【神戸市北区】丹生山――科学が明かした「丹」の正体と、二千年の祈り
丹生山 ― 赤い土が語る古代の記憶
※この記事は「【神戸市北区】丹生山に眠る古代の謎|神功皇后が求めた"丹"とは?──古代中国では仙薬とされた赤い土」(https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/96417fde341c186ae8e49d717d24c494684e408b)の続きです。
赤い土の正体
前回の記事で提起した問い――「その事実とは一体何か?」。その答えは、昭和の調査記録の中に眠っていました。
丹生山で確認された赤い土は、ありふれた鉄分を多く含む赤土ではありません。その地層には硫化水銀――すなわち辰砂(しんしゃ)と呼ばれる鉱石が含まれていたのです。
科学が明らかにした水銀の存在
その存在が初めて明らかになったのは、昭和の時代。
1970年、早稲田大学の松田寿男教授は『丹生の研究―歴史地理学から見た日本の水銀の考察』の中で、全国の“丹生”地名を調査し、神戸・丹生山の表層土壌から水銀(辰砂)が検出されたことを報告しました。当時の分析で確認された濃度は約50ppm。全国の「丹生」地名の中でも比較的高い値でした。
松田教授は「丹(に)は鉱物水銀のある場所を指している可能性がある」と記し、地名が鉱床の記憶を留めている可能性を指摘しています。
さらに1978年、地元の郷土研究会と地質専門家による現地調査が実施されました。調査地点は山田町無動寺から北に向かう県道沿い、丹生山山頂ではなく帝釈山と稚児ヶ墓山の中間あたりの赤土の斜面でした。京都大学での分析の結果、水銀濃度は3.4 ppmという、周辺より明らかに高い値を示しました。『山田郷土誌 第二篇』には採取地点の略図や調査経路が詳しく記録されており、技術士は次のように述べています。
「この数値だけで古代の採掘を断定するのは早いが、丹生山系に水銀を含む赤土層が実在することは確かだ」
※ここで言う「水銀」とは、自然界に存在する鉱石中の微量成分であり、採取地点周辺では環境・健康被害の報告はありません。古代から現在に至るまで山麓集落の営みが続いてきたという事実が、安全性を裏づけています。
伝承に語られる「神功皇后が手にした丹の土」——それは、ただの赤土ではなく命を象徴する“辰砂”の輝きを宿した特別な土だったのかもしれません。つまり「丹生」という地名は、伝説だけではなく、地質そのものに由来していた可能性が高いのです。
全国に広がる「丹生」の地名
「丹生(にう/にゅう)」という地名は、日本全国に点在しています。たとえば、山形県、群馬県、千葉県、福井県、三重県、奈良県、和歌山県、大分県など、その分布は広範囲に及びます。具体的には、奈良県の「丹生川上」、和歌山県の「丹生都比売神社」、福井県の「丹生郡」、三重県の「丹生鉱山」などがその例です。これらはいずれも、古代に辰砂(水銀鉱石)を産出した土地としての伝承を持っています。
また、松田教授の研究によれば、「丹生」という地名は、いわゆる中央構造線に代表される地質変動帯に沿って帯状に分布しているという興味深い指摘があります。このことから、「丹生」は単なる地名ではなく、「地質(鉱床)/信仰(神・女神)/地名」が三位一体となったキーワードだったのではないかと考えられています。
赤い鉱石を守る女神・丹生都比売大神
こうした「丹生」の地々に共通して祀られてきたのが、丹生都比売大神(にうつひめのおおかみ)という女神です。古代の史料では、彼女は「丹生氏一族」の氏神であり、辰砂・水銀(丹)を司る神として信仰されてきました。
和歌山県の丹生都比売神社の縁起には、女神が神功皇后に朱のような赤土を授けて戦勝を祈らせたという伝承が記されています。これは『播磨国風土記』逸文に見られる「皇后が赤土を塗って勝利した」という物語と驚くほど響きあっています。
六条八幡宮と「丹生林氏」の系譜
そしてここ山田の地にも、丹生信仰の痕跡が色濃く残されていました。
地域の総鎮守である六条八幡宮(神戸市北区山田町)の宮司家である畠田氏に伝わる古系図によると、同家はかつて「丹生林(にうばやし)氏」を名乗っていました。※1 そして、この神社の由緒には、次のような一節があります。
当八幡宮は往古神功皇后が三韓征伐(新羅征伐)に向かう途上、「我が山の丹土で舟、兵具を塗り、軍衣を染め、丹浪(海水を掻き回して赤く濁らせる)を以て出陣すれば勝利疑いなし」という丹生都比売命の御神託により、斎戒沐浴して丹生都比売命を氏神と仰ぐ丹生氏族より丹土を授かるために営んだ行宮址と伝えられています。
この記述は、当地に丹生氏族が居住し、実際に「丹(鉱物・赤土)を採取していた可能性」を示唆しています。
七社神社と丹生山の神々
神戸市北区山田町に鎮座する七社神社は、かつて丹生山の山頂に祀られていたと伝えられています。古くは山田全村の鎮守として人々に崇敬され、丹生山そのものが「神の宿る山」とされていました。
伝承によれば、百済の王子・童男行者が明要寺を建立する際、その勧めにより社(丹生山の神)は山を下り、まず西下の宮床へと遷座。その後、仁寿2年(852年)に神託を受け、現在の翁ヶ谷に鎮まったとされています(『神戸史談』第297号)。
この神社の主祭神は大国主命です。『山田郷土誌 第二篇』には、この神には「大国主・大日貴・芦原醜男・八千矛・大物主・大国魂・顕国魂」という七つの名があり、それぞれの神像と本地仏が祀られていたと記されています。周辺住民は令和の現在も「七社すべてを順番にお参りする」と語っていました。
また、『西摂大観』には、少し異なる伝承が記載されていました。童男行者が寺を建てようとした際、山王神が怒って山を去ったというものです。神々はその後「上・中・下」の三所に分かれ、現在の七社神社はそのうちの「下の七社」にあたるといいます。
神体山としての丹生山
これらの記録を総合すると、丹生山は古代より磐境(いわくら)をいただく神体山として信仰されてきたことがわかります。
祭神・大国主命は童男行者の来訪以前からこの山に祀られていたと考えられ、当初は拝殿をもたない原初的な山岳祭祀の形で信仰されていた可能性が示唆されます。(興味深いことに「明要寺参詣曼荼羅図」には磐境と思われるものが描かれており、実際にこの磐境と思われる岩が、丹生山のある場所に今も存在しています。古代の信仰が絵図と現実の両方に刻まれているのです。)
なぜ丹生都比売命なのか?
ここでひとつの疑問が残ります。なぜ現在の丹生神社(神戸市北区山田町)には、「丹生都比売命」が祀られているのでしょうか。
明治2年の神仏分離令が出されるまで、この山には「明要寺」という寺院があり、その鎮守神として祀られていたのは「日吉権現」でした。ところが、廃寺の際に再建された神社では、なぜか日吉権現ではなく、丹生都比売命が御祭神として迎えられたのです。船井坊伽藍の資材を売却して、神殿・社務所・鳥居・狛犬などが新たに整えられた記録は残っています。しかし――肝心の「神が入れ替わった理由」については、どの史料にも一切記されていないのです。
ひとつの仮説
ここからは筆者の勝手な推測です。かつてこの山には、大国主命が祀られる以前、丹生都比売命を祀っていた時代があったのではないでしょうか。その記憶が七社神社を通じて代々受け継がれており、神仏分離の際に「本来の女神」が再び山へ戻ったのではないでしょうか。なお、山田町の地元でも、丹生都比売命が祀られるようになった経緯を明確に知る人はいませんでした。
神から仏へ、そしてまた神へ
丹生山の歴史は、まるで信仰のタイムカプセルです。
【古代】丹を採る人々の時代
・丹を採る「丹生一族」が女神・丹生都比売命を祀る(筆者推測)
・水銀の採取が終わると農耕が盛んになり、山の神は大国主命へ(筆者推測)
【6世紀】仏教伝来
・百済の王子・童男行者が明要寺を創建し、神の山が仏の山へ
・山の神・大国主命は七社神社へ遷座
【平安時代】最盛期
・平清盛の寄進により百の伽藍が立ち並ぶ
・鎮守社には日吉権現を祀る
【戦国時代】衰退
・羽柴秀吉による兵火により寺院は焼失
・船井坊のみが生き残る
【明治時代】神仏分離
・神仏分離令により明要寺が廃され、丹生神社が創建
・女神・丹生都比売命が再び山へ
今も続く祈り
地元では昭和の頃まで、丹生神社のことを「山王さん」と呼んでいたそうです。
この呼び名は、平清盛の時代に明要寺の鎮守として祀られた日吉権現(山王権現)に由来します。清盛がこの山を比叡山になぞらえて日吉権現を勧請したことが、その信仰の始まりでした。明治の神仏分離で神の名は日吉権現から丹生都比売命へと改められましたが、その後もしばらく、人々は親しみを込めてこの山を「山王さん」と呼んでいたといいます。現在ではその呼称は使われなくなりましたが、郷土誌の記録にその名残をとどめています。
つまり、神の名が変わっても、人々の信仰の心は変わりませんでした。
赤い土を採り、祈りを捧げ、神と仏が交わり、また分かたれる――。丹生山は長い時の中で、その循環を静かに見つめてきました。
人々は何を祈ってきたのか
およそ二千年にわたる歴史の中で、人々はこの山で何を祈ってきたのでしょうか。
聖なる鉱石が採れることへの感謝?
日照りが続く田に、恵みの雨が降ること?
終わらぬ戦乱の終息?
あるいは、病に苦しむ家族の治癒?
神の名が変わり、仏に代わり、また神に戻る。その中で変わらなかったのは、人々がこの山に「祈り」続けてきたという事実です。
不思議な体験から感じたもの
約一年にわたる取材の中で、実は不思議なことがいくつも起こりました。たとえば初めてこの山を訪れたとき、警戒心が強いはずの青い鳥・オオルリが、手を伸ばせば届きそうな距離でじっとこちらを見つめ、まったく動かなかったのです。また、探していた情報はなぜか“向こう”から次々と現れました。図書館で偶然開いたページに必要な記述があったり、訪ねた方がたまたま私の記事を読んでくださっていて文献探しに力を貸してくださったり――。例を挙げればきりがないほど、奇妙な“導き”が続きました。
こうした体験を通じ、私は次第に感じるようになりました。
――長い歴史の中で人々が祈り続けてきたこの山には、やはり神か仏の存在が今も息づいているのではないか、と。
それが神なのか、仏なのか、あるいは人々の祈りが積み重なった「場の記憶」なのか。答えは分かりません。
その答えは、この山を訪れた一人ひとりが感じ取るものなのかもしれません。
※1:(以下『山田郷土誌 第二篇』に記載の内容)神戸市北区山田町の六条八幡宮は、丹生山田の総鎮守として古くから崇敬されてきました。その宮司家である畠田(はたけだ)氏の家には、代々伝わる古い系図があります。この系図によれば、畠田氏の祖は**景行天皇(第12代)にさかのぼり、その第九皇子・稲背入彦命(いなせいりひこのみこと)**を祖としています。稲背入彦命は『播磨国別(はりまのくにわけ)』の祖とされ、四人の男子のうち、**四男・丹生山田造下司(にうやまだのみやつこげし)**がこの山田の地を領したと伝わります。その子孫にあたる矢田部氏が九代続き、十代目の豊実左衛門尉(とよざねざえもんのじょう)の代に「丹生林(にうばやし)」姓を称したと記されています。丹生林氏はさらに十代を経て十一代目で「畠田」姓に改めました。中でも十代目の丹生林時家(ときいえ)は、赤松円心に仕えて功績を立て、東播の畠五ヵ村を領して畠田城を築いたと伝えられています。改姓後も、「丹生」の名は家の中に受け継がれ、三代目の丹生太郎左衛門時治、四代目の丹生小太郎則時など、“丹生”の名を冠した人物が代々現れています。現当主である畠田庚子英(こうしえい)氏に至るまで、その系譜は脈々と続いています。つまり、この地域における「丹生」の名は、単なる地名ではなく、血脈として生き続けてきた名なのです。
