「また人をジャッジしてる」と、自分を責めていた私がラクになれた理由
子どもたちがまとめた夏休みの宿題を見て、「合格点」かどうかジャッジしている自分がいました。
小さい頃から根強く沁みついてしまっていたジャッジ。もちろん、そのジャッジの刃は自分にも向き、適応障害のときなどは特に自分の「無能」さを強力に責めていました。
復職を経て、「フラットに人に接しよう」と決めたあとも、そもそもそれは「自分がまた会いたい・話したい」と思った相手という前提条件があります。
そして、やはり、成果物や能力など、仕事絡みの文脈では特にそうなりがちでした。例えば、会社の提案資料や、お客様が画面共有してくれた社内資料を見て、「レベル低」と心の中で冷笑している自分がいました。
そのたびに、自分はイヤなヤツなのかなとか、「またジャッジしている」と、気が滅入っていました(これ自体もジャッジですね)。
すべての人は救えないし、わたしにその力もない。だから、距離が近い方や感性が合う方から優先度をつけることでだいぶ自身としてはラクになったはずだったのですが、それは当然「誰を」助けるべきか、誰の役に立ちたいか、これまたジャッジすることになります。
そんなこんなで、ジャッジ=よくないこと、とまではいきませんが、どこか引っかかっていました。そして、ようやくこのジャッジに関して一つ自分の中で腹落ちしたことがあります。
それが、この本でした。
遅ればせながら、最近Audibleで聴いていた本書ですが、ギバーとテイカーについて、具体例とともにかなり詳しく解説されています。そして、今回、わたしが一番しっくりきたのは、「マッチャー」でした。
わたしは、ギバー寄りのマッチャーです。そのため、お互いのリソースや要求が同じくらいか(あるいは、わたしのほうが少し多いくらい)かで判断します。すなわち、自分のリソースを割くに値するかという考え方ですね。
もちろん、それだけだと自分が選ばれる側というか、上から目線なカンジがしますが、当然先にこちらが持ち出しを行うことも全然ありますし、すぐ返してほしいとも思いませんが、それを気にしないようなテイカーの方とは距離を置きたいと思ってしまいます。
という構造に気づけたとき、また一つ気持ちがラクになった気がしました。当然、だからといって、ジャッジすることは致し方ないというスタンスではないですし、ギバー風な行動はできても、真のギバーにはなかなかなれないと思います。
ただ、それがこういう構造で起きているとわかると、自分でも少しは調整できますし、何より過剰に自分を責めるということからまた一つ距離を置けました。
ということで、先ほどの本はゴリゴリのビジネス書で、いかにギバーが成功しているか(厳密には、スーパートップ層のギバーとしての立ち居振る舞い)が解説されている本なのですが、個人的には内省の文脈でスッと腹落ちした一冊になりました。
ジャッジは"悪"じゃなく、自分の関わり方の構造でした。
もしあなたも、ジャッジしてしまう自分をつい責めてしまうなら、今回の話が少しでも心をラクにするきっかけになれたら、うれしいです。
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