【解説・ネタバレ有り】『シラート』の大地を読む —誰もいない砂漠などなかった—

沖縄は古いシネコンの普通のスクリーンでした

2回目以降は鈍痛伴うシーンに
結末まで踏み込むことで見えるもの
『シラート』を離れたあと、私はサハラ砂漠の歴史を調べずにはいられなかった。最初は映画の中で起きた出来事の意味を少しでも掴みたいという気持ちだったが、西サハラ、スペイン領サハラ、モロッコによる実効支配、ポリサリオ戦線、地雷、リン鉱石、鉄鉱石列車といった言葉に触れるたび、スクリーンの中の悲劇が現実の地図と静かに繋がっていく。そこで起きてきたことを知るほど、日本に暮らす日本人として諸外国の資源を日々消費しながら、その土地の痛みをほとんど知らずにいた自分の無知を突きつけられた。遠い砂漠の物語だと思っていたものが、自分の生活の足元まで伸びてくる。その感覚は殆ど、自らの原罪性に触れるようなものだった。
だから『シラート』については、結末まで踏み込んで語らなければ見えてこないものがある。なぜなら本作の悲劇はただ物語の中で突然降りかかる不幸としてだけでなく、その背後にある土地の歴史、戦争の残響、資源をめぐる暴力と結びついたとき、より深い輪郭を帯びるからだ。失踪した娘を探す父 ルイスと息子 エステバンの旅は、最初こそ娘を見つけるためのロードムービーとして幕を開ける。だが中盤以降、本作はその輪郭を容赦なく変えていく。息子と犬の突然の死によって、ルイスの旅は「失われた娘を探す旅」であるだけでなく、いま目の前で失われた命を抱えたまま、それでも進むしかない旅へと変質してしまう。この映画の凄絶さとは、その喪失を過剰な泣きの演出に預けないところだ。人が死に、音は鳴る。でも砂漠は広がったまま。残された者たちは嘆きに十分な時間さえ与えられないまま、次の場所へ移動しなければならない。普通の映画なら悲劇として大きく抱きしめるはずの出来事を、『シラート』は乾いた砂の上に置き去りにするのだ。その冷たさが逆に喪失の重さを際立たせていた。悲しみとは必ずしも涙と回想によって表されるものではないからだ。身体がまだ動いてしまうこと、世界が何事もなかったように続いてしまうこと、その耐えがたい無慈悲さの中にこそ、喪失の本当の恐ろしさが宿る。砂漠は誰かの死を悼まない。低音もまた、立ち止まってはくれない。だからこそ、本作が差し出す悲しみは深い。慰めの余白を剥ぎ取られた場所で、人はそれでも呼吸を続け、足を前へ出してしまう。本作はその怖さをレイヴの爆音と砂漠の無音の間で観客に突きつけてくる。

地雷原が示す西サハラの歴史
その先に現れる地雷原の場面は、『シラート』の社会的な射程を決定的に露わにした。地雷とは戦争が終わったあとも土地に残り続ける暴力であり、爆撃のようにその瞬間だけで終わらない。戦争の理由を知らない者、そこに埋められた歴史に責任を持たない者、ただ移動していただけの者の身体だろうが、何年も何十年も遅れて破壊してしまう。だからあの場面は観客を驚かせるためだけのショック演出ではないわけだ。
レイヴァーたちは管理された社会から逃れ、自由に移動する者たちのように見える。空き地や倉庫や森や砂漠にサウンドシステムを持ち込み、自分たちの音と場所を作るレイヴカルチャーには制度の外へ出るための切実な知恵があった。しかし『シラート』は、その「外部」だと思っていた土地もまた既に国家、軍事、国境、資源の論理に傷つけられていたのだと突きつける。モロッコから砂漠の奥へ向かうこの映画の地理には、西サハラの歴史がどうしても重なってしまう。ここはかつてスペイン領サハラと呼ばれた植民地であり、スペイン撤退後もモロッコによる実効支配とサハラウィ人の独立を求めるポリサリオ戦線との対立が続いてきた土地だ。つまり、この砂漠は誰もいない自由な空白ではない。植民地支配の後始末、未完の脱植民地化、難民化した人々の移動、軍事的緊張が積み重なった場所なのである。自由に踊る身体は、自由を奪われてきた土地の記憶と衝突する。彼らが踏みしめていたのは祝祭の地面であると同時に、名も知らぬ暴力が眠る地面でもあったのだ。そこに、この映画の残酷な批評性がある。

「世界一過酷な鉄道」とも呼ばれている
鉱石列車と資源消費の現実
さらに、最後に残された者たちが鉱石列車に乗り込む場面は本作の批評をもう一段深い場所へと運んでいく。サハラは何もない荒野ではない。むしろ、世界経済のために資源が掘り出され、運び出される土地でもあった。西サハラのブーカラーには大規模なリン鉱石鉱山があり、その資源は長く帰属問題や占領の問題と結びつけて語られてきた。さらに近隣のモーリタニアでは、サハラ奥地の鉄鉱石鉱山と大西洋岸の港を結ぶ鉄鉱石列車が走り続けている。『シラート』の鉱石列車が呼び起こすのは、まさにこの資源と移動の風景だ。人間が生きる土地である前に、そこは資源を取り出す土地として扱われてきた。誰かの生活や歴史や傷が刻まれた地面が、世界市場へ運ばれる鉱物の通路へ変えられていく。その列車に、あの地獄を生き延びた登場人物たちが身を預けるのだが、あまりにも苦い反転が刻まれていた。彼らは救済に向かって帰還しているようには見えず、むしろ、世界を動かしてきた資源と物流のシステムに最後には貨物のように回収されていくような感触さえある。レイヴの共同体は一時的に人間を制度の外へ逃がしたのかもしれない。だが、その逃げた先の地面も既に世界経済の地図の中に組み込まれていた。音楽は自由への通路になり得る。けれど、その通路の先には国境と鉱山と鉄道と市場が待っているのだ。
自分がこうした土地の歴史や痛みをほとんど知らずにいたことにも、映画を離れたあとで何度も立ち返らされた。鉱石、リン、鉄道、国境、占領、地雷。ひとつずつ学ぶたび、スクリーンの中の悲劇が現実の地図とつながっていく。砂漠に置かれた死は遠い映画の出来事ではなく、自分の暮らしを支える資源の影と地続きだったのだ。そのたびに知らなかった自分を呪いたくなるほどの内省が湧く。『シラート』のラストが苦しいのは自由の夢を否定するからではない。自由の夢がどれほど切実であっても、それを取り囲む世界の構造があまりにも巨大で冷たいことを見せてしまうところにある。そして、その構造の内側に自分が居ることを嫌でも思い知らされるのだ。

この頃までは本当に良かった
救済なき音楽、祈りとしての震え
だから『シラート』の結末に残るのは音楽による救いの甘い余韻ではない。生き延びてしまった者たちの沈黙であり、移動し続けるしかない身体の重さである。だがそれはレイヴや音楽の価値を否定するものではなく、むしろ逆だとさえ思う。地雷を消すことはできないし、植民地支配の歴史を消すこともできない。資源をめぐる暴力や国境によって引き裂かれた人々の現実を音楽だけで変えることもできない。それでも人が集まり、音を鳴らし、身体を震わせ、孤独を一時的に同じ振動の中へ預けることにはやはり意味がある。
『シラート』はその意味を美談にはしないという強い意志さえ感じられた。レイヴを聖域にしないし、音楽を万能の救済としても描かない。だからこそ、ここで鳴る音は祈りにも呻きにも似た切実さを帯びている。踊る身体は世界の残酷さから無傷でいられる身体ではなく、むしろ傷ついた土地の上で、傷ついた歴史のただ中で、それでもなお反応してしまう命そのものなのだ。そこにこの映画の苛烈さがあって、音楽の祈りと世界の残酷さを同じ画面に置き、どちらか一方に逃げることを許さない。そして、その残酷さを知ることは自分が安全な場所から悲劇を眺めるためではなく、自分の生活がどの資源に支えられ、どの土地の歴史と繋がってしまっているのかを考え続けるためでもある。
だからこそこの映画はレイヴ映画でもあり、終末ロードムービーでもありながら、最終的には踊る身体が踏んでいる大地そのものの歴史までを問う「現代映画」として立ち上がってくるのである。砂漠の果てで鳴っていた音は消えたわけではない。列車の鉄の響き、風に削られる砂、残された者たちの沈黙の奥でまだ低く震えている。音楽は世界を救わない。それでも、世界の残酷さを知ってしまった身体が尚、音の記憶を手放せずにいる。その震えこそが、『シラート』の最後に残された祈りなのかもしれない。
