灰の街の色#前編|心が回復していく小さなファンタジー【小さな日々のかけらたち】
「何も感じない」「世界が灰色に見える」——そんな日々を、あなたは過ごしたことがありますか?
この短編は、心の色を失った青年・ノアが、不思議なビー玉と出会い、少しずつ感情を取り戻していく物語です。
繊細な感覚をもつ人にこそ届いてほしい、ささやかなファンタジー。
灰色の街が、そっと色づく瞬間を、あなたと一緒に見られますように。
※このお話は2話構成です※
*
灰色の空は、今日も一滴の色も持たなかった。
外に流れる景色も、人の顔も、黒い渦に消えていくように認識できない。ノアは、毎朝のように窓に映る自分の顔にもそのうち黒い渦がかかりそうだな、と考えていた。
職場に着いても相変わらず世界は灰色だ。職場の人たちは何か喋っているが、会話さえ色がない。いつもと一緒だ。これが毎日のように続いていく。
ノアは、仕事を終えて外に出た。
雨はまだまだ降り続く。
朝よりも細かく、冷たく、空気を濁らせるような降り方だ。
傘をさして歩く人たちは皆、同じ速度、同じ方向、同じような顔をしていた。まるで、灰色の譜面に並ぶ短調の音符・・・。
いつもは通らない路地の道に、ふと足が向く。
なぜだかわからない。でもこの世界から抜け出したくて、目を逸らしたくて、まっすぐ帰りたくなかった。もう限界だった。
そこにあったのは小さな祠。膝の高さくらいまである。古びた祠の周りには、いくつか奇妙な物が並んでいた。ランプ、壊れた時計、かご、石ころ。
ノアの目が止まったのは、ガラス瓶に入ったビー玉だった。光っている。色はわからないが、確かに光っている。
その祠には紙が貼ってある。
「どうぞご自由にお取りください。あなたの力になりますように」
誰のものなのか、周囲を見回しても、人の気配はまるでない。
ノアは戸惑いながらも、その瓶を手に取った。お供物かな?とも思ったが、良心が騒ぐこともなく、その瓶を持った。その瞬間手がふわりと暖かくなった感じがした。周りの音も、すうっと消えた。ノアはそのままビー玉の入った瓶をバッグに入れて、持ち帰った。
家に帰り、ノアはビー玉の入った瓶を机の上に置いた。
すると瓶の中から声が聞こえる。
「は〜〜、やっと出られる。狭いったらありゃしない」
不意に聞こえたその声に、ノアは驚いて心臓がバクンっと鳴った。
視線を戻すと、瓶の中から暖かい色の光を放ったビー玉が、ころん、と跳ねるように宙に浮かんだ。
「…喋っ…た…?」
「うん、喋ってるよ。まさか、拾っておいて無視はないよね。あんた、びっくりしすぎて変な顔になってるけど?」
ノアはしばらく言葉が出なかった。
ビー玉はくるくると回りながら、部屋の中をゆるりと漂う。
「…え?幽霊?妖精?なに?」
「どっちかっていうと…まあいいや。ヒカリコって呼んでくれていいよ。あんたが拾ったビー玉の、かわいくて便利なやつ。」
「ヒカリコ…?ええ…わけがわからない…きっと幻を見てるんだ…ついに僕もおかしくなってしまったんだ…」
ノアはビー玉を瓶に入れて紙で蓋をしようとすると、続けてヒカリコが言った。
「なに?あんた今日何もなかったことにする気?ヒカリコのこと拾ってくれたから、さぞかしいい人だと思ったのに」
ノアは蓋をかぶせようとした手を止めたまま、ヒカリコを見た。
ヒカリコは、瓶から飛び出てテーブルの上でふわふわ浮きながら、まっすぐにノアを見返しているようだった。表情はない。
けれど、わかる。見透かされている。
ノアは目を逸らした。
「ねえ、もしかしてさ」
ヒカリコが声を落とした。
「ずっと、何も感じられてない?」
ノアの肩がぴくりと揺れた。
「それがどういうことかわからないけど…。でも、そうだと思う。全部灰色なんだ。誰かが笑っても、色のない話みたいな感じ。どうせ僕が笑われてるんだろうな、としか思わない。全部遠くでぼんやりとしてるんだ。何を見ても、何も思わない。」
ヒカリコの声は、不思議と耳に届く。
「なるほどね。そういうこと。そんな日が、毎日、ずーっと続いてたってわけね。」
ノアは何も言えなかった。
けれど、胸の奥が小さく軋んだ。
「誰にも言えなかったんだね。言ったって、どうせわかってもらえないもんね。『元気出して』とかさ、悪気はないんだろうけど、そんなんじゃないってやつでしょ?」
その言葉に、ノアの喉が詰まった。
励ましの類は何度も聞かされた。何十回も、何百回も。
その度に、自分の壊れてる部分を、見なかったことにされた気がした。
「わからないんだよ」ノアがポツリと呟く。
「何が辛いのか、何が悲しいのか。わからないのに、ずっと苦しくて、重いんだ。誰かに助けて欲しいのかも、わからない。むしろ誰の記憶にも残りたくないとすら思う。ただずっと、静かに壊れていく感じがするだけ」
言葉にした瞬間、涙が頬を伝った。
ノア自身も気づかないうちに、感情が溢れていた。
ヒカリコは、何も言わなかった。
ただそっと、テーブルに光の粒をポツポツと落としていた。
まるで泣いているようだった。
「ごめん。」
ノアは、自分でも驚くほど小さな声で言った。
でもヒカリコはポンっと跳ねて言った。
「ありがとう、でしょ。聞いてやったんだから!ま、これからしばらくここで一緒にいることになるしさ、少しはお話ししてよね。こんな部屋でひとりぼっちなんて、つまんないし。」
ノアは頷いた。まだ世界は灰色だが、ヒカリコだけが暖かな色の光を放っていた。
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