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『ハッシュ!』家族になる資格を誰が決めるのか

「普通の家族」という幻想の外で

 いま観返して驚くのは、2001年に製作された映画でありながら、そこで語られている「家族」がほとんど古びていないことだ。
 むしろ同性婚がいまだ法制化されず、同性カップルが子どもを持つことについても偏見や制度上の障壁が残る現在の日本で観ると、この映画が二十五年前に投げかけていた問いのほうへ、社会がようやく追いつきつつあるようにさえ思える。
 ただし、橋口亮輔はゲイ男性二人と一人の女性が子どもを持とうとする物語を、「新しい家族の形」という耳触りのいい言葉には回収しない。勝裕も直也も朝子も、皆んな模範的ではないからだ。

 勝裕は周囲にゲイであることを隠し、面倒が起きれば自分を守ろうとする。直也は愛情に飢えているからこそ嫉妬深く、相手の言動に過敏になる。朝子に至っては他人との関係に傷つき続けた結果、時に相手の事情を踏み越えてでも自分の望みを優先する。
 三人とも厄介で、身勝手で、時に観ていて腹が立つ。けれど、人間とは本来そういうものだ。
 多様性を描く映画が陥りがちな「マイノリティを善良に描くことで理解を得る」という交換条件を、この映画は最初から拒んでいる。ゲイであろうと女性であろうと、感じの悪い人間でいる権利がある。
その当たり前を守ったまま、それでも三人が他人と生きる可能性を探し始めるところに、この映画の誠実さがある。

同じ「ゲイ」でも生き様は違う

 とりわけ印象的なのは、勝裕と直也が同じ「ゲイ男性」でありながら、この時代の表象としては珍しく、全く異なる生存戦略を身につけていることだ。
 勝裕は異性愛を前提とした社会の中へ自分を溶け込ませることで、安全な生活を確保している。職場では性的指向を明かさず、波風を立てず、自分の領域を守る。それは臆病さとも見えるが、同性愛者だと知られた瞬間、それまで築いてきた人間関係の意味まで書き換えられかねない社会と時代では、極めて現実的な自己防衛でもある。
 一方の直也は、より露出した生き方をしている。明るく、軽やかで、勝裕よりずっと自由に見える。しかし、その自由にも代償がある。社会に自分を合わせないかわりに、拒絶される可能性を日常的に引き受けなければならない。

 橋口監督は二人のどちらかを「正しいゲイ」とも描かない。
カミングアウトを勇気として単純に称揚せず、クローゼットにいることを自己否定として断罪もしない。
 人はそれぞれの環境の中で生き延びるための方法を選んできただけなのだ。

 そして恋愛とは、その別々に獲得してきた生存戦略が衝突する場所でもある。好きになったからといって、二人の傷や恐怖が自動的に共有されるわけではない。同じマイノリティ同士でさえ完全には分かり合えない。
 その冷静さがあるからこそ、二人の親密さは「同じ属性だから理解し合える」という予定調和ではなく、異なる他者同士がどうにか相手の事情を知ろうとする過程として立ち上がってくるのだ。

子どもを望むことから始まる「家族の政治」

 そこへ朝子が「子どもがほしい」と入り込んでくることで、映画は恋愛物語から家族をめぐる政治へと大きく踏み出す。
 面白いのは三人の関係が誰かの崇高な理念から始まるのではなく、かなり個人的な欲望から始まること。朝子は社会を変えるために子どもを望んでいるわけではないし、勝裕と直也も家族制度に革命を起こそうとしているわけではない。それぞれが自分の人生をどうにかしたくて、その欲望が偶然、交差する。

 だからこそ「誰の子どもなのか」「誰が育てるのか」「誰が決めるのか」という問題は崇高な理念ではなく生活上の摩擦として現れる。
 ここには現在の視点からこそ考えたくなる問題もある。妊娠して出産できる身体を持つ朝子と、そこに関わろうとする男性たちとの間には、決して対称ではない身体的負担がある。多様な家族を肯定するだけではその非対称性は消えない。

 けれど、この危うさまで含めて三人に話し合わせるところが重要なのだと思う。
 家族とは「愛があれば大丈夫」という無菌室ではなく、身体、金銭、ケア、責任、欲望といった極めて現実的な問題を分配し続ける共同体だからだ。
 そして考えてみれば、異性愛者の結婚や血縁家族だって、本来は同じ問いから逃れられない。誰が働き、誰が家事をし、誰が子どもの世話をし、誰の希望が優先されるのか。
 制度によって「普通の家族」と呼ばれた瞬間に見えにくくなる交渉を、制度からはみ出した三人を通して、この映画はむしろ露出させていく

食卓と沈黙が、他人を家族に変えていく

 この作品で最も胸を打つのは家族について大きな言葉で語られるよりも、三人が同じ場所で生活する何気ない時間を大切にしているところだ。
 食べる、話す、黙る、笑う、機嫌を損ねる。それでもまた顔を合わせる。
 人間関係とは劇的な告白によって完成するものではなく、そうした反復によって少しずつ生活になじんでいくものなのだろう。

 田辺誠一、高橋和也、片岡礼子の演技もその感覚を支えている。田辺の勝裕には周囲に適応してきた人間特有の身体の硬さがあり、高橋の直也には陽気さのすぐ裏側から、寂しさや怒りが飛び出してくる危うさがある。そして片岡の朝子は圧倒的だ。人を遠ざけるような言葉を吐きながらもその実、誰よりも他人との接続を求めている。その矛盾を説明せず、身体そのものに宿していた。

 4Kリマスターで改めて観る意味もここにあると思う。鮮明になった映像から見えてくるのは、単に風景や肌の質感だけではない。
 言葉を発する直前の躊躇、相手を見たあとわずかに逸らされる視線、笑った顔に一瞬だけ残る不安。橋口監督の演出は人間が口にした言葉と本当に感じていることの間にある、ほんの数秒のずれを見逃さない。
 二十五年という時間を経て高精細になった画面によって、むしろ当時の人間たちの曖昧な感情が鮮明になる。その逆説が面白いし、俳優たちの身体に刻まれた関係の変化をいま改めて見つめる理由にもなっている。

分かり合えないまま、一緒に生きるということ

 そして現在、この映画がさらに切実に見えるのは、私たちが「自分にとって心地よい人だけと繋がること」を以前より簡単に選べる時代に生きているからかもしれない。
 意見が違えばフォローを外し、価値観が合わなければ距離を置き、自分を傷つける関係から離れる。それ自体はもちろん重要な自己防衛であり、とりわけ暴力的な関係から退出する自由は守られなければならない。

 ただ、その自由と「理解できない他者とは一切関わらなくていい」ということは同じではない。
 勝裕と直也と朝子は互いを完全には理解しないし、最後まで異なる人間のままだ。それでも相手の存在によって、自分の人生の形が変わることを少しずつ許していく。

 この映画が提示する家族とは血縁でも婚姻でも、まして「仲良し」の別名でもないのだと思う。
 自分だけで完結していた人生の中に他者の都合が入り込み、それによって予定が狂い、面倒が増え、それでもその人がいることを自分の生活の一部として引き受けていくことだ。
 家族になる資格を国家や社会が認定するより前に、人はそうやって家族になってしまう。

 二十五年前、橋口亮輔は「家族とは何か」に新しい答えを提示したのではない。もっと根本的に、「そもそも誰に、それを決める権利があるのか」と問い返した。
 その問いに日本社会がいまだ十分な答えを出せていないからこそ、スクリーンの三人は少しも過去の人にならないのである。

『ハッシュ!』【作品紹介】

『二十才の微熱』『渚のシンドバッド』の橋口亮輔監督が、ゲイの男性カップルと子どもを望む独身女性という三人を中心に、恋愛や結婚、血縁だけには収まらない人間同士の繋がりを描いた人間ドラマ。2001年のカンヌ国際映画祭監督週間に出品。

 ペットショップで働く直也と、土木研究所に勤める勝裕は恋人同士。そこへ歯科技工士の朝子が現れ、勝裕に「子どもを持つために協力してほしい」と持ちかける。思いがけない提案をきっかけに、直也と勝裕の関係にはそれまで見えなかった迷いや温度差が生まれ、朝子もまた二人との関わりを通じて自分の生き方を問い直していく。三人は周囲の家族とも衝突しながら、自分たちにとって無理のない親密さの形を探していく。

 出演は栗田勝裕役に田辺誠一、長谷直也役に高橋和也、藤倉朝子役に片岡礼子。秋野暢子、冨士眞奈美、光石研、つぐみらが共演。恋人、友人、家族といった既成の呼び名では整理しきれない三人の距離を、生活の細部まで感じさせる俳優たちの演技が支える。

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