人はなぜ罪を犯すのだろう ― 『少年たちの贖罪』第11章「いじめられ体験がもたらしたもの」を読んで ― 2026年7月9日(木)R8
今日は68歳の誕生日だった。
そんな日に、青嶋多津子先生の『少年たちの贖罪』第11章「いじめられ体験がもたらしたもの」を読み終えた。
この章は、私にとってこれまで読んできた中でも特に重い内容だった。
少年院で集団暴行が疑われる事件が起きても、被害を受けた少年は「いじめはありません」と言い続ける。
体には内出血がある。それでも仲間をかばい、自分はサッカーでぶつかっただけだと言う。
教官たちは入浴時にあざを確認し、夜は20分おきに巡回し、小さな異変も見逃さないよう努めている。それほど注意を払っていても、いじめを完全になくすことはできないという現実があった。
やがて、一人の少年の過去が語られる。
彼は中学生の頃、仲の良かった友人たちからいじめを受けるようになった。
きっかけは、自分の宿題を写させなかったことだった。
本来なら当たり前の行動である。それなのに、「お前のせいで先生に怒られた」と責められ、暴力や無視が始まった。
やがてクラス全体へ広がり、制服を隠され、殴られ、物を奪われ、誰も止めなくなっていく。
担任教師に相談しても、「君にも悪いところがあったんじゃないのか」と言われたという。
その言葉を読んで、私は元高校教師として複雑な気持ちになった。
教師は子どもたちのすべてを見られるわけではない。
だからこそ難しい。
しかし、相談した子どもが「先生は助けてくれない」と感じてしまったことは、とても悲しい。
高校へ進学してからも恐喝は続き、万引きを強要され、母親の財布からお金を盗むようになる。
そして最後には、一人の命を奪う事件を起こしてしまう。
もちろん、どのような理由があっても、人の命を奪うことは決して許されることではない。
少年自身も、そのことを十分理解し、深く苦しみ、自分の罪と向き合っていた。
しかし、この章は「罪を正当化する物語」ではなかった。
「なぜ、そこまで追い詰められたのか」を考える物語だった。
印象に残ったのは、少年の言葉である。
「いじめられても、一人きりになるよりはましだった。」
「今日殴られないように、それだけを考えて生きていた。」
外から見ると理解しにくい行動も、本人にとっては生き延びるための必死の選択だったのかもしれない。
さらに胸を打たれたのは、事件の被害者となった少年の両親だった。
我が子が長年いじめや恐喝を繰り返していたことを知り、加害少年への減刑嘆願書を提出したという。
青嶋先生が知る限り、それは唯一の出来事だったそうである。
我が子を失った悲しみの中で、それでも相手の少年の苦しみに目を向けたご両親の姿に、私は言葉を失った。
そして最後に、青嶋先生は少年へこう語りかける。
「あなたが生きていてくれてよかった。」
この一言には、教育者としての覚悟と、人を信じ続ける強さが込められているように思えた。
私は33年間、高校で英語を教えてきた。
教育の喜びも知っている。
しかし同時に、人間関係の難しさや、教師一人ではどうにもできない現実も数え切れないほど経験してきた。
だからこの章を読みながら、「もし、どこかで信頼できる大人が一人でも寄り添えていたら、この少年の人生は違っていたのだろうか」と何度も考えた。
答えは分からない。
それでも、この章は私に、「人はその人の最後の行動だけでは語れない」ということを教えてくれた。
罪は罪として償わなければならない。
しかし、その罪に至るまでの人生にも目を向けること。
それが青嶋先生の教育であり、私がこの本から学び続けていることなのだと思う。
#少年たちの贖罪 #青嶋多津子 #いじめ #教育 #少年院 #教師 #読書記録 #68歳 #学び直し #Kanon
