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『ケイコ 目を澄ませて』から思う、「撮影の映画」と「演出の映画」

「ボクサーの映画」としての『ケイコ~』

先週、『ケイコ 目を澄ませて』を劇場で観てきた。説明を丁寧にそぎ落とし、その上で研ぎ澄まされた映像と音響によって織り上げられた、端的に言って私がとても好きなタイプの映画だった。

『ケイコ 目を澄ませて』(以下『ケイコ』と略す)は、聾者のボクサーを主人公とする映画だが、いわゆる「ボクシング映画」ではない、と言ってよいと思う。ケイコという名のボクサーを主人公とする映画ではあるのだが、たとえば『ロッキー』のような、試合の勝敗そのものをメインプロットとしている映画ではない。

さらに蛇足を承知で言えば、この映画は、障がいを抱えた方がそのハンディを克服して自己実現を果たすといった類の映画でもない。耳が聞こえないことは主人公であるケイコ(岸井ゆきの)の決定的な特徴ではあるが、そのことはこの映画にとって決定的に不可欠な要素ではないようにさえ思われる。あるいは、もう少し穏当に言い換えるならば、この映画は、そのような「ハンディキャップの克服(のための努力)」を強調するシナリオ作りや演出をしていないということであり、そのスタンスが、この映画を傑作たらしめている要因の一つであることには疑いがない。

この映画で私が強く胸を揺さぶられたショット(あるいはシーン)を、特に3つ選ぶならば、まず一つ目はケイコと会長の鏡の前でのシャドーボクシングである。

https://www.youtube.com/watch?v=M1DhIFk5Ns4

もう一つは、ケイコとその弟とそのガールフレンドが、夜、屋外でシャドーボクシングしてから、ガールフレンドがごく自然にダンスを始めるシーン。(下の1枚目は公式映像のキャプチャ、2枚目は公式ツイッターの宣材写真)

https://www.youtube.com/watch?v=M1DhIFk5Ns4
https://mobile.twitter.com/movie_keiko/status/1603353124743192576/photo/1


そして、三つ目は、終幕近くのケイコとトレーナーとの、リング上でのミット打ちを映した、長回しのショットだ。

https://www.youtube.com/watch?v=yG1MoMOCavA

上で、「この映画はボクシング映画ではない」と書きはしたものの、私の目と心に焼き付いたショットの多くは、「ボクシング」(あるいは「ボクサー」)が映されていたショットだった。

映画の世界には「ボクシング映画に外れなし」という通説があるらしいが、おそらくそこにはボクシングという競技の特性が作用している。裸に近い姿で鍛え上げた肉体をさらし、1対1で殴り合う競技であることは、言葉を選ばずに言えば「フォトジェニック(シネジェニック)」であるし、殴られることの怖れや痛みは感情移入をさせやすい(俗な言葉を使えば「エモさ」を喚起し易い)競技だという言い方もできるかもしれない。
また、球技や他の格闘技などと比べても、ボクシングが、映画の歴史の中で培われてきた格闘シーンの撮影における経験知や技術を活かしやすい競技だということも、おそらく関係しているのだろう。

『ケイコ』は、こうした一般的な意味での「ボクシング映画」ではないと私は思っているわけだが、それでも間違いなく、傑作といってよい「ボクサーを描いた映画」であったと思う。


「撮影の映画」としての『ケイコ~』

さて、映画を観た後に、監督の三宅唱をはじめとする関係者の方々のインタビューをネット上でいくつか読んだ。その中の一つで、三宅と主演の岸井ゆきのが、「ケイコの人物像や内面を掘り下げ」るための話は殆どせずに、「縄跳びの飛び方や、フックの出し方」、つまりは「ボクサーとしての動作」についての話を多くしていたということが述べられていたのだが、これが、強く私の興味を惹いた。

三宅: 岸井さんの演じるすばらしいケイコに引っ張られつつ、どう捉えるかという話をスタッフとはたくさん話した気がするんですけど、岸井さんと何か話しましたっけ?
岸井: ケイコはこういうひとだよねという話は、なかったと思います
三宅: そうだよね。
岸井: それよりも縄跳びをどう飛ぶか、あのフックの出し方って…という話をしていましたね。ボクサーであるケイコが他人とボクシングという共通の話題で話して、ボクサーとしてのケイコはこういうことを感じて、考えているということを自分なりに受け止めていました。
三宅: そう。岸井さんがケイコでいてくれたので、僕は岸井さんを撮ったとも言えるし、ケイコを撮ったとも言える。その区別がもうないんです。(後略)
*強調は引用者による

HOUYHNHNM 「映画人たちの声に耳を澄ませて。映画的映画『ケイコ 目を澄ませて』、公開」
https://www.houyhnhnm.jp/feature/664429/3/

これは、そもそもボクサーではなくボクシングに詳しくもなかった二人の会話が自然にそこ(ボクサーとしての動作)に意識がいっていたということでもあるのだろうが、このインタビューを読んでいた私はふいに、(著名な映画批評家でもあり、かつ『ケイコ』を公開前から高く評価していた)蓮實重彦が著書の中で語っていた、「演出の映画」と「撮影の映画」という類型のことを思い出した。

蓮實は、近刊である『ショットとは何か』という著書の中で、「映画は『演出の映画』と『撮影の映画』に分けられる」といった旨のことを述べている。

蓮實によれば、「演出の映画」とは「厳格な構図の画面に基づいた映画」であり、「撮影の映画」とは「時間、あるいは生の持続をとらえようとする映画」になる。
別の言い方では、「誰もが抱えている(と想定される)内面を画面に映そうとする映画」すなわち「表象にこだわる映画」が「演出の映画」であり、「被写体の、とらえがたい運動の生なましい現在をとらえようとする映画」が「撮影の映画」であるとも述べている。

(略)この二作*はしばしば安易に比較されがちです。しかし、それらはまったく別ものなのです。一方はジョン・スタインベックの小説を原作としたある種の文芸映画で、時代はいちおう近過去ということになっています。他方は、同時代の若者の風俗を描いた現代劇であり、それぞれに見るべきところがまったく異なります。『エデンの東』は厳格な構図の画面に基づいた「演出」の映画であり、完全に成功しているか否かはともかく、『理由なき反抗』は時間、あるいはむしろ生の持続をとらえようとする「撮影」の映画なのです。
*引用者注:『エデンの東』と『理由なき反抗』

『ショットとは何か』蓮實重彦(講談社) P.63

その意味で、エリア・カザンは「演出」の映画を撮っており、ニコラス・レイはそうではなく、「撮影」の映画と呼ぶべき種類の作品を撮っているといえるかもしれません。誰もがあらかじめ抱えていると想定される内面――意識だの、心理だの、悩みだの――がどのように画面に見えてくるかというのが「演出」の映画、すなわち「表象」にこだわる作品だとするなら、被写体にキャメラを向けることで画面に生成するとらえがたい運動の生なましい現在をいかにとらえるかに賭けているのが、「表象」を誇大視することのない「撮影」の映画といえばよいでしょう。

『ショットとは何か』蓮實重彦(講談社) P.64

なお、蓮實の言う「演出」という用語も補足しておくと、この用法においてはそれは「内面の視覚化(の方法)」ということになる。

わたくしがいう「演出」とは、(略)誰もがかかえているはずの内面をどのように視覚化するかという問題にほかなりません。つまり、「表象」の問題がそこでは問われているのです。

『ショットとは何か』蓮實重彦(講談社) P.64

さらに言えば、繰り返し使用される「表象」という言葉も、私の浅い理解では平易に説明するのが難しいのだが、その文字の並びから乱暴に言い換えるならば「表された象(かたち)」とでもなるだろうか。例えば、俳優の演技が作り出した「表情」は、「内面をかたち(表情)にしたもの」である、ということができるとは思う。

さて、上に引用した文章の中で蓮實は、「演出の映画」としては『エデンの東』を、「撮影の映画」としては『理由なき反抗』をあげていた。二作は、いずれも主演はジェームス・ディーンであり、前者の監督はエリア・カザン、後者のそれはニコラス・レイである。

この二作について、ネット上の映像等で見比べてはみたのだが、そのくらいでは私には「演出の映画/撮影の映画」の違いが明快には理解ができなかった。ひとまず私としては「よく分からないけど、映画には『演出を重視する映画』と『撮影を重視する映画』というタイプがあるらしい」ということを、一つの知識として自分の中に収めておいたのみである。

ここでようやく『ケイコ』の話に戻るのだが、つまり、何が言いたかったのかというと、『ケイコ』は「撮影の映画」なのだろうということだ。そしてこの映画を観たことで、私の中で「撮影の映画」とはどのような映画なのかということに関する、その理解のレベルが少し上がったような気がしているということだ。(ビジネス界隈で少し前から使われだした言葉で言えば「解像度が上がった」という言い回しになる)

私の「理解」によれば、いささか乱暴ではあるが、「演出の映画」とは「俳優(被写体)にどのような演技をさせるか」を重視する映画であり、「撮影の映画」とは「被写体(俳優だけではない)をどのように撮影するか」を重視する映画ということになろうか。

そして、この意味でやはり、『ケイコ』が「撮影の映画」なのだと私が感じたのは、この映画では、主な被写体である「ボクサーとしてのケイコ」の映る画面の殆どが、(たとえそこに「内面」などといったものが映されてはいなくても)いずれも瑞々しく、生なましく、力があり、ケイコの存在そのものを感じとれたからである。

もちろん、画面に映る岸井ゆきのの演技も素晴らしく、その表情(≒表象)も強い印象を私に残したが、それでも強いて言うならば、やはり私の記憶に強く残ったのは、先にあげた「鏡に向かってシャドーボクシングをするケイコと会長の背中」であり、「夜、アパートの外でシャドーボクシング、そしてダンスの真似事をする三人の動き(それはおそらくわずか数秒だったのだが)」であり、「リングの上でミット打ちをするケイコとトレイナーの躍動(蓮實流に言うならば「運動の生なましい現在」)」であったのだ。

そして、(下に引用する蓮實の文章の受け売りにはなるのだが)随所に映し出される東京の風景、その中でも特に、画面を横切る電車のショットが、どれも素晴らしかった。

https://www.youtube.com/watch?v=M1DhIFk5Ns4

蓮實 例えば、『ケイコ・・・・・・』の、河のほとりで警官二人に誰何されたあと、背後に電車が行きかっている夜の道を、ケイコがこちら向きに走ってくる夜のロングショットに途方もなく惹きつけられました。最後に、手前の線路を電車が走りぬけるというアクロバットじみた処理までなされていながら、これが見れたのだから、映画はやめられないとつくづく思い、感涙にむせびました。

「三宅さん、ショットとはいったい何なんでしょうか?」三宅唱×蓮實重彦(『群像』2022年8月号 P.200)

蓮實 パッとロングショットの画面になり、向こうに電車が見えるかと思うと、手前にも電車が走る。プロデューサーならそれはやめろと言うのではないかと思うような複雑極まりないショットを撮られている。あそこに感動してまして、やった!やった!と。誰がやったんだか知りませんけれども(笑)、私はそう叫んでいた、自分でも知らないうちに……。

「悦ばしき映画」三宅 唱×蓮實重彥(『ユリイカ』2022年12月号 P.42)

三宅 例に挙げていただいた場面*は、「この映画はここだ」と出会った場所でした。(略)この題材はどうやったら映画になるんだとずっと悩んでいたんですが、(略)あの場所を見つけたときに、シナリオではない形で、主人公とあの世界を捉える方法を発見できた気がします。
*引用者注:上述の「電車の場面」

「三宅さん、ショットとはいったい何なんでしょうか?」三宅唱×蓮實重彦(『群像』2022年8月号 P.200)

蓮實が「快哉を叫」び、「感涙にむせ」んだという、夜道の電車のシーンもそうだが、会長(三浦友和)とその妻(仙道敦子)が、病院の帰り道を歩いているロングショットとそこを横切る電車にも、私は心を打たれた。エンドロールも含めて、「電車」にこんなに心を動かされる映画というのは他に記憶がなく、自分にいったいどういう作用が生じているのか判然としなかったのだが、とにかく見事なショットだったとしか言いようがない。
(後から分析的に言えば、会長と妻のシーンは、「歩いている二人への(観客の)視線を、横切る電車がふいに遮ること」が、ある種の、生が寸断されることへの「切なさ」を生んでいるのだろうかなとは思うし、蓮實が称賛する「夜道」の方は、その前の警官とのやりとりで生じた世界からの途絶感(あるいは寄る辺なさ)と、それを振り切ろうとするケイコの「内面」を感じさせるからなのかなとか思ったりはするが、もちろん劇場では、ただひたすら「この映画(画面)、凄いなあ」と感じ入ってていただけだった)

蓮實のいう「撮影の映画」を私がきちんと理解できているのか、正直に言えば甚だ心もとないのだが、それでもやはり私はこの映画を非常に優れた「撮影の映画」であると思う。そして同時に、素晴らしい「ボクサーの映画」であり、(蓮實流に言えば)「ボクサーの生の持続を見事にとらえた映画」であるのだと思う。

(了)

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