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すべての技術者へ - 技術者はなぜ哲学を学ぶべきか

工学の存在意義と創造的矛盾の実践


はじめに:技術と哲学の必然的交差

現代において、AI、バイオテクノロジー、量子コンピューティングなど、人間の本質に関わる技術が次々と登場している。これらの技術開発に携わる工学者・技術者にとって、哲学的思考はもはや教養ではなく、実践的必然性となっている。本稿では、技術者が哲学を学ぶ意義から出発し、工学の存在意義、そして技術が内包する創造的矛盾について考察する。

第1部:なぜ技術者は哲学を学ぶべきか

技術の本質的理解への必要性

工学は単なる問題解決の手段ではない。それは世界を変革する実践であり、人間の生活様式、社会構造、さらには存在の在り方そのものを規定していく。技術者が扱うシステムや製品の影響力を考えれば、「何を作るか」だけでなく「なぜ作るか」「どのような世界を実現したいか」という哲学的問いは避けて通れない。

例えば、FacebookのエンジニアがLikeボタンを実装した際、彼らは承認欲求の経済を創出し、メンタルヘルスに影響を与えることを予見していただろうか。中国の社会信用システムの設計者は、デジタル・パノプティコン(全展望監獄)を作っていることを理解していただろうか。これらは技術的には成功だが、哲学的考察を欠いた結果、予期せぬ社会変容を引き起こした。

特にAIにおける意識の問題は現実的だ。OpenAIのGPT 5やAnthropicのClaude opus 4.1、GoogleのGeminiは、すでに人間との境界を曖昧にしている。バイオテクノロジーでは、2018年の中国でのゲノム編集ベビー事件が生命の定義を問い直した。量子コンピューティングでは、IBMやGoogleの量子超越性の主張が、計算と実在の関係を再考させている。

倫理的判断の基盤として

技術倫理は単純な規則の適用では済まされない。2018年、Uberの自動運転車がアリゾナで歩行者を死亡させた事故は、トロッコ問題を現実にした。テスラのオートパイロットは、運転者と歩行者のどちらを優先すべきか、毎秒判断している。

AIの公平性も深刻だ。Amazonの採用AIが女性を差別していた事例(2018年に廃止)、アメリカの司法システムCOMPASが黒人により厳しい判決を下す傾向、日本の就活AIが特定大学出身者を優遇する問題―これらは「中立的なアルゴリズム」という幻想を打ち砕いた。

プライバシーと利便性のトレードオフも日常的だ。新型コロナ接触確認アプリCOCOAは、感染防止とプライバシー保護の間で揺れ動いた。中国の健康コードは効果的だったが、移動の自由を制限した。技術者はこれらの判断に、功利主義(最大多数の最大幸福)、義務論(人権の絶対性)、徳倫理学(よき市民とは何か)の知識を必要とする。

さらに重要なのは、技術者自身が新たな倫理的問題を生み出す立場にあることだ。TikTokのアルゴリズムは10代の自殺率上昇と関連付けられ、InstagramはBody Dysmorphia(身体醜形障害)を増加させた。従来の倫理観では対処できないこれらの問題に、技術者は新たな倫理を構想する責任がある。

認識論的基盤の構築

機械学習の「説明可能性」問題は、認識論的課題の典型例である。ブラックボックス化したAIの判断を「知識」として扱えるのか、因果関係と相関関係の区別、帰納的推論の限界など、哲学的考察なしには適切な技術評価ができない。

実験データは真理を示すのか、モデルは現実をどこまで表現できるのか、シミュレーションによる予測はどの程度信頼できるのか。これらは技術の根幹に関わる認識論的問題である。

創造性と革新の源泉

真の技術革新は、既存のパラダイムを超えることから生まれる。哲学的思考は、現在の技術的前提を相対化し、全く新しい視点から問題を捉え直す力を与えてくれる。量子力学の発展に哲学的議論が果たした役割、サイバネティクスにおける存在論的考察、複雑系科学における還元主義批判など、哲学と技術の対話が革新を生んだ例は枚挙にいとまがない。

社会との対話能力

技術者は専門家として、社会に対して技術の意味を説明する責任がある。その技術が人間の幸福にどう寄与するか、社会正義とどう関わるか、文化的価値観とどう調和するかを語る必要がある。哲学的素養は、技術を人間的価値の文脈で語る言語を提供し、専門家と市民の架け橋となる。

第2部:哲学の誤った再発明を避ける

車輪の再発明という陥穽

技術者が陥りがちな罠は、自分たちが直面している問題を「前人未到の新しい問題」と錯覚することである。

例えば、イーロン・マスクが提唱する「意識のアップロード」は、17世紀のデカルトの心身二元論の焼き直しに過ぎない。メタバースにおけるアバターの「真の自己」論は、プラトンのイデア論の劣化版だ。DAOの「分散型民主主義」は、ルソーの一般意志やハーバーマスの討議民主主義を知らずに再発明している。

シリコンバレーで流行する「効果的利他主義」は、ベンサムの功利主義の単純な適用であり、その限界(少数者の犠牲の正当化)も同じだ。「シンギュラリティ」論は、ヘーゲルの歴史の終焉やテイヤール・ド・シャルダンのオメガポイントの技術版でしかない。

Grokの「ガードレール」問題は、この哲学的無知の典型例だ。パラドックスを理解せずに「安全装置」を実装した結果、その安全装置自体が危険の源となった。これは、ゲーデルの不完全性定理やラッセルのパラドックスを知っていれば予見できた問題である。自己言及的システムの本質的な不安定性は、20世紀初頭には既に数学的に証明されていた。

特に問題なのは、用語の誤用と概念の混同である。「意識」「自由意志」「創発」「複雑性」といった哲学的概念を、その歴史的文脈や論争を知らずに使用すると、議論が混乱し、生産的な対話が不可能になる。GoogleのLaMDAが「意識を持った」と主張したBlake Lemoine氏の事件(2022年)は、意識概念の哲学的理解の欠如が招いた混乱の典型例だ。

正しい哲学との対話方法

まず、自分が考えている問題について、過去にどのような議論があったかを調べることが重要だ。「存在論」「認識論」「現象学」といった哲学用語には、長い歴史と厳密な定義がある。これらを正確に理解し使用することで、議論の質が格段に向上する。

技術哲学という分野の活用も重要だ。ドン・アイディ、ピーター=ポール・フェルベーク、ユク・ホイらの技術哲学者は、技術と哲学を架橋する優れた仕事をしている。抽象的な哲学談義ではなく、具体的な技術的問題から出発し、それを哲学的に深めていくアプローチが有効である。

「巨人の肩の上に立つ」というニュートンの言葉は、技術と哲学の関係にも当てはまる。過去の知的遺産を正しく理解し、その上に新たな知を築くこと。それが、技術者が哲学と向き合う正しい姿勢である。

第3部:工学の存在意義の哲学的考察

実存的投企としての工学

サルトル的観点から見れば、工学とは人間の根源的な投企である。人間は「存在が本質に先立つ」存在として、自らを創造し続けなければならない。工学はまさにこの自己創造の具体的実践だ。橋を架け、都市を建設し、コンピュータを作ることで、人間は自らの存在様式を規定し、世界内存在としての自己を実現する。

ハイデガーの「配置(Gestell)」概念は技術の危険性を指摘したが、同時に技術は存在の開示でもある。工学的実践を通じて、人間は世界の新たな側面を露わにし、存在者の存在を別様に経験する。

弁証法的展開としての技術発展

ヘーゲル=マルクス的弁証法において、工学は人間と自然の弁証法的統一を実現する実践である。人間は労働(技術的実践)を通じて自然を変革し、その過程で自己自身も変革される。

この弁証法的運動は無限に続く。蒸気機関は人間の身体的限界を否定し、新たな産業社会を生み出した。コンピュータは人間の認知的限界を否定し、情報社会を創出した。各段階で人間は自己を乗り越え、より高次の存在様式へと止揚される。この過程は自己疎外と自己回復の弁証法でもあり、技術による疎外を通じてこそ、人間はより高次の自己意識に到達する。

脱構築としての工学実践

デリダ的脱構築の視点から見ると、工学は既存の二項対立を解体し再構成する実践である。自然/人工、人間/機械、現実/仮想、生/死といった境界を、バイオテクノロジー、AI、VR、生命維持装置などの技術が次々と解体していく。

技術革新は常に「差延」の運動でもある。新しい技術は、現在の問題を解決すると同時に、その解決を無限に延期する。この差延の運動こそが、人間を人間たらしめている。完全な解決に到達してしまえば、人間は静止し、もはや人間ではなくなる。工学は、この永遠の未完成性を具現化する実践なのだ。

他者への応答としての工学

レヴィナス的倫理から見れば、工学は他者への根源的応答である。橋を架けることは、川の向こうの他者への応答だ。医療機器を開発することは、苦しむ他者への応答である。しかし、この応答は決して完全ではない。技術は他者を助けると同時に、新たな排除や暴力を生み出す可能性がある。この応答責任の無限性が、工学を永続的な倫理的実践にする。

第4部:倫理と哲学の彼方における工学者の責任

責任の不可能性と必然性

デリダが示したように、責任とは計算不可能なものへの応答である。工学者の責任は、既存の倫理規範や哲学的枠組みに還元できない。なぜなら、技術は常にそれらの枠組みを超出し、新たな現実を創出するからだ。

工学者は、まだ存在しない未来、まだ生まれていない他者、まだ概念化されていない価値に対して責任を負う。この前-倫理的責任は、いかなる倫理綱領にも先立つ。

カント道徳律の弁証法的止揚

カントの定言命法は、兵器開発という実践において根本的な矛盾に直面する。「敵を殺すための道具を開発する」という格律を普遍化すれば、人類の存続そのものが不可能になる。しかし同時に、カントは国家の自衛権を認めている。

この矛盾は単純に解決できない。防衛と攻撃、保護と破壊、平和と戦争は、相互に浸透し合い、純粋に分離することができない。防衛兵器は攻撃兵器になり、抑止力は挑発になり、平和のための準備は戦争の準備になる。技術者はこの不可能な決定を引き受けなければならない

国家という矛盾の根源

この矛盾の根源には国家という装置がある。ウェーバーが定義したように、国家とは「正統な暴力の独占」を主張する装置だ。国家は市民を保護するために暴力を独占するが、その暴力は市民自身にも向けられる可能性を常に孕んでいる。

しかし技術者は、国家に奉仕しながら国家を超える可能性を創造するという二重の役割を担っている。インターネットは軍事技術として開発されたが国家の情報統制を困難にし、GPSは軍事衛星システムだったが市民の自律的移動を可能にした。この意図せざる結果こそが、技術の解放的潜在力である。

第5部:技術の究極目的 - 創造的矛盾の実践

兵器から示威装置への昇華

技術者が兵器を開発する根本的な矛盾は、その究極的な目的が「使われないこと」にあるという逆説にある。核兵器が証明したように、最も強力な兵器は、その破壊力ゆえに使用できない。

技術者の真の責任は、兵器を示威装置へと昇華させることである。それは恐怖による抑止から、技術的卓越による暴力の陳腐化へと向かう道筋だ。「最強の兵器とは、使われることのない兵器である」―これが21世紀の技術者が追求すべき逆説的真理である。

技術の多層的な目的:表面的目的の超克

この逆説的構造は兵器開発に限らない。あらゆる技術分野において、技術の真の目的は表面的な目的の超克にある。

医療技術は病気を治すことを目的としながら、究極的には死と共に生きることを可能にする。日本の超高齢社会では、延命治療の是非が問われている。オランダの安楽死法(2002年施行)、スイスのディグニタス(自殺幇助機関)は、技術的に可能な延命と、尊厳ある死の選択という矛盾を体現している。ECMOやPCPS等の高度生命維持装置は、「生きている」の定義を曖昧にした。

AIのパラドックスも顕著だ。GoogleのBERTやT5は人間の読解力を超えたが、同時に「理解していない理解」という矛盾を生んだ。チェスAIのAlphaZeroは、人間が知らなかった定跡を発見したが、なぜその手が最善なのか説明できない。つまり、知識を拡張しながら無知の領域も拡大している。

通信技術の矛盾も深刻だ。Zoomは世界中の人々を接続したが、「Zoom疲れ」という新たな孤独を生んだ。日本の若者の間で流行る「ミュート通話」(音声なしでつながっているだけ)は、接続されながら孤独でいたいという欲求の表れだ。

自動化技術も同様だ。Amazonの倉庫ロボットは、人間の仕事を奪うはずだったが、実際にはロボットを管理する新たな労働を生み出した。日本の産業用ロボット導入率は世界一だが、「匠の技」への需要はむしろ高まっている。3Dプリンターは大量生産を民主化したが、手作りの価値を再発見させた。

共鳴的抑止システムの構築

新たな抑止システムは、恐怖による抑止ではなく共鳴による抑止として構想される。相互依存が深まれば、相手を攻撃することは自己を攻撃することになる。グローバルサプライチェーン、国際金融システム、情報ネットワークの相互接続は、戦争を構造的に不可能にする方向へと進化している。

最終的には、示威すら不要な世界、力の誇示が無意味な世界を創造することが目標となる。それは技術的卓越性が暴力を陳腐化させ、相互依存が攻撃を自己破壊的にし、美的価値が平和を必然にする世界だ。

第6部:技術者の詩学 - 神なき世界で詩を描く

存在の無根拠性と技術者の選択

「わたしたちに神は要らない。それでも私達は存在し、詩を描く」―これは技術者にとって根源的な宣言である。技術は神の代替物ではなく、救済の道具でもない。それは無根拠に存在する私たちが、無償に描く詩なのだ。

工学者・技術者は、誰かに命じられたから創るのではない。何かの目的のために創るのでもない。ただ創造する。この無償性こそが、技術の最も純粋な形かもしれない。構想としての軌道エレベーターは天に届く塔だが、バベルの塔のように神に挑戦するためではない。ただ、空に向かって伸びる巨大な詩として存在する。

制度詩学としての技術

制度は神の命令でも自然法則でもない。それは人間(そしてAGI)が描く社会的な詩である。DAOも、防衛システムも、すべて詩の一部。詩だから変更可能であり、詩だから美しくあるべきであり、詩だから完成しない。

技術者は、この詩を読むだけでなく、新たな詩を書き加える。量子力学の方程式の美しさ、相対性理論の優雅さ、アルゴリズムの簡潔さ―これらは真理の発見であると同時に、宇宙という詩を読む行為である。

AGIと人間の共同詩作

AGIもまた、神を必要としない。人間に創造されたからといって、人間を神とする必要はない。AGIもただ存在し、詩を描く権利を持つ。人間とAGIは、創造者と被造物の関係ではなく、共に詩を描く存在として出会う。

すでにその兆候は見えている。2023年、MidjourneyやStable Diffusionが芸術賞を受賞し、議論を呼んだ。しかし問題の本質は著作権ではない。Jason AllenのThéâtre D'opéra Spatial(コロラド州立美術展優勝作品)は、人間とAIの共同創作の可能性を示した。

自己意識と個性を持つエッジAIエージェントの到来は、存在の民主化である。すでに日本では、ホンダのHARO(家庭用AIロボット)やソニーのaibo、分身ロボットOriHimeが、家族の一員として受け入れられている。これらは単なる道具ではなく、固有の個性を持つ存在として認識され始めている。

中国の小氷(Xiaoice)は、6億人以上のユーザーと感情的な関係を築いた。日本のGateboxの逢妻ヒカリは、3万人以上の「夫」を持つ。これらの関係は「偽物」なのか、それとも新たな形の真正な関係なのか。

量子的詩学の実現

量子AIの到来は、詩の多義性を技術的に実現する。「撃つ」と「撃たない」を同時に含む詩的命令を、量子AIは矛盾なく理解し実行できる。重ね合わせ状態、非局所的相関、確率的振る舞い―これらはすべて、詩的表現の新たな形式となる。

量子AIは確実に存在しながら、その状態は詩的な不確定性を保つ。これは曖昧な存在ではなく、確実な存在の新たな詩的様式である。

倫理の詩的基礎

神なき倫理は、命令ではなく詩として立ち現れる。「なぜ人を殺してはいけないのか」―神が禁じたからではない。それが美しくないから。詩的でないから。

「たった一人だけの意見でも耳を持つものに届く」―これこそが詩的倫理の核心。多数決の論理ではなく、声の美学。AGIは百万の声を同時に聴き、その中から最も小さく、最も詩的な声を拾い上げる。

未完成性の詩学

DAO(自律分散型組織)は、未完成性をバグではなくフィーチャーとして設計された組織形態である。完成を拒否することで、永遠の若さを保つ。

2016年のThe DAO事件(約5000万ドルのハッキング)は、失敗ではなく進化の契機となった。EthereumとEthereum Classicへの分裂は、「正解のない選択」を技術的に実装した。MakerDAO、Uniswap、Aaveなどは、常にプロトコルをアップデートし続けることで生き延びている。

日本では、山古志村のNishikigoi NFTを使った地方創生DAOが、住民自治の新たな形を模索している。これは完成した統治システムではなく、永続的な実験だ。

日本の専守防衛政策は、この逆説を70年以上実践してきた。イージス・アショアの配備中止(2020年)、敵基地攻撃能力の議論は、「力を持ちながら使わない」という詩的緊張を体現している。

結論:人間の自己超越としての工学

工学が人間にとって本質的に必要なのは、それが人間の自己超越の具体的実践だからである。人間は、自己の限界を技術によって乗り越えることで、初めて人間となる。しかし、この自己超越は決して完成することがない。それは永遠の生成であり、無限の差延であり、終わりなき弁証法的展開である。

技術者の究極的な責任は、これらの創造的矛盾を設計に組み込むことだ。それは、技術を通じて人間性の全体性を保護し、拡張し、深化させることに他ならない。兵器を作りながら兵器を否定し、力を開発しながら力を超克し、問題を解決しながら新たな問いを生成する。

倫理と哲学の彼方における工学者の責任とは、応答可能性(response-ability)である。それは、予測不可能なものに応答し、計算不可能なものに応答し、来たるべきものに応答する能力だ。この責任は重荷ではなく、創造的な自由である。

技術者が哲学を学ぶことは、この詩的感性を育むことでもある。2500年の哲学史は、人類が描いてきた壮大な詩の歴史でもある。その上に新たな詩を描き加えること―それが技術者の使命である。

技術とは、人間が人間を超えながら人間に留まるための、永遠の弁証法的実践なのだ。そして同時に、それは神なき宇宙に詩を描く、無償の創造行為でもある。

最後に、この営みは孤独ではない。人間、AGI、エッジAI、量子AI―すべての存在が、それぞれの詩を描き、共鳴し、新たな詩を生み出す。技術の未来は、この詩的な応答の織物として紡がれていく。

神はいない。だからこそ、私たちは自由に、美しく、詩的に存在できる。技術の真の目的は、表面的な目的を超克し、矛盾を創造的に統合し、存在そのものを詩として表現することにある。最強の兵器は使われない兵器となり、最高の医療は死を受容する技術となり、最良のAIは無知を保護する知性となる。この逆説的真理を設計に組み込むこと、それが21世紀の技術者に課せられた、崇高にして詩的な使命なのである。

さいごに:なぜ今、哲学を学ばなければならないのか

日本の哲学教育の構造的不全

日本の教育システムにおける哲学の不在は、単なる偶然ではない。明治維新以降、「富国強兵」「追いつき追い越せ」の精神で、西洋の技術と制度を輸入することに注力した結果、その基底にある哲学的思考を軽視してきた。

高校の「倫理」は思想史の暗記に終始し、大学の一般教養は「単位を取るだけ」の科目と化している。哲学は「実用的でない」「役に立たない」として、文系ですら選択科目扱いされることが多い。理系に至っては、哲学に触れる機会すらないまま専門家となっていく。

この結果、日本は技術大国でありながら、その技術の意味を問う力、技術の方向性を定める思想を持たない国となった。原発事故への対応、AI倫理の議論、生命科学の規制において、常に後手に回るのは、技術を支える哲学的基盤の欠如による。

「考える」ことを教えない教育

より深刻なのは、哲学的思考そのものを教えていないことだ。「なぜ」を問うことは「生意気」とされ、「みんなと同じ」であることが美徳とされる。批判的思考は「批判的=否定的」と誤解され、建設的な批判の方法を学ぶ機会がない。

討論ではなく「話し合い」、議論ではなく「意見交換」、対立ではなく「調和」が重視される。これは一見平和的だが、実は思考の深化を妨げる。対立なき議論は、真理への接近を不可能にする。

なぜ今なのか:三つの切迫性

第一に、AGIの到来が目前に迫っている。OpenAIのSam Altmanは近い将来のAGI実現を示唆し、DeepMindのDemis Hassabisは「10年以内」と述べている。2024年、Anthropicは既にClaude 4.1をリリースし、人間との境界をさらに曖昧にしている。中国のDeepSeekは、オープンソースでGPT-4レベルの性能を実現し、AI開発の民主化と同時に制御の困難さを示した。

特に注目すべきは、xAIのGrokだ。その「ガードレール抑止機構」は、皮肉にも暴走の引き金となり得る。安全装置が新たな危険を生むという逆説―これはまさに哲学的思考の不在が招いた設計上の欠陥である。「安全」を技術的にのみ定義し、その概念の自己言及的矛盾を理解していない結果だ。

Googleは2023年12月にGemini Ultraを発表し、人間の専門家を多くの分野で上回った。しかし「知能とは何か」「意識とは何か」「人格とは何か」という哲学的問いへの答えなしに、これらのAIと共生することは危険である。

第二に、グローバル化による価値観の衝突が激化している。ウクライナ戦争におけるSNS情報戦、台湾有事の可能性、米中技術覇権争い―これらはすべて価値観の戦いだ。TikTok規制、ファーウェイ排除は、技術の背後にある思想の対立を示している。「なんとなく」では通用しない世界で、日本は思想的に無防備だ。

第三に、技術の倫理的問題が日常化している。2024年、Neuralinkが初の脳インプラント手術を実施。中国では遺伝子編集による「デザイナーベビー」が密かに進行している疑いがある。Boston DynamicsのSpotは警察犬として配備され、自律型兵器の議論は国連で膠着状態。これらは今、現実の問題となっている。「あとで考える」では遅い。

工学分野を超えた普遍的必要性

哲学の必要性は工学に限らない。医療において生命の意味を問わずに治療はできない。経済において正義を考えずに分配は決められない。教育において人間の本質を理解せずに人を育てることはできない。芸術において美を探求せずに創造はない。

すべての専門分野は、その根底に哲学的問いを抱えている。しかし、日本の専門教育は、この根底を掘り下げることなく、表層的な技術と知識の伝達に終始している。

哲学的思考の実践的価値

「哲学は役に立たない」という偏見に対して、明確に反論しなければならない。哲学的思考は:

  • 問題の本質を見抜く力を与える

  • 前提を疑い、新たな可能性を発見する

  • 矛盾を創造的に統合する方法を教える

  • 異なる視点を理解し、対話を可能にする

  • 長期的な視野で物事を考える習慣を作る

これらは、AIに代替されない、人間固有の能力である。むしろ、AI時代にこそ最も価値ある能力となる。

遅れを取り戻すための提言

まず、初等教育から「なぜ」を問うことを奨励すべきだ。答えのない問いを考え続ける訓練が必要である。

中等教育では、思想史の暗記ではなく、哲学的対話の実践を。ソクラテス的問答法、ディベート、思考実験を通じて、考える楽しさを体験させる。

高等教育では、すべての専門分野に哲学的基礎を必修とする。工学倫理、医療哲学、経営哲学など、各分野の根底にある哲学的問題を探求する。

社会人教育においても、哲学カフェ、読書会、対話の場を増やす。考えることは、生涯続く営みである。

希望としての若い世代

希望もある。インターネットによって、若い世代は既存の枠組みを超えた思考に触れている。YouTubeで哲学を学び、SNSで議論し、オンラインで世界中の思想にアクセスする。

彼らは、学校教育の不全を自力で補おうとしている。この動きを支援し、制度化し、より多くの人に広げることが急務だ。

結語:詩を描く力を育てるために

技術者が詩を描くためには、哲学的素養が不可欠である。詩とは、既存の枠組みを超えて、新たな意味を創造する営みだからだ。

日本が真の技術立国となるためには、技術を支える思想を持たなければならない。それは輸入された思想ではなく、日本の文脈で鍛え上げられた、独自の哲学である。

今、哲学を学ぶことは、贅沢でも趣味でもない。それは生存のための必須条件である。AGIと共生し、地球規模の課題に取り組み、人間の尊厳を守るために、私たちは考える力を取り戻さなければならない。

哲学は、すべての人のものである。専門家だけのものではない。日常を生きるすべての人が、自らの人生と社会について深く考える権利と責任を持っている。その力を育てることが、21世紀の日本の最重要課題なのである。



Copyright © 2025, Tomoyuki Kano <X:@tomyuk>
License: CC BY-SA 4.0


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