「遅い」を選ぶ。大人の弾丸フェリー旅
金曜日の夕暮れ、逃げるようにハンドルを握る。
向かう先は馴染みの居酒屋でもなければ、温かい布団が待つ自宅でもない。港だ。
世間では「タイパ」なんて言葉が幅を利かせている。
映画を倍速で観て、要約サイトで読んだ気になる。
そんな時代において、移動に十数時間をかけるフェリー旅など、狂気の沙汰かもしれない。
飛行機なら一時間、新幹線でも数時間の距離だ。
私はあえてこの「遅さ」を選び取る。
金曜の夜に出港し、土曜の朝に目的地に降り立つ。
そしてその日の夜にはまた船に乗り、日曜の朝にはいつもの街に戻ってくる。
いわゆる「弾丸フェリー旅」
若き日の貧乏旅行のようだが、その内実はまるで違う。
これは、強制的に陸(おか)を離れ、海という結界の中で自分をリセットするための、最も贅沢な儀式なのだ。
港のターミナルには、若干、昭和の哀愁が漂っている。
しかし、チェックインはスマホのQRコードひとつ。この新旧のちぐはぐさが、妙に心地よい。
甲板に出ると、潮の香りが鼻腔をくすぐる。
巨大な船体が岸壁を離れる瞬間、日常という陸地が物理的に遠ざかっていく感覚。
スマホの通信が徐々に不安定になる。
圏外になる不安? いや、違う。
それは解放の合図だ。
ここから、誰にも邪魔されない、私だけの時間が始まる。
フェリー旅の醍醐味は、海の上で摂る食事と、湯にある。
この瞬間のために昼食を軽く済ませ、空腹という最上のスパイスを仕込んでおいた。
船内レストランのバイキング。
トレイを持ち、誰に気兼ねすることもなく、自分の好きなものを好きなだけ盛る。
野菜のバランスなど考えない。茶色い揚げ物の隣に、また茶色い煮物を置く。
周りを見渡せば、賑やかな家族連れ、寄り添う老夫婦、そして私と同じように一人旅を楽しむ同志たち。
誰もが少し浮足立ち、幸せそうな顔をしている。
その穏やかな景色を肴に、私は黙々と箸を進める。
これは孤独ではない。極上の「個独」だ。
腹が満たされれば、展望大浴場へ向かう。
窓の外は漆黒の闇。時折、すれ違う船の灯りが流れ星のように過ぎ去っていく。
エンジンタービンの低い唸りが、床を通して体に伝わる。その振動に身を委ね、のぼせる手前までじっくりと湯に浸かる。
かつてはカラスの行水だった私が、こうして「ただ湯に浸かる時間」を愛せるようになった。加齢とは、失うことばかりではないらしい。
風呂上がり、ラウンジの片隅でジュースを一本、プシュッと開ける。
喉を弾ける泡の刺激が、火照った体に染み渡る。
以前ならここで酒を煽っていたかもしれないが、今はクリアな頭でこの浮遊感を味わいたい。
周囲では、旅行への高揚感を隠しきれないおじさんやおばさんたちの賑やかな話し声が響いている。
普段なら耳につくかもしれないが、海の上では不思議と心地よいBGMに変わる。
彼らの笑顔もまた、この旅の景色の一部だ。
部屋に戻る。
ここでも鍵はスマホのQRコードだ。
最新のシステムにかざして扉を開けるが、中に入れば壁の薄さは相変わらずだ。
隣室から微かに聞こえる咳払いや寝息すら、人の体温を感じさせて憎めない。
波の揺れはゆりかごのようだ。
今日の海は穏やかで、まるで湖の上を滑っているような錯覚に陥る。
金曜の夜、海の上で眠る。
この安価なシングルルームには窓がない。
だが、その閉ざされた狭さが、むしろ外界から完全に遮断されたシェルターのようで妙に落ち着く。
週末の疲れと期待と共に、眠りに落ちる。
翌朝。
船内放送で目が覚め、身支度をして甲板に出る。
そこで初めて、強烈な朝日を浴びて目を細める。
滞在時間は、土曜日の日中だけ。
観光名所を巡る義務感はない。
気になった駅で降り、地元の喫茶店で珈琲を啜り、本を読み、また港へ戻る。
たったそれだけのことだが、海を越えてきたという事実が、その数時間を特別なものに変える。
そして土曜の夜、再び船上の人となり、日曜の朝、私は帰還する。
港に降り立った時、体には心地よい気だるさが残っている。
けれど、心にこびりついていた重たいモヤのような疲れは、潮風がきれいに洗い流してくれていることに気づく。
「ただ船に乗るため」のような、週末の弾丸旅。
効率主義者が聞けば呆れるだろうか。
だが、日曜の朝、自宅で淹れるコーヒーの香りがいつもより深く感じられる時、私はふと思う。
無駄こそが、人生の栄養なのだと。
さあ、また新しい一週間が始まる。
少しだけ口角を上げ、私は読みかけの本を閉じた。
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