『ぐるりのこと。』「そばにいる」は、こんなにも難しい

「夫婦」という肩書きだけで人は救えない

結婚していることと、誰かと生きることは全く別の営みなのだと思わされる。
制度上では夫婦であっても、相手の苦しみに触れられないことは当然ある。同じ家で眠り、同じ食卓を囲んでいても、どうしようもなく孤独になる夜もある。橋口亮輔がこの映画で見つめているのは、「夫婦という肩書きによって保証される幸福」ではなく、その名前だけでは決して埋まらない「人と人との距離」だ。
だからこそ、ここで描かれる喪失や心の不調とは感動のために整理されていない。人が深く傷付くとき、その痛みは大げさな出来事としてだけ現れるのではなく、起きる、食べる、着替える、人と話すといった生活の小さな動作を少しずつ奪っていく。昨日まで当たり前に出来ていたことが急に出来なくなってしまうのだ。その変化を橋口監督は「病んだ人」という記号に押し込めず、ひとりの人間の時間として見つめている。
人が生きづらくなっていくとき、最初に失われるのは人生の意味ではなく、生活を続けるための小さな手応えなのかもしれない。
そして重要なのは、その人を元の場所へ戻すことだけを「回復」と置かないことなのだ。傷付く以前の自分には戻れなくても、人は変わってしまった自分のまま、再び生活と関係を結び直すことができる。その可能性を本作は決して急がずに見つめ続けていた。
理解することより、退出しないこと

この映画のカナオを「妻を支える優しい夫」とだけ呼ぶと、作品が描いているケアの複雑さをかなり取りこぼしてしまう。
彼は完璧ではない。気が利くわけでも、いつも正しい言葉を選べるわけでもない。相手が抱えている痛みを完全に理解出来るわけでもなければ、それを取り除く力を持っているわけでもない。その頼りなさを消さないところに、橋口監督の人物造形の誠実さがある。
私たちは誰かが苦しんでいると理由を知りたくなる。原因を見つけ、意味を与え、適切な言葉をかけることで、その苦しみを自分にも理解可能なものへ変えようとする。けれど、他人の痛みにはどれだけ愛していても入れない領域があるのだ。
ここで描かれるケアとは、相手を理解し尽くすことではなく、理解できない部分があると認めた上で関係から退出しないことだ。
分からないまま同じ場所にいる。何も解決できない日にも食事をする。相手を元気に出来なくても、その存在そのものを厄介事として処理しない。
それは「寄り添う」という言葉が持つ美しいイメージより、ずっと地味だし面倒で、長い時間を必要とする行為だ。そして愛情が最も試されるのは、相手を好きだと強く感じる瞬間ではなく、相手に何もしてあげられない自分を引き受けながら、それでもそこに残る瞬間なのかもしれない。
個人の痛みの「ぐるり」には社会がある

タイトルにある「ぐるり」は、夫婦を取り囲む社会へと静かに広がっていく。
この映画では人の痛みが決して個人の内側だけで完結しない。家族、労働、ジェンダー、経済、犯罪、ニュースとして流れていく社会の暴力。人はそうしたものと切り離された密室の中で心を病むわけではない。
それでも橋口監督は「社会が悪いから人が壊れた」という単純な説明には向かわない。原因と結果を一本の線で結ぶのではなく、人間が生きている場所の周囲には無数の出来事があり、それらが本人にも説明できない形で心の中へ入り込んでいることを示していく。
その視線を象徴しているのが、法廷画家という仕事だ。そこでは人がなぜ人を傷付けたのかが語られ、罪の重さが測られ、責任が問われる。しかしどれほど言葉を尽くしても、一人の人間を完全に説明することはできない。
法廷画家に出来るのはそこにいる人間の顔を見ること、そして描くことだけだ。人を見ることと、人を理解したつもりになることは違う。そして、人を見ることと、人を裁くことも違う。
この距離感とはそのまま、橋口監督自身の倫理感であるのかもしれない。苦しむ人を病名だけで説明せず、加害した人間を事件名だけで処理せず、その人の中には最後まで説明し切れない部分が残ることを許す。社会の「ぐるり」を見渡しながら、それでも最後には一人の人間の顔へと戻ってくる。その視線が本作を単なる「夫婦の物語」よりずっと広い場所へ連れていってくれた。
回復とは元の自分に戻ることに非らず

木村多江の演技が圧倒的なのは、苦しみを分かりやすい大芝居に変えないところにある。
視線、呼吸、身体の置き方、言葉が口から出るまでのわずかな時間。そうした小さな変化によって、自分を保つために必要だった力が少しずつ失われていくことが伝わってくる。反対にリリー・フランキーは、カナオを聖人化しない。頼りなくていい加減で、時には腹立たしい。それでも決定的なところで相手の尊厳を手放さない。
二人が素晴らしいのは夫婦を「二人でひとつ」の存在に見せないことだ。長く一緒に暮らしていても、最後まで別々の身体と心を持つ他人としてそこにいる。
そして本作は表現することもまた、重要な意味を持つ。何かを描いたから傷が治るわけでも、失ったものが戻るわけでもない。芸術が人生を救うという美談にしてしまえば簡単だが、この作品はそんな便利な効能を与えない。
それでも、言葉にならないものに色や形を与えることで、自分の内側と外の世界との間にもう一度細い通路をつくることはできる。
回復とは、傷つく前の自分へ戻ることではなく、傷を持った現在の自分で世界との関係を結び直すことなのだろう。
4Kリマスターによって見えてくる俳優たちの細かな表情や沈黙も、そのことを強く感じさせる。高精細になった画面が明らかにするのは派手な映像美ではなく、言葉になる前の感情だ。
橋口映画ではその一瞬の揺れこそが、人間の生を最も雄弁に語っている。
愛すること、共に生き続けること

本作を観終えた後、「夫婦愛」という言葉だけではどうしても足りないものが残る。
もちろん二人の間には愛がある。ただ、橋口監督が描いているのは愛情という感情そのものより、それを生活の中で何度も選び直すことではないだろうか。
誰かを好きでいることと、その人の人生に付き合うことには距離がある。好きという気持ちは揺らぐ。面倒だと思う日もある。自分のことで精いっぱいになり、相手を気遣う余裕がなくなることもある。それでも食事をして同じ家へ戻り、何も解決しないまま次の日を迎える。
そこには「これで幸せになりました」という完成形がない。
この映画における希望とは全てが良くなることではなく、良くならない日にも関係を続けられることの中にある。
『ハッシュ!』が血縁や婚姻の外側から家族になる可能性を探った作品だとすれば、こちらでは既に夫婦である二人を通して、家族であり続けるとは何かが問われている。
家族という名前を得ることより、その中で相手を「自分とは違う人間」として見失わないこと。長く一緒にいるから分かったつもりになるのではなく、分からないものを持つ他者として何度でも見直すこと。
人は人を完全には理解できないし、完全に救うこともできない。それでも、そばにいることはできる。
橋口亮輔は、そのささやかな行為を奇跡のように美化するのではなく、面倒で、不器用で、時には報われない生活の反復として描く。だからこそ最後に残る希望は甘くない。
誰かと生きるとは、孤独がなくなることではない。互いの孤独を消せないまま、それでも同じ場所に戻ってくることなのだ。
『ぐるりのこと。』【作品紹介】
「ハッシュ!」の橋口亮輔監督が、一組の夫婦の約10年を通して、家庭の痛みと社会の変化を重ねた人間ドラマ。日々の暮らしの中から、誰かと生き続けることの難しさと希望を見つめる。
出版社で働く翔子と、法廷画家として働き始めたカナオ。子どもを失ったことを境に翔子の心は不安定になり、夫婦の暮らしも少しずつ変化していく。カナオは妻に寄り添いながら、裁判所で社会を揺るがした事件の数々を見つめ続ける。
翔子を木村多江、カナオをリリー・フランキーが演じ、ともに本作で映画初主演。共演に倍賞美津子、寺島進、安藤玉恵、八嶋智人、寺田農、柄本明ら。
