とらぶた自習室 (22) 勉強メモ 野口良平『幕末的思考』に、著者様からお返事をいただいてしまいました!
野口良平著『幕末的思考』みすず書房 第3部「公私」 第1章1~4 ③
拙勉強メモに著者様からお返事を頂いてしまいました!
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《 》内、太字:野口良平様
地の文:栗林佐知
2023年8月10日のメモ
■ ちょっと復習
野口良平著『幕末的思考』 第3部「公私」
第1章 再び見いだされた感覚─第三のミッシングリンク1~4 ③ 福沢諭吉『痩我慢の説』のところ。
誰もが住みよい世の中をつくるのには、法(ルール)が必要。 なのだけど、「強い人たちも弱い者を搾取する自由を手放し、従いなさい!」という理屈の根本は何か。
ルソーと中江兆民は、それは強者だけが自由を謳歌する「自然状態」がまずいからだ。と位置づけた。
いっぽう、福沢諭吉は「痩我慢の説」でこう言っているそうだ。
「公をつくるのは私情だ」と。
このあたりが、私はちょっとわからず、「自然現象がまずいから」という考えでは不正解なのか……。と疑問だったのです。
著者様から、ものすごく貴重なお返事を頂いてしまって……
自分一人で見るには、あまりにもったいない内容なので、ご許可を頂いて、ここにアップいたします。
■『幕末的思考』著者、野口良平先生からのお返事
《自然状態のままだと弱肉強食が野放しにされてヤバいので社会契約を結ぶ。これが、ルソーと中江兆民が考えたことです。
でもそのとき、すべての人がそれを「ヤバい」と気づけるわけではないのではと、二人は考えたわけです。
ルソーは、「立法者」と「市民宗教」を考えることで、その難問をクリアしようとして失敗しました。
兆民は、その失敗に気づくことはできたのですが、その失敗を克服する明確な根拠を見出すことはできませんでした。
意外なことかもしれませんが、その根拠を見出したのが福沢だったのではないかというのが、私が出してみたた考えです。
福沢は、弱肉強食は「ヤバい」と感じるものが、一個の「私」「私情」でしかないことに注目します。
ルソーは、「私」の大切さを痛いほど知っていましたが、私情というものが「公」をつくるだけの力をもつものだとまでは考えることができませんでした。言い換えれば、「私」というもののとらえかたがまだ浅く、「私」というものが経験のなかで広く、深いものに成長しうるものだとまでは考えることができなかったわけです。
「私」には公をつくる力がある。と同時に、どのような公にも回収しきれない固有の価値をもつ。こういうダイナミックな把握をなしえたのは、兆民よりも福沢だったのではないか。
一方、ひるがえってみれば、兆民自身、自分の思想にどこか足りないものがあるということに気づいていたふしもあります。
国会議員をやめて再び野にくだったのち、いろいろな商売に手を出しては失敗し、辛酸をなめたのも、「公をつくるものとしての私」という考え方を試してみたかったのだ、と考えることも可能だと思われるのです。
今だったら、こういう説明も加えてみるかもしれませんね。
そもそも、人間に私情というものがあるからこそ自然状態が生じた。と同時に、その自然状態を終わらせたいと思うのも、私情にほかならないのだと。
「私情」には、それだけのふり幅が備わっているのではないか。
「私」には「公」をつくり、しかもその「公」のありようをチェックする力がそなわっている。
福沢のこの考え方がなかったら、文学というものそれ自体の存在理由がなくなってしまうように、私には思えたのです。
***
福沢に対しては、さまざまな批判が寄せられていることは承知しています。どんな言論にも、可食部と不可食部というものはあるでしょう。福沢の考え方についても、どこまでが可食部で、どこからが不可食なのかということが、過不足なく見極められる必要があるのではないでしょうか。》
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
■そしてまた私のアホーな反芻
なんというもったいなきご返信。
ルソーは、「私」の大切さはイヤと言うほど知っていたけど、「私」にそんな力があるとは気づいていなかった……。
そっかー。ルソーは自分がすごい変人と知っていたので、そこまで「私」を大事にする自信がなかったのかなあ。
なんて、そんな奥ゆかしい人じゃないか。
《「私」には「公」をつくり、しかもその「公」のありようをチェックする力がそなわっている。
福沢のこの考え方がなかったら、文学というものそれ自体の存在理由がなくなってしまう……》
うわ、世界ひっくり返った。
「公」は、えー! そうなのか、いやそうなのかも。でーんとそこにあったり、天から降ってくることとか、天の摂理とかじゃなくて……「私」からつくられる。あらー。なんか世界が重苦しくなくなってきた。なんか心のびやかになった。
「文学というものそれ自体の存在理由」……何かの扉がひらきかけたような。これはきっと後でハッとするかもしれない。
考えたことなかった、文学の存在理由なんて。
「スミマセンがこんなゴミでもこれをよすがに生きさせてください」……というような、流れの中の細い杭のようなものだと思っていたかも。
そして、
《どんな言論にも、可食部と不可食部というものはあるでしょう。福沢の考え方についても、どこまでが可食部で、どこからが不可食なのかということが、過不足なく見極められる必要が……》と。
可食部と不可食部という言葉、すごい言い当てた表現だなあ!
などとヨロコンデいたのですが……いやいや違いますて! これは、もう少し強い「たしなめ」のお言葉ですね。
福沢のたくさんの言説の中から「醜業婦」発言に真っ先に注目して、福沢全体を否定してしまうのは、 りんごをもらってヘタに噛みつき「ぺっ、ぺっ、これ食べれない~」というのと同じですね。
(今、この分をこの「とらぶた自習室」に移していて、さらにひしひしと己が蓄積不足、何かを言うにも考えるのにも素養が全く足りていない子とを感じているのであります)
■「個人的なことは社会的(政治的)なこと」について
この部分について頂いたお返事は……
《「公をつくるものとしての私」という考え方は、The personal is political.という考え方を含みうるものだと、私は思います。
ただ、ギリギリのところで、「私」には政治的な要素には還元できない性質が残されるように感じられます。福沢の「瘠我慢」は、The personal is both political and non-political.という考え方に近いのではなかという気がしますね。》
■そしてまた私の反芻
「個人的なことは社会的なこと」じゃなくて「個人的なことは政治的なこと」なんですね。The personal is political.は、60年代にアメリカを席巻したフェミニズム第2波と反戦運動の合い言葉だったのですね。
私はそれを認識してないで、どこかでこの言葉を耳に挟んで、ウーマンリブのお姉さんたちが、世間から馬鹿にされながら「がんばろうね」「私たち自分勝手なわけじゃないよね。この苦しさは社会の問題だよね」と励まし合った、という感じの言葉だと思って、勝手にじーんとしたのです。
(私は60年代前半うまれ。小学生の時、「ウーマンリブ」という言葉が「ブスで乱暴な女」という感じで使われてたのでそう思っていたのですが、長ずるに及んで、しらけた同世代の中で、からかわれながら闘っていたお姉様方に熱く共感するように……)
《「私」には政治的な要素には還元できない性質が残されるように感じられます。》
全部わかったのではないけど、なんだかはっとするような。
いや、わかってないかもですが……そのうち、「あ」とおもうかもしれません。
平易なお言葉でくださりながら、ものすごい嵐です。
たぶん後々思い出しては、何度かハッとすることでしょう。
野口さん、もったいなきお返事を、まことにまことにありがとうございます。なんとぜいたくなことでありましょう!!
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