悲劇のヴィブラフォン奏者

昔のジャズ・ミュージシャンはジャンキーが多く、畳の上(?)で死ねなかった人が大勢います。

中には、ホテルの窓から転落死したチェット・ベイカー(トランペット)や、愛人に射殺されたリー・モーガン(トランペット)など、壮絶な“死に様”のミュージシャンたちも。

ジャンキーでなくても、クリフォード・ブラウン(トランペット)や、スコット・ラファロ(ベース)のように、自動車事故で亡くなった人も結構います。
でも、一口に自動車事故と言っても、ボブ・バーグ(テナー・サックス)のように、散歩中のところをアイスバーンでスリップしたトラックに突っ込まれた、という不幸なケースもあります。

不思議な死に方をしたのは、アルバート・アイラー(テナー・サックス)。
1970年11月突然行方不明となり、20日後にニューヨーク東端を流れるイースト・リヴァーで水死体となって発見されます。

直接の死因は溺死でしたが、ピストルで撃たれた跡があったとか、麻薬絡みでマフィアに制裁を受けたのだとか、様々な噂が流れました。
しかし、結局のところ真相はわかっていません。

今回紹介する悲劇の死者は、ヴィブラフォン奏者のレム・ウィンチェスター。
なんと彼は、ロシアン・ルーレットで命を落としてしまいました。

なぜ、そんなゲームをやっていたのでしょう?
実はゲームではなく、あくまでショーの一環でした。

でも、ウィンチェスターの話をする前に、ジャズの世界では超少数派とも言える、ヴィブラフォン奏者について簡単に触れておきたいと思います。

ヴァイブと聞いて真っ先に思い浮かべるのは、やはりMJQのミルト・ジャクソン。
デトロイトでピアニストとして活躍していた頃、共演したライオネル・ハンプトンから、彼が使っていたヴァイブをプレゼントされます。

ミルトは、ピアノの他にベースやドラム、ギターもこなし、なんと10代半ばでのプロデヴューは、ゴスペル・カルテットの歌手だったというから驚きです。

でも、どんなにヴィブラフォンを練習しても、ハンプトンには遠く及びません。
そこで、ハンプトンとの違いを出すため、硬いマレットを使って少し金属的な音にしてみました。
また、ヴィブラートのかかるスピードを遅くなるよう調整もしました。

ジョン・ルイス(ピアノ)は、ミルトのことを「ヴィブラハープの名手」と評しましたが、その陰にはたゆまぬ努力と工夫があったのですね。
どこの世界でもそうですが、ジャズの世界でも、人と同じことをやっていては注目されないのです。

ニューヨーク進出後も、しばらくはピアニストとの二刀流で演奏していましたが、MJQに加入したのを機にヴァイブ一本に絞りました。
でも、彼のブルージーな演奏スタイルは、ヴァイブでもしっかり引き継がれました。

ハンプトンは、将来ミルトが自分のライヴァルになるとわかっていたら、絶対プレゼントしなかったのにと後悔していたそうです。
でも、ミルトが想像を絶する努力を積み重ねたことは認めていました。
本当は、ライヴァルの出現を喜んでいたのではないでしょうか。

そのハンプトンも、かつてはピアノを弾いていました。
その後、ドラマーに転向し活躍していた1930年のこと。
ルイ・アームストロング(トランペット)のレコーディングに参加した際、スタジオの片隅に置かれていたヴィブラフォンと出会います。

この楽器が誕生したのはその9年前。
当然世間には全く知られていない楽器でしたが、ハンプトンは木琴を学んだ経験があったので、興味本位で触っていたのでしょう。

ところが、その音をルイがいたく気に入り、収録ではヴァイブを演奏するよう指示されます。
これが、ヴィブラフォンという楽器が世に知られるようになったきっかけです。
つまり、ライオネル・ハンプトンは、ヴィブラフォンの先駆者だったのです。

それから6年後、ベニー・グッドマンのバンドに参加する頃には、「ジャズ・ヴィブラフォンの創始者」とまで言われるようになっていました。

71年、アメリカの「ジャズ大使」としてヨーロッパをツアーした時、ポーランドのワルシャワで大喝采に応えて、ヴィブラフォンからピアノへと楽器を代え、その後はドラムを叩き、最後はスティックを宙に放り投げて観客を熱狂の渦に巻き込んだとか。

ほとんどのジャズ・ミュージシャンは、プロ並みに演奏ができる楽器を、メインの他に一つか二つ持っています。
オーストリア生まれのピアニスト、ジョー・ザヴィヌルによれば、ヨーロッパでは一つの楽器だけではミュージシャンになれないそうです。

かつて『11PM』という深夜番組でオルガンを弾いていた、「KANKAWA」こと寒川敏彦を父に持つ小曽根真(ピアノ)も、ドラミングの腕前はプロ並みだと聞いたことがあります。
ちなみに、寒川は何の伝もないのに突然渡米し、ジャズ・オルガンの第一人者ジミー・スミスに弟子入りをしたという勇気ある男です。

ゲイリー・バートンも、かつてはピアノ弾きでした。
でも、和音を重視する彼は、ピアノよりも豊かなハーモニーを奏でることができるヴィブラフォンに魅了されます。

独自のスタイルを出そうと、2本のマレットを4本に持ち替えたことで、全く新しい表現法を発見しました。
バートンは、強い探求心を持つミュージシャンだったので、フュージョンでも新たな可能性を追求しました。

面白い話があります。
ある日の終演後、楽屋を訪ねてきた18歳の学生が、バートンに向かってこう言い放ちました。
「僕はあなたのバンドの曲は全部演奏できます。バンドに入れてください」

最初はアタマのおかしな若者が来たと思いましたが、取り敢えずギターを弾かせてみました。
すると、どうでしょう。
とても美しい音色を奏でるではありませんか。

でも、困ったことに、バンドにはすでにミック・グリッドというギタリストがいます。
悩むバートン。
でも、しばらくすると名案が浮かびます。
「そうだ、12弦のギターを担当させたらいいではないか」

若者の名前はパット・メセニー。
6弦と12弦の2人のギター奏者を置くなんて、まさにバートンならでは発想です。
やっぱり、他人のやらないことをやらなければダメなのです。

ライオネル・ハンプトンが、「ジャズ大使」としてポーランドで演奏していた年、ゲイリー・バートンも同じく「ジャズ大使」としてソ連でツアーを行っています。
もし、彼らがピアノを弾き続けていたら、「ジャズ大使」に任命されるほどのビッグネームになれたかどうか。

しかし、そうは言っても、ヴァイブの演奏がピアノより楽という訳ではありません。
ピアノ以上に「練習の虫」でなければ、この楽器を思いのままに操ることはできないのです。

ボビー・ハッチャーソンは、右手の人差し指を切断してしまい、接合手術を受けたにも関わらず、手術の影響を全く感じさせない素晴らしい演奏をしていました。
おそらく、想像を絶する量の練習を重ねたのでしょう。

でも、ヴィブラフォンにおける超絶技法といえば、何と言ってもウォルト・ディッカーソン。
彼はマレットを小さくし、できるだけマレットに近い位置で演奏することによって、超ハイスピードの演奏を可能にしました。

しかし、世はブルージーな演奏のミルト・ジャクソンの全盛期。
そこでディッカーソンは、彼との差別化を図るために、メロディよりもパーカッシブな演奏の可能性を追求しました。

その甲斐あって、“メタリック・コルトレーン”と評された時期もありましたが、逆に彼の「バカテク」ぶりが浮いてしまい、クァルテットの演奏を聴いていても、ディッカーソン個人のスポーツ競技を見せられているような気がしてきます。

要するに、ディッカーソンの自己顕示欲が強すぎて、グループ全体のまとまりが感じられないのです。
伝統的な日本のジャズ喫茶で育った人なら、きっとこう言うでしょう。
「とってもお上手。でも、だから何?」

せっかくヴィブラフォンを演奏しているのですから、もう少しグループのハーモニーに留意した方がいいと思うのですが。

その点、グループとしてうまくまとめ上げたのが、ビル・エヴァンス(ピアノ)やハービー・マン(フルート)、ケニー・パレル(ギター)、トミー・フラナガン(ピアノ)といった大御所との共演経験があるデイヴ・パイク。

決定的だったのは、レン・ライオンズが「リズムのドライヴ」と称し、ゲイリー・ギディンスが「ピストンのごとく鍵盤にかかる」と形容したほど強靭なタッチが特長の、シダー・ウォルトン(ピアノ)のトリオと共演したことでしょう。

シダーは、共演者の魅力を引き出すことにかけては、右に出る者がいないピアニスト。
ボブ・バーグも彼によって引き立てられた一人です。

ここでもシダーは、パイクの熱演を引き出す「触媒」の役目を十二分に果たしています。
パイクはドラマー出身ですが、ピアニストにはいつも全体の調和を意識できる実力者を配しています。

その辺が、アンドリュー・ヒルなんかを起用しちゃうディッカーソンとの決定的な違いか。
ディッカーソンの演奏がしっくりこない理由は、どうやら彼の自己顕示欲だけではなさそうです。

またパイクは、ヴィブラフォンにアンプを取り付けるという、画期的な試みにも挑戦しています。
彼もまさに、努力と工夫の人でした。

ただ難点を言えば、バド・パウエル(ピアノ)並みの唸り声というか呻き声。
完全に、ヴィブラフォンの美しい音色の邪魔です。

ピアノを演奏する人は多いので、どうやって他人との差別化を図るかがカギですが、演奏する人が少ないヴィブラフォンでも悩みは同じようです。
つまり、他人とは全く違う、「圧倒的な個性」が必要ということです。

そろそろ、レム・ウィンチェスターの話をしましょう。
ウィンチェスターは、ピアノの経験こそありませんが、フルート、ピッコロ、バリトン・サックス、テナー・サックスと楽器を変えた後、19歳の時にヴァイブに辿り着きます。

ヴォードヴィルの一座にいたという父親は、彼が人前に出ることを積極的に応援してくれました。
ヴォードヴィルとは、要するに人を笑わせる仕事。
でも、ヴァイブ演奏の基礎を教えてくれたのは同じ一座にいた父の弟でした。

メキメキ腕を上げたウィンチェスターは、ラムゼイ・ルイス(ピアノ)や、ベニー・ゴルソン(テナー・サックス)といったビッグネームと共演し、高い評価を受けます。

ところがこの実力者は、なぜかセミプロとして長い間活動していました。
彼の本来の職業は、デラウェア州ウィルミントンの警察官。

ジャズテットを結成したばかりのベニー・ゴルソンが、一緒にツアーに出ようと再三誘いますが、警察官としての使命感から断り続けていました。

職務を終えて私服で歩いている時も、市民からしょっちゅう声を掛けられたといいますから、よほど慕われる警官だったのでしょう。
上司の理解を得て、特別に「二足の鞋」を履くことができたのも、ウィンチェスターの人柄の成せる業か。

その頃、地元周辺のクラブでよく共演する、抜きん出た実力を持つ一人の学生トランペッターがいました。
デラウェア州立大の数学科に進学した後、メリーランド州立大音楽科に転校したその学生こそ、クリフォード・ブラウンです。

ウィンチェスターも、ブラウニーと共演することで、世間からの注目を集めます。
やがて、ジャズ評論家のレナード・フェザーの目に止まり、「ニューポート・ジャズ・フェスティバル」に出演するチャンスを掴んだのが58年。

彼にとっては、初の晴れ舞台です。
そのステージで高い評価を受けたことがきっかけで、ようやくウィンチェスターの心が動きます。

一方では、警察官としてのキャリアを重ねたことにより、次第にデスクワークの比率が増えてしまい、現場から遠ざかったことへの不満も募っていました。

ついにウィンチェスターは、プロとして活動することを決意します。
優秀な警察官として高い評価を受けていたため、上司は特別に巡査部長に昇進させてからの退職を認めてくれました。

さらに、特例として警官バッジのレプリカと彼の拳銃を、記念品として授与してくれたのです。
でも、結果的にはこれが仇となったわけですが。

ウィンチェスターは、この「思い出の品」の拳銃を常に持ち歩き、ステージ上でMCをする際には、自分の経歴を話しながら拳銃を取り出して、やおらこめかみに当てて引き金を引いてみせるというパフォーマンスをやっていました。

もちろん弾は入っていません。
たちの悪い余興ですが、観客は大喜び。

客を喜ばせるのが好きなのは、ヴォードヴィルで活躍した父親の遺伝子かもしれません。
彼ほどの実力があるなら、演奏だけで十分客を満足させられたのに。

プロとして活動を始めた矢先の61年1月13日、インディアナポリスのジャズクラブで悲劇は起きました。
この日、ウィンチェスターはいつもの拳銃を忘れてしまいます。

そこで、オーナーの拳銃を借りたのですが、まさか弾が込められていようとは夢にも思っていませんでした。

もし、この不幸な事故がなかったら、ウィンチェスターは間違いなくミルト・ジャクソンに迫るヴァイブ奏者になっていたことでしょう。
人生は本当にわからないものです。

それにしても、つくづく皮肉だなと思うことがあります。
それは、西部開拓時代に最も使われたレバー・アクションのライフル銃のメーカー名が、彼の名前と同じ「ウィンチェスター」だったこと。

あ、それからもうひとつ。
亡くなった日が、13日の金曜日だったことも。

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