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「いいですね」は、断り文句だった──AIを「顧客役」にして気づいたこと

「いいですね」という言葉は、むずかしい。

ほめているのか、困っているのか、「もう帰っていいですか」なのか。もらったそのときはうれしくて、でも一週間後に電話したら「また連絡します」と言われる。

それが、3件続いた。

新井健太は入社二年目。初めて独り立ちの商談を任されたのは、秋のことだ。今回担当したのは、大手メーカーの調達担当者への新製品提案。手応えは悪くなかった。むしろいいくらいだったと、本人は思っていた。

それでも、3件とも動かなかった。

「検討します」「社内で調整します」「また連絡します」──そして、返事は来なかった。


「提案が薄いんじゃないか」

上司の原田課長に報告すると、そう言われた。
「優位性をもっと強調しろ。他社との差分を数字で出せ」。

新井は言われた通りに提案書を作り直した。性能データを増やし、競合比較表を追加し、先方の既存ラインへの適合シミュレーションも加えた。二週間かけた。仕上がった提案書は、以前よりずっと厚みが出た。

次の商談で出すと、「充実した資料ですね」と言われた。

それでも、動かなかった。

新井には、何かが腑に落ちなかった。
提案が弱かったとは、どうしても思えなかった。では、なぜ …


「いいですね」の裏の、綱引き


提案を磨け。

営業の世界では、これが当たり前の知恵として共有されている。強みを主張しろ、数字を出せ、事例を積め、新井の会社でも、そうだった。

しかし、この「当たり前」を問い直す理論がある。

ジョブ理論(Jobs To Be Done, JTBD)と呼ばれる考え方だ。ハーバード・ビジネス・スクールのクレイトン・クリステンセン教授が広め、イノベーションの世界で注目されてきた。核心はこうだ。

人は「製品」を買いたいのではない。
「片付けたい用事(ジョブ)」のために、製品を雇いたいのだ。

たとえば、人はドリルを買うのではなく「壁に穴を開けたい」から買う。もっと言えば「絵を飾りたい」「部屋を自分らしくしたい」という状態を実現したいから買う。顧客の頭の中にあるのは、製品の性能ではなく、自分が置かれた状況と、そこから抜け出したい気持ちだ。

営業の文脈で言えば、調達担当者は「仕入れ先を変える」という業務をしたいわけではなく、「ラインを安定させたい」「自分の評価を守りたい」「余計なリスクを取りたくない」という、奥にある用事を片付けたいのだ。

だとすれば、新井が二週間かけて磨いたのは、この「奥にある用事」そのものではなかったことになる。彼が厚くしたのは、あくまで製品の性能データだった。

このジョブ理論を現場の実践へと発展させたのが、ボブ・モエスタとクリス・スピークだ。彼らは、顧客が動くかどうかは「提案の魅力」だけでは説明できないと言う。顧客が動くかどうかは「4つの力」の綱引きで決まる。

前に進む力は二つある。

ひとつは「現状への不満」。いまの取引先や部品に限界を感じている、このままではコストが続かない──そういう圧力だ。これが強いほど、顧客は「何か変えなければ」という気持ちになる。

もうひとつは「新しい提案への期待」。新製品を使えばラインが安定する、コストが下がる──そういう展望だ。提案書が伝えようとしているのは、ほぼ主にここだ。

一方で、引き止める力も二つある。

ひとつは「変化への恐れ」。本当に品質は安定するのか。切り替えたときのライン停止リスクはないか。社内で稟議が通るのか。万一トラブルが起きたとき、誰が責任を取るのか。

もうひとつは「現状維持の慣性」。いまの取引先は長年の付き合いだ。特に大きな問題もない。変えるには手間がかかる。人間関係もいい。変えなくても、今月の数字はとりあえず回っている。

顧客は、この4つの力の綱引きのなかにいる。

不満と期待の総和が、恐れと慣性の総和を上回ったとき、顧客は動く。

逆に言えば、提案書がどれだけ充実していても、恐れと慣性のほうが重ければ、顧客は動かない。

「いいですね」は、本音だった。
「いいとは思う。ただ、まだ動くほどではない」ということだ。


▼ 前に進む力(顧客を動かす)
現状への不満:今のままでは限界だ、という圧力
新しい提案への期待:変えれば良くなる、という展望

▼ 引き止める力(顧客を止める)
変化への恐れ:失敗したらどうする、という不安
現状維持の慣性:今のままでいい、という居心地の良さ

▼ 顧客が動くための方程式
(現状への不満 + 提案への期待)>(変化への恐れ + 現状維持の慣性)
→ この式が成り立ったとき、はじめて顧客は動く。


動けない理由は、書いていない


新井が二週間かけて作り直した提案書は、すべて「前に進む力」を強化するものだった。

性能データは、新しい期待を増やす。競合比較は、現状の課題を浮き彫りにする。適合シミュレーションは、切り替えのイメージを具体化する。

どれも間違いではない。

しかし彼は、顧客の調達担当者の中で何が引き止めていたのかを、一度も確かめていなかった。

相手は「ラインを止めたくない」と思っていたかもしれない。切り替え判断を社内で通す面倒を避けたかったかもしれない。長年の取引先との関係を壊したくなかったかもしれない。「新しいサプライヤーは試したことがない」という、漠然とした不確かさがあったかもしれない。

新井はずっと、綱引きの自分たちの側だけを強くしようとしていた。
相手の側で綱を引いている力を、一度も見ようとしていなかったのだ。


渡すのは、属性でなく内側


では、その「引き止める力」はどうすれば見えるのか。

本当は、顧客本人に聞くのが一番いい。しかし失注した相手にあらためて「なぜ買わなかったのか」を聞きに行くのは、現実にはかなりむずかしい。上司に相談しても「次の案件に集中しろ」で終わるかもしれない。聞けたとしても、本音を話してもらえるかわからない。

ここに、ひとつの方法がある。「顧客役のAI」との事前対話だ。

最近、マーケティングや営業の現場で、顧客のように反応するAIを使って提案を事前に検証する動きが広がっている。ハーバード・ビジネス・レビューはこの流れをAI顧客シミュレーションとして繰り返し取り上げ、ハブスポットは自社の主要顧客像「Growth Gabby」をAI化し、施策検証に使い始めている。

日本でも、同じ発想の実証が始まっている。NTTデータと花王は、購買データやSNSデータから作った「AI生活者」に新商品コンセプトへの反応を聞かせ、商品企画の初期段階の仮説検証をAIに任せ、試作評価や発売判断だけを実在の生活者に戻す、という使い分けを確認したと発表した。調査にかかる期間は、1.5カ月から半日にまで縮んだという。

この記事では、こうした「顧客役のAI」を「AIペルソナ」と呼ぶ。

大がかりな話に聞こえるかもしれないが、そうではない。特別なツールも、会社の承認も、予算もいらない。手元のAIに自分の商談メモを渡すだけで、今日から、ひとりでも始められる。

ここで重要なのは「何をAIに渡すか」だ。

「40代男性、大手Tier1の調達部長、年収1000万円」といった属性を入れても、返ってくるのは一般論だ。統計的な平均として答えてしまう。

渡すべきは、その顧客の「内側」。たとえば、こういう情報だ。

  • 相手の役職と、社内での立場(決裁者か、現場か)

  • 現在使っている製品・取引先の名前

  • 商談でかけてきた言葉や質問(「いいですね」「社内で確認します」など)

  • 相手が気にしていた点、沈黙した場面

  • 業界の状況や、会社が直面しているプレッシャー(知っている範囲で)

商談メモに残っている情報でもいい。属性のみならず、その人が見せた「反応の記録」を渡す。顧客との対話が録音してあれば、それは「宝の山」になる。なぜなら、その中には顧客の内側が、言葉と沈黙のかたちでそのまま入っているからだ。AIは、そこから四つの力を推測することができる。

新井は、過去の顧客との商談に関する情報をAIに読み込ませ、その顧客のAIペルソナを作った。

そのうえで、AIに聞いてみる。
「切り替えるとしたら、何が一番不安ですか」

AIの答えは意外なものだった。「5年前、別のサプライヤーに切り替えたときラインが2日止まりました。あのとき現場のライン長に謝りに行ったことを、今でも覚えています。品質や価格より先に、その記憶が来るんです」

新井は画面を見つめた。
すっかり忘れていた。いや、探そうとも、していなかった。


半分の問いしか、していなかった


ペルソナができたら、次は問いの番だ。 4つの力に沿って問いを向けていくと、言葉にならなかった顧客の本音を耳にすることができる。

現状への不満を聞く。
「いまの取引先に、どんな不満がありますか」
「このままでいった場合、1年後に何が困ることになりそうですか」

新しい選択肢への期待を聞く。
「この提案のどこに、可能性を感じますか」
「もし切り替えがうまくいくとしたら、誰の仕事がどう変わりそうですか」

変化への恐れを聞く。
「切り替えを検討するとき、何が一番不安ですか」
「社内で反対されるとしたら、どんな理由が出そうですか」
「万一トラブルが起きたとき、誰が責任を取ることになりますか」

現状維持の慣性を聞く。
「今の取引先を続けてしまう一番の理由は何ですか」
「変えるのが面倒だと感じる部分はどこですか」
「正直、今のままでもなんとかなると思いますか」

新井が三件の商談でしていたのは、この問いのうち上半分だけだった。
下半分──恐れと慣性の問い──を、一度も確かめていなかった。

こうして聞くと、AIペルソナは、大切なことを教えてくれる相棒になる。 顧客の中で何が前に進む力になっていて、何が引き止めているのかを、分解して見せてくれるのだ。

もちろん、AIペルソナの答えは本物の顧客ではない。あくまで仮説だ。しかし商談に臨む前に「この人は何に止まっているか」を考えておくことと、何も考えずに性能表だけを準備することとでは、商談の質がまるで変わる。


打ち手は、止まる場所で変わる


4つの力で顧客を見ると、提案の方向が変わる。

▶ 変化への恐れが原因ならば、安心の材料を用意する。

切り替え時のサポート体制、段階的な導入オプション、既存ラインとの互換性確認、万一のときの補填ルール。これらは製品の魅力を増やすものではなく、「失敗しても大丈夫」という保険を渡すものだ。

▶ 現状維持の慣性が原因ならば、切り替えの手間を小さくする。

いきなり全ラインの変更を提案しない。まずひとつのラインだけ試す。既存の仕様をできるだけ引き継ぐ。最初の立ち上げを現場に張り付いてサポートする。「小さく始められる」という設計が、「変わりたくない」という引力に対抗する。

▶ 現状への不満が薄ければ、変わらないことのコストを見える化する。

「今期は特に問題ない」と思っている顧客には、現状を続けることによって積み上がるコストを一緒に確認する必要がある。EVシフトが加速するなかで現行部品に依存し続けるリスク、競合が対応を進めるなかで自社が後れを取る可能性。見えていないコストを言語化することで、はじめて「変えなければ」という不満に火がつく。

打ち手が変わると、商談の準備も変わる。

新井がすべきだったのは、二週間かけて提案書を厚くすることではなかった。先方の担当者が何に引っかかっていたのか、どこで「やめておこう」と思ったのかを確かめることだった。

「いいですね」はうそじゃなかった。ただ、恐れと慣性がそれを上回っていた。 本音のまま、断り文句になっていたのだ。


気づきは、渡すと資産になる


ここまでの話は、新井ひとりでできること。
商談メモとAIがあれば、誰にも許可を取らずに始められる。

しかし、この挑戦には続きがある。

翌朝、新井は三件の商談メモを「不満・期待・恐れ・慣性」の四行に書き直し、チームのチャットに貼った。上司への報告ではなく、独り言に近いつぶやきだった。「たぶん、品質より五年前のライン停止の記憶に止まっていたんだと思います」。

しかし、新井が三件の失注から見つけたこの力学は、彼のファイルに眠らせておくには惜しい情報だ。同じ顧客層に提案する同僚が、同じ場所でつまずく可能性が高いからだ。

失注した案件の力学を、チームとして学ぶ機会はほとんどない。「負けた話」は報告しづらく、報告しても「次がんばれ」で終わる。個人のファイルに眠り、次の担当者には届かない。

しかし、4つの力で記録された失注は、ただの「負けた話」ではなくなる。

不満が弱かったのか。恐れが上回っていたのか。慣性が想像以上に強かったのか。そう記録されていれば、「買う・買わない」の結果報告ではなく、「何に引き止められているか」という顧客の力学の記録になる。それは責める材料ではなく、次の誰かの地図になる。

ひとりがAIペルソナと対話して作った仮説を、チームで持ち寄る。すると、個々の商談メモからは見えなかったパターンが浮かび上がる。さらに誰かが顧客の生の声を入手できれば、仮説の精度を高められる。

「この業界の調達担当者は、期待より不安を先に解消したい」「この顧客層の慣性は、担当者ではなく現場のライン長にある」──ひとりの練習が、チームの目になる。

個人で始めたことの価値は、チームに渡した瞬間に何倍にもなる。観察する人が増えるほど、地図は精緻になる。始めるのに組織の号令はいらない。でも、続けた先には組織の学びがある。

AIは、集まった観察からパターンを見つけるのが得意だ。しかしその素材──顧客の言葉、沈黙、反応──は、その場にいた人間にしか残せない。AIが力を発揮するために、現場で感じたことを言葉にして渡す人間の役割は、むしろ大きくなる。


提案を磨いても動かないとき、たいていは問う場所が違う。

「この顧客は、何に止まっているのだろうか」

まず、あなたがひとりで問うてみよう。
そして見えたものを、隣の席に渡してみよう。


この話には、続きがあります。

「顧客役のAI」を手に入れた新井は、このあと、AIの「いいですね」に騙されることになります。顧客の目のはずが、いつのまにか自分たちの鏡になっていた──という話です。


この記事で触れた「顧客の目をAIに宿す」というアイデアの全体像は、拙著考える組織で深く論じています。現場の観察を組織の資産にする仕組みに関心がある方は、覗いてみてください。

また、「商談メモがない」「顧客データが手元にない」という場合でも、AIシミュレーションを使ってゼロからAIペルソナを設計する方法も、同書に収録しています。


引用・参照文献


最後まで読んでくださって、ありがとうございます。

AI時代の組織論。この最新作、きっとあなたのお役に立つと思います。

また、この記事に関心のある方には、こちらのマガジンをおすすめします。

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斉藤 徹(とんとん)
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