省がカリキュラムに干渉してくる恐れがあるからです。大学や専門学校のカリキュラムへの干渉の余地は排除しなければなりません。
第51条 【請願権】
第51条 日本国民は請願の権利を有する。
奈良時代からある公民権の根本
この規定は『大日本帝国憲法』の「日本臣民ハ相当ノ敬礼ヲ守リ別ニ定ムル所ノ規程ニ従ヒ請願ヲ為スコトヲ得」や『日本国憲法』の「何人も、損害の救済、公務員の罷免、法律、命令又は規則の制定、廃止又は改正その他の事項に関し、平穏に請願する権利を有し、何人も、かかる請願をしたためにいかなる差別待遇も受けない」を踏まえたものですが、こうした請願の規定は律令国家の時代から法的には凡ての公民に保障されていた権利であり、これを侵害していた武家政権等が違法統治であったわけで、況してや立憲政体においては絶対に削除してはならない規定です。
「敬礼」や「平穏」と言った余計な要素は削除しましたが、実務上に大きな変化は無いです。「かかる請願をしたためにいかなる差別待遇も受けない」は平等権(22条)の規定があるので明記はしませんでした。
第52条 【公務員の不法行為による損害の賠償】
第52条 日本国民は、公務員の不法行為により損害を受けたときは、法律の定めるところにより、国又は公共団体に、その賠償を求めることができる。
『日本国憲法』の人権規定を踏襲
『日本国憲法』の「何人も、公務員の不法行為により、損害を受けたときは、法律の定めるところにより、国又は公共団体に、その賠償を求めることができる」という規定を踏襲しました。
第53条 【有事における軍人の権利の制限】
第53条 本章に掲げたる条規は、戦争又は国家事変の場合においては、天皇の大権の行使を妨げない限度においてのみ、軍人に適用される。
軍人の権利も平時は保障
『大日本帝国憲法』における「本章ニ掲ケタル条規ハ陸海軍ノ法令又ハ紀律ニ牴触セサルモノニ限リ軍人ニ準行ス」を改正し、軍人の権利が制限されるのは有事だけとしています。有事における軍人は人を殺す側、いわば加害者側になる可能性が高いのですから、権利主張をすることが制限されるのは当たり前のことです。もちろん、本草案で志願兵制を採用していること(23条)が前提となっている規定です。
非常大権の規定は削除
『大日本帝国憲法』には「本章ニ掲ケタル条規ハ戦時又ハ国家事変ノ場合ニ於テ天皇大権ノ施行ヲ妨クルコトナシ」という非常大権の規定がありましたが、これは大東亜戦争の際にも発動されなかった規定であり、削除しました。
有事においても緊急勅令大権(8条)や戒厳大権(9条)で対応できるのであり、憲法上の国民の権利を制限できる非常大権は不要です。この点、自民党改憲草案の緊急事態条項は非常大権に近い規定なので危険であると考えます。
なお、筧克彦先生は植民地へ事実上憲法が適用されていないことを、「憲法は適用しているが委任立法で対処しているだけで合憲だ」という政府見解も、同じ国家法人説の美濃部達吉先生の「植民地に憲法を適用しないのはどこの国でも同じである」という見解も、どちらも退けて、非常大権の規定で説明していました。筧克彦先生としては、政府見解が通用するなら委任立法で何でもできてしまう、美濃部説だと植民地に立憲主義が適用されないことになってしまう、という両説の矛盾を止揚しようとする苦肉の策であったと推察しますし、筧先生自身、立法者の意思に反する解釈であることを認めていますが、皇太后陛下に進講するような立場であった筧先生の苦渋は理解するものの、現代の私から見ると単に当時の植民地支配のあり方が憲法に違反する人権侵害であったとしか評価できません。もちろん、その根拠となるような規定を維持しておく意味はありません。
第54条 【皇族及び外国人の権利】
第54条 本章に掲げたる条規は、個人の尊厳の保障又は条約の履行のために必要ある時は、国民の権利の正当な行使を妨げない限度において、法律の定めるところにより皇族及び外国人にも適用される。
人権は普遍的なものである
人権は天賦のものですから、本質的に普遍的なものです。ある憲法学者は「皇族は階級に属する以上、憲法の想定する『個人』ではないから人権保障の適用外である」等と言っていますが、階級制度のあるイギリスでもそんな解釈はされていません。皇族にも外国人にも人権は保障されます。
しかしながら、憲法の最大の目的は国民の権利を守ることですので、法律の留保をここでは定めています。いずれにせよ、皇族や外国人も「個人の尊厳の保障」は適用されます。外国人については憲法に明記しなくても判例が既に人権を保護してくれていますが、皇族については眞子内親王殿下へのバッシングを見ると憲法に明記の必要性がかなり高いです。もちろん外国人でも、入管の対応が「個人の尊厳」を侵害する場合には違憲になるということで、現行の判例よりも強化した人権保障が想定されますが、それも具体的な立法措置に左右されるものではあります。
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