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作った夕食に手を付けず、コメダに「家出」した日曜日

土日の夕食は、わたしが用意することになっています。

創作大賞の中間発表に始まり、10月から始まった出社制度の変更、思ったより上手くいかない転職活動にやきもきし、ここ数日のわたしのメンタルはズタボロでした。

通常のメンタルでも、夕方にもなると活動する気力はありません。
いつも以上に頑張る気力が湧かず、ダラダラと1時間近く引っ張った挙句、作り終わるや否や、わたしは10分ほど歩く最寄りのコメダに「家出」していました。

本来は20分以内に済むような簡単レシピ。
イライラがMAXに達したことを感じたわたしは、作り終えたと同時に盛り付けもせずに家を出ていました。結婚以来、初めての行動です。

もう限界でした。そして、同時に「行動が決まると早いな、やっぱり身体は元気なんだ」と感心したりもしていました。

お風呂キャンセルが続く日々

10月から出社制度が変わり、「お風呂キャンセル」を行う日が続いていました。

お風呂入らないのって気持ち悪いですよね。でも、もう気力が残っていないのです。服を脱いで、髪を洗って、身体を洗って、浴槽に入って歯を磨いて、また服を着る。もちろん、まだ余力があるときは一部だけやったりと調整もかけますが、完全に打ちのめされていました。

そして、夕食

日中の洗い物も、本当は小まめにやればいい。
気力が残っているときは、何かのついでに少し進めたり、段取りよく進めることができているときもあります。

ですが、指紋管理が導入されたことで完全拘束となり、かつ日報提出という形で監視体制が強くなったことで、心身の負担は一気に増えました。さらに、そこに転職の面接予定を入れてしまっていたのです。

結果はすぐに連絡が来て見送り。志望度が高い会社のため、最速の日程に入れたのが運の尽きでした。もちろん、万全な状態であっても結果は変わらなかったかもしれませんが、出社制度変更の影響が読めないなかで、より万全を期すために翌週に設定すべきでした。

すごく行きたかった会社だったのに、全力を出せなかった。
その後悔も、メンタルを削る要因の一つになっていました。

お風呂に入ることと同様に、食器を洗って、朝洗い終わったものを戻して、材料を出して切る。余った肉は冷凍に入れる。台所が広くないこともあり、とにかく、やろうとするアクション1つ1つの前後に、色々な工程が入ります。それが物凄く苦痛になっていました。

ゆるせなかったことを、また1つゆるせたかもしれない

このままじゃ本当にマズい。
適応障害で休職したときのように、ボーっとして、もしくは、寝てしまってどんどん時間が過ぎて行ってしまいそうだと直感しました。

そこで、PCとRollbahnをリュックに詰めて、ひたすら書き出します。
わたし自身は、自分に自信があるつもりです。自己肯定感も低くないと感じています。

ですが、一方でメンヘラチックな状態に陥っている自分や、無力な自分に打ちひしがれるときもあります。巷で言われる自己肯定感や自己受容が不足している人と同じ行動原理をしているときの説明がつかずに、どういうことなのか悩んでいました。

そして、今回、わかっちゃいました。
わたしは、有益や有能な自分が発揮できるときの自分が大好きですが、
うまく出来ていない、他人に貢献できない自分は嫌いなのです。

その根底にあったのは、適応障害のときも悩まされていた、成果を出さなければ自分の居場所が確保できない、つまり、自分の居場所がなくなるという恐怖です。

適応障害で休職しているとき、何一つ生産性を出せない自分を支えてくれたパートナーの優しさに感謝しました。ですが、根っこの部分では自分のことは許していなかったことに気づきました。

他人への怒りに、投影される自分

子どもたちを叱っているとき、「これって自分に言ってるみたいだな」というのは、結構前から思っていました。

ただ、ちょっと違うのかもしれません。
少なくてもわたしの場合は、
子どもたちに、自分が忌み嫌っている「できない自分」を投影していました

・前後の工程の人のことを考えろ
・手を抜くな
・思考の先回りしろ

こうして並べてみると、小中学生に言うようなセリフではありません。
そこにあるのは、昔のような確固たる「レール」がなくなった現代へ、自分が挑戦しているからに他なりませんでした。

圧倒的に、何かを始めることのハードルが低くなった時代。
それは、言い換えると、競争の開始時期が早くなることを意味します。
また、オールドメディアのような錯覚資産的なやり方は、もはや通用しなくなってきました。より人間の本質や信頼性が見られる。

それはいいことである以上に、信頼がなければ生きていけない。
だから、人からどう見られるか、相手の役に立つことが大事。

お金と信頼

少し前までは生きていくための絶対的な手段である、お金を得るための仕事が最優先でした。
ですが、仕事をひたすら優先しても、わたしは上手くいきませんでした。

だからこそ、お金や、お金以外の何かにも代えることができる、「価値観の近い方」との「信頼」を選ぶことにしました。
結局、"仕事→お金"が、"信頼→お金"に変わっただけでした。

そうすると、信頼を生み出せないような行動をしている自分は、無価値となります。
確かに、信頼は大切です。ですが、お金は信頼や事業の「通信簿」的要素もありますが、それだけではありません。

お金に色はないですし、完全に共感は出来なくても、割り切った仕事で稼ぐお金も、本当に共感して協力する(今は)少額のお金も、お金の額という基準では同じ導線上にいます。

仕事とお金に、個人の感情を乗せ過ぎていたのかもしれません。
もちろん、お金のためだったら何をしてもいいというわけではないですが、例えば個人的には好きだけど、仕事をお願いしないということもありますし、逆もまた然りでしょう。

わたしが、わたしの嫌いなところ=無能・無益なところも認めてあげれば、わたしという人間ごと職場の人に認めてもらう必要はないのです。
わたしは、わたしが嫌いな自分の部分を、自分は嫌いな癖に、相手には「自分を丸ごと認めて欲しい」とやっていたことに気づきました。

未来への「制限」

休職していたときに、定期的にカウンセリングを受けながら、認知の歪みの根っこをカウンセラーさんと一緒に探っていました。

そのときに「制限(=キャップ)」となっていたのは、「地球環境がもたないときが来ている」というガンダムのシャアの演説を真に受けた自分です。
もちろん、完全に無視して楽観視していい問題ではありませんが、わたしが環境系の学部を卒業してから20年近くが経とうとしています。

「自分が選別される側に該当しない」と思っていたからこそ、こういう思想だったわけですが、社会人になってなかなか成果が出せない自分と、休職してまったく働けなくなった自分によって、もう少し広い目で見てもいいかもと思うようになったはずでした。

ですが、ここに来て、また少し思い込みが強くなっていたようです。
日本がもたないときが来ている」旧態依然の企業のやり方では通用しない。生きる道を見出さなくては、外国人が増えて、日本人の労働人口が減る一方の未来では生き残れないんだ!

これも同じでした。当然、ただ平和的に楽観視していては確かにマズいと思います。ですが、そういう感覚に憑りつかれて、何か頑張ったときしか褒めない教育は、結局自分と同じような大人を増やしてしまう。

ビジネスゴリゴリで改善・成果を求める自分。
それと同じくらいに、そこにいるだけでいいんだよという自分もちゃんと大切にして、適切に使い分けられること。

それこそが、わたしが目指す、バランス路線の取れた大人の振る舞いでした。

ルールを破ったり、人に迷惑をかけたりすることはちゃんと指摘する必要があります。ですが、うまくいかないときはわたしにもあります。もがいているときも、まだまだいっぱいあります。

そうやって懸命に生きている子どもたちも、そして、自分もちゃんと認めてあげたいと思ったプチ「家出」でした。

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