「社員には内緒にしてね」と言った僕が、資金繰りの表を七人で囲むまで
「今月末の支払い、どう工夫しても足りません。どうしましょう」
1993年4月。青ざめた顔で報告に来た経理担当者に、僕は答えました。
「なんとかするよ。不安が広がるから、社員には内緒にしてね」
給与、家賃、機器の仕入れ、外注費、広告費、税金、社会保険。ぜんぶ払うと、手元のお金が足りない。来月は、もっと足りない。払えない額が、雪だるまのように増えていく。
一人で立ち上げたフレックスファームという会社です。創業わずか一年で月商一億円まで伸び、社員は四十人を超えていました。電話情報サービスのブームに乗って、僕は入ってきたお金をそのまま次の投資に回していました。
絵に書いたような自転車操業。
漕ぐのをやめれば倒れることに、漕いでいるあいだは気づかなかった。
でも、ブームが去ると、月商は一気に半分以下に落ち込みました。
これをみんなが知ったら、大変なことになる。僕はそう思いました。仕事に集中できなくなる。いい人が辞めてしまう。取引先に噂が広がれば、仕事までなくなるだろう。
だから、僕がひとりでなんとかするしかない。社員にはいつもどおり働いてもらい、給与だけは払い続ける。そのために銀行をまわり、頭を下げ、会社を救う。
その時、僕は30才。それが、経営者の仕事だと思っていました。
騙したかったわけではありません。守りたかったのです。
少なくとも、そのときはそう思っていました。
社員に隠して、家族の土地を差し出した
僕は自宅を担保に入れて、銀行からお金を借りました。
土地は父の名義。二世帯住宅の一棟は父、もう一棟は僕と妻の共同名義です。銀行は、根抵当をつければ六千万円まで貸せると言いました。
母に頼みました。母は驚いたそぶりも見せず、父と相談してみると言いました。妻は少し心配そうな顔をして「そうなの?」と聞き、僕が黙ってうなずくと、「わかった」と言いました。
数字は隠せても、空気は隠せなかった
仕事が減っていく。経営陣の顔がこわばる。
支払いの話が、すこしずつ漏れ聞こえてくる。
「やっぱり噂は本当なの?もしかして、フレックスはまずいんじゃない?」
手元資金が足りないことを知っていたのは、僕と共同創業者の福田、それに経理担当者だけ。でも、勘のいい社員は薄々気づいていたのでしょう。ひとり、ふたりと、辞めていく人が出ました。
何が起きているかわからないとき、人は見えないところを想像で埋めます。不安なときの想像は、悪いほうへ向かい、噂になって広がります。
僕には、それがわかっていませんでした。というより、わかろうとしなかった。表面上は伸び盛りのベンチャー経営者を演じていて、弱っている自分を人前に出す勇気がなかったのです。
ひとりで見ることは、覚えた
そこから三年。なんとか持ちこたえましたが、僕の仕事はほぼ資金調達の一本になりました。未払金はどんどん溜まります。日に二十行以上の銀行に電話をかけたこともあります。借金は四億円まで膨らみました。
社員の給与だけは一度も遅らせませんでしたが、その代わり僕と福田の給与は細くなり、社員の給与をクレジットカードで前借りしていました。
深夜に帰宅して、屋根裏の部屋で本を読むのが習慣になりました。
現実逃避でした。そこしか逃げ場がなかったのです。
つらい日が延々と続く。そんな中で、ある夜、ふと気づきました。
目の前の現実を変える力は、僕にはない。でも、それをどう受け止めるかを決めているのは、僕自身だ。どれだけ固く絡まった糸の玉でも、一本ずつ選り分けていけば、必ずほどける。
その夜から、僕は現実を直視できるようになりました。
会社は、ぎりぎりで生き延びました。
現実を直視し、今に集中する。その力は、それから十年以上、僕を支えてくれました。数年後に僕がその会社を追われたときも、たぶんそれで立っていられたのだと思います。
十六年後、また同じ淵に立った
福田と二つ目の会社を作りました。ループス・コミュニケーションズです。
2008年9月15日。ある投資家との打ち合わせの最中、会議室のテレビにリーマン・ブラザーズ破綻のニュースが流れました。再建のために進めていた事業売却は、契約直前で白紙になりました。
このとき社員は三十五人。六人が事業を引き継ぐ新会社へ移り、二十二人には、待遇を落とさずに移れる会社を探して、全員移籍してもらえました。
残ったのは、僕と福田を含めて七人。
未払金は一億円。債務超過は一億五千万円。完全に倒産以下の状態です。
ある深夜。原因をたどると、自分の心に行き着きました。
会社をもっと大きくしたい。株主の期待に応えたい。その焦りから、顧客の笑顔よりも売上の数字を見るようになっていた。無理な受注も、無理な拡大も、僕の判断でした。
この時、僕は、ようやく起業家の矜持に目覚めた。
幸せの起点になること。社員、顧客、社会と幸せを広げること。
この決断が、十六年前とは違う景色につながっていきました。
七人が、ひとつの長机を囲む部屋
引っ越し先は渋谷のマンションの一室です。トラックを借りて自分たちで運転し、夜中までかかって運び込みました。エントランスには時おりペットの臭いが立ちこめ、風俗関連かなと思われる方々も出入りしていました。小さな部屋に長机を置いて、七人みんなで囲むように座りました。
「俺たちは選ばれて残ったんや」
社員のひとりが、仲間を励ますように何度もそう言っていました。そう繰り返さなければいけないほど、みんな不安を抱えていたのだと思います。
年末の忘年会で、僕は福田と相談し、みんなに大入り袋を渡しました。薄謝と、一人ずつへの手書きのメッセージを入れて。
翌2009年1月5日。年初のキックオフ・ミーティングで、六人を前に、僕はお詫びから話しはじめました。
「まずはじめに、みんなに謝りたい。これまでの経営は間違っていた」
そして、営業状況から収支実績、資金計画、借金の状況、分割返済の過程、日々の資金繰りに至るまで、すべてを社内で公開しました。
十六年前に隠したような数字を、今度はぜんぶ机上に並べたのです。
奇妙な連帯感
不安が消えたわけではありません。危機的な状況は、何も変わっていない。
ただ、数字が見えると、空気がすこしずつ変わっていきました。
今月は倒産しない。来月も、この入金があれば乗り切れる。
ならば、行けるところまでやってみよう。
「何が起きているかわからない」という不安が、「いま何が起きていて、自分には何ができるのか」という問いに変わりました。
七人で長机を囲む日々。でも、まさに毎日が緊急事態です。
「この日に、資金残が十万円を切ってしまう。何か手はありませんか?」
すると、健さんが言いました。「僕のお客さんに相談して、この売上の半金を前金でいただけないか交渉してみるよ」
経理の深田さんはホッとしたように話しました。「ありがとうございます。そうなると助かります」
年長で仕切り屋の上梨くんがトラブル対応に奔走する横で、元サッカー選手の北野くんが丁寧にお客様に対応する。深田さんが寂しそうな顔で資金繰り表を更新していると、健さんが主婦のような節約アイデアでフォローする。何か起きると福田のまわりに人が集まるけれど、直人くんだけはひとり黙々と新聞社のプロジェクトを進めている。
誰かが指示したわけではありません。一人ひとりが目の前の現実を見て、自分にできることを考え、動きはじめました。
稟議もないし、経費申請すらない。みんな見えているのですから。透明なお陰で、無駄遣いが問題になったこともありませんでした。
結果的に、この七人は、ひとりも会社を去りませんでした。
そして、二年後。一億円の未払金を完済できたのです。
守っていたのは、誰だったのか
1993年、社員を心配させたくないと思った気持ちは、本当でした。
けれど、その奥には、有能な社長に見られたいという思いがありました。
大丈夫なふりをして、かっこ悪い自分を見せたくなかった。
守っていたのは、社員ではなく、自分のプライドだったのかも知れません。
もうひとつ、僕は社員を信じていませんでした。現実を知れば、不安になり、仕事が手につかなくなり、辞めてしまう。そう決めつけていました。
悪い数字を見せても、現実はよくならない。でも、見えない不安に怯えていた人たちは、同じ現実を見て、一緒に考える仲間になりました。
深夜の屋根裏で、現実から目を背けないと決めたのが1995年です。それを人と一緒に見られるようになるまでに、十四年もの時間がかかりました。
ひとりで直視することと、同じテーブルに載せることは、まったく別の勇気だった。それがわかったのは47才。半生をかけた学びでした。
熱いやかんに何度もさわると、信念が生まれてきます。
今は、もう迷いがなくなりました。
悪い知らせを伝えるのは当たり前。一歩進めて、思ってること、言ってること、やってることを一致させることを心がけるようになりました。
人を信じるというのは、仕事を任せることだけではない。
立場を超えて、他者を「人生の主人公」として尊重する。
そのうえで、同じ現実を、同じテーブルにのせて、話し合う。
結局、それが一番うまくいくんだ。
多くの失敗は、僕に一貫した生き方の大切さを教えてくれたのです。
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斉藤 徹(とんとん)
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